小説

まほらば

 延々と続く白い砂が、繰り返し息を吸う音か、或いは、波が砂を食う音だろうか。わたしの鼓膜を艶めかしく撫でるのは白波のしらべである。陽光が水面に砕け散るのを、わたしは未だ慣れない低い場所からただ、見ていた。潮騒のこえがわたしの鼓膜をやさしく撫でる音を思いながら、目を閉じれば、自然と頭がゆっくりと下がる。わたしは普段は煩わしくてたまらない車輪のまわる音さえも、今だけはさざ波の音に溶けて心地が良かった。

「おはよう」

 わたしは、存外遠くの世界に行ってしまっていたらしい。良く知った声が、わたしの名前をやさしく呼んでいる。准がわたしの名前をやさしく呼ぶときの声はけっこう、好きだと思う。今だけは准には申し訳ないとはおもうが、そうではない。二度ほど、優しく肩を叩かれたときに渋々、上がることを拒む瞼を無理やりに押し上げてもたげた首を上げれば、目覚めの挨拶も良いところ、「具合は悪くないか」と准はわたしに問うた。「ううん」しかしながら、わたしの喉から出た声は半分くらい、寝起きのかすれた声が喉から搾り出ただけであったせいか、准はわたしの顔を慌てて覗き込んできた。准の明るい色をした双眸が、心配そうな面持ちでわたしを見ている。「平気だよ、我慢もしてない」わたしの顔色が悪くないことを知るやいなや、「なら良い」と言い、再びわたしの乗る車椅子を押した。准の歩く速度は、まだわたしが二つ足で立つことができていたころよりもずっと、ゆっくりである。車輪が穏やかに回る音が、白波のしらべに溶けては消える。その合間合間に、もう耳が痛くなるほど聞いた准のお小言が挟まるのが、どうも格好が悪かった。「昔からすぐに無理をするから、だいたい……」長く続く、彼のお小言を聞くたびに、彼の面倒見の良さをひしひしと感じる。「ありがとう、でも、体調が悪くないのはほんとうだよ」「なら安心した」准はわたしのお母さんかよ、そう軽口が叩けなくなったのはそう、遠くない日のことだ。少なくとも、わたしがこのような状況になったころにはもう、そのようなことは口が裂けても言えなくなってしまった。別に、わたしの両足が動かなくなってしまったのは言ってしまえば悪い事故のようなもので、准のせいだけでなく、ほかの誰のせいでもないのに、准はわたしの動かすことをわすれてしまった両足を見ては、ひどく辛そうな顔をすることがある。わたしに悟られないように、わたしの顔を見る時は、彼が外に向けている時の明るい顔をするようにふるまっているようであるが(とはいえ、嵐山准はわたしの知り合いの中では普段から随分と明るい顔をしていると思う)、時折口元の動きがぎこちない。嵐山准と言う男は、ひどく、正直な人であると思う。悪い言い方をすると、ただウソをつけない人ということでもある。こうして、わたしの前で彼自身の感情――特に彼はわたしの動かない両足をおもうときの感情である――を後ろめたいと思っているのか、一生懸命ひた隠したがるきらいがある。先に言った通り、彼はうそをつけない男であるから、うまいごまかしも、わたしの前ではどうも格好がついていない。

「久しぶりの遠出だから疲れたんだろう。戻るか?」
「もう少し、ここに居たい」
「わかった」

 潮風が吹くせいなのか、それともそうきれいな道路にする必要がないせいなのかは知らぬが、海岸沿いのコンクリートで舗装された道路は少しばかり凹凸が多い。「暑いだろ、日陰のほうに行こうか」「うん」「涼しくて、海が一番きれいに見えるところに行こう」潮騒の音と車輪の音、そして准の穏やかな声が混ざる。車輪で歩くたびに起きる、普段は煩わしくてたまらないと思う振動も、今だけはどうしてか心地が良かった。

 海は、好きだった。今も、好きな場所であるには違いないが、少なくとも、わたしが未だ、自分の足を使って、歩くことができていたころとは違う種類の好きになってしまったように思う。あの頃は、非番の准を誘って良く出かけたものである。しかしながら、わたしの場合はこうして、独りで身動きを上手にとることが難しくなってしまってからは自発的に行こうと思わなくなってしまった。自分で身動きを取ることの難しい体になってしまってから、海というものが、自分にとって好きな場所から、憧憬の場所へと変わってしまった。波打ち際まで続く砂浜を、車椅子の車輪で泳ぐことは出来ない。当然、足が動かないのだから、ひとりで波打ち際まで行くこともできなければ、砂浜を駆けることも、今のわたしにはもう、できない。わたしがもう一度それをやりたいと望んでも、無理なものは無理なのである。

「出かけないか」

 わたしが非番の准を誘って連れてきてもらっていたのに、いつの間にか、非番の准がわたしを誘って海へと出かけるようになった。准がわたしを誘うとき、なぜだかわたしは彼の口元の方を見てしまう。彼の口元が、穏やかな弧を描いていると知って初めて、安心できた。はじめ、准が気を使ってわたしを誘っているのだろうと思っていたから、「もう、いいよ」と、そう彼に言ったのであるが、准は「俺が一緒に行きたいだけだから、付き合ってくれ。行きたくないなら、もう言わない」と少しばかり悲しそうな顔をして言ったのを見てからは、もう二度と言っていない。

「連れて行って」
「ああ、一緒に行こう」
 
 准と海に出かけるときは決まって、もう二度と歩くことは出来ないこの足をつかって、ひとりでは到底たどり着けないだろう、水平線の向こうにたどり着く夢を見る。陽光が砕けては溶ける波が、空と混ざろうとする場所のほう、わたしの焦がれる憧憬の地を見せるのは、准と一緒であるからなのか、この場所に居るからなのかは分からない。准が比較的穏やかな声で、わたしの名前を呼んだ。「着いたら起こすから、寝ても良いぞ」もう、わたしの目も、耳も、すべての感覚が遠くの方へと出かけて行こうとしている時に聞こえる彼の声は、砂浜に打ち寄せる波のようだとぼんやり思った。
 
 :

 好きだった日のことを思い出す。夏の海よりも、秋の海よりも、わたしは未だ海開きが始まる前の春の海が好きだった。冬の匂いが去り、夏の匂いが水平線の向こうから運ばれつつある春の海はもっと良かった。夏になれば色とりどりのパラソルが、浮き輪が、出店の目立つ文字の書かれたテントが、砂浜のそこらじゅうに立ち並び、人でごった返しているのであるが、春の海――まだ、海開きが始まる前の海のことである――は、そのような人という嵐がやってくる前の静けさを保っている。白い砂浜を埋め尽くすパラソルも、浮き輪も、波の音をかき消すような人の声も聞こえなければ、出店も、何もかもが無いさみしい白い砂浜ばかりが続く。サンダルの隙間と言う隙間から入り込んでくる砂粒が煩わしくて、誰もいないことを良いことに、わたしは申し訳程度に足の指先だけ出ているサンダルのストラップを乱暴に外して脱いで、足の指先を砂浜に着けた。陽の落ち始めた午後、暖められた砂粒は、燃えるように熱いという訳でもなく、足先をほどよくあたたかくしてくれるので良かった。少し楽しくなって、サンダルを自分の手元から、右と左、違う方向に投げてみた。野球選手の投げるストレートよりもずっと速度が遅い上にへたくそな軌道を描いたサンダルが砂の上に落ちるのが見えた。
 さらさらと零れる砂を蹴り上げて「准」と彼の名を呼べば、見ている方が暑くなるような、未だ紐を上の方までしっかりと結んでいる靴を履いたままの准が、あきれたような顔をしてわたしの足を見て口を開いた。「ガラスを踏むだろう」「大丈夫だよ、たぶん。何も無いよ」「砂に隠れて尖った貝がおちていたらどうするんだ。ケガをしてからだと遅いぞ」そういう小言ばかりを言う。わたしは准の小言に対して「お母さんかよ」と言うことはあれど、彼の薄い唇が、わたしのことを心底想って述べている言葉であることを知っている。だから、その小言を聞くこと自体は嫌いでなかった。残念なことに、わたしの口から准に向って出てゆくのは准のこころを汲むような言葉では無く、照れ隠しにしては反抗期の子以上にどうしようもなく幼いふるまいであった。いずれ、わたしは乱暴に脱ぎ捨てたサンダルをまたすぐに履くことになるのだろう。これは予定調和である。
 
 わたしは足で白い砂と遊ぶ。山脈を描くように続く砂の山々は、それらに体重を掛けるたびに、山の形を砕いて足を沈めてゆくのが面白い。これは、学校のグラウンドにある砂ではとうてい経験することが出来ないものであるせいか(そもそも、グラウンドで裸足になろうとは思わないのであるが……)、ひときわ新鮮で、わたしの興味を引くには十分であった。砂で遊んでいると、わたしのそばにいた准が、わたしから背を向けて歩き出した。「ねえ、准」どこ行くのと、彼の背を追うように一歩踏み出したとき、准は「そこから動かないでくれ」と言った。わたしは、准のその言葉に足を止めて、彼の双眸を見るのであるが、わたしの双眸に映るのは、わたしの足が止まったことを確認して歩き出した准の後姿だけである。准のやわらかそうに見える黒髪が、潮風に揺られている。結構、准とは一緒に居たのにもかかわらず少しも気付きさえしなかったが、准の背は存外、大きいのだということに気づく。わたしから一歩ずつ、離れるように歩いてゆくたびに、彼の背中が小さくなって行く。「准」「少し待ってくれ。そのまま」准は振り返って、明るい色をした双眸でわたしの顔を見た。まるで、彼がきょうだいの世話を焼くときに見せるような、柔和な表情である。「そう、そのままいい子にしていてくれ」准はわたしが足を一歩も動かそうとしないことを見て安心したような顔をして、ふたたびわたしに背を向けてわたしが放り投げたサンダルの両方、それも右足と左足とが別の方へと飛んでいるのをわざわざ拾いに出かけた。わたしは自分でサンダルを放り投げておきながら、存外遠いところまで投げていたようだった。准の足が白い砂の中に埋まるのを、身動きの取れないわたしはただ見ていた。

「待たせたな」
「……わたしが投げた奴だよそれ」
「ああ、知っている」
「ごめん」

 その間にも、わたしの足元の在る場所からわたしの歩幅の間に、わたしの足の裏を切ってしまうようなものが無いかを探しながら、わたしの顔とを交互に見る准は器用だと思う。「そんなに心配しなくていいよ。ケガしてないでしょ」「それはただの結果論だろ」暫く、わたしが裸足のまま砂浜で遊んでいるのを彼なりに我慢してみていたのだが、「そろそろ靴を履いてくれ」といよいよ我慢できなくなったようにそう言った。准は、わたしが好き放題わがままを言うことに関して、大概彼のほうがわたしよりも先に折れてくれることが多いのであるが、彼にとって絶対に譲れない線に在ることに関しては別で、頑として譲らない男である。例えば、彼の溺愛している家族の身のこと、そして、彼の周りに居る人間の傷病要因が傍に在るときは、それから一生懸命遠ざけようとする。彼も、言うことを聞かない人なぞ放っておいて、実際にけがをした後に「ほら言わんこっちゃない」と鼻で笑ってやればいいのに、嵐山准というとても良くできた男はそれを許しはしない。そして、准は案外我慢よわい。わたしの言うわがままと、彼の譲れないものの線とがうまく重なった時、お互いに我慢比べになってしまうのは何時ものことであるが、かといって、准があっさり折れるわけはなく、彼は強行突破と言う形で自分の線をきっちり守ろうとする。結局のところ、わたしが准によって折られることになる、というのが正しい。「ほら」「砂がサンダルに挟まって気持ち悪いから嫌なんだよ」わたしの物言いにため息をついた准が、珍しく折れたと思ったらそんなことはなく、片手でわたしの両方のサンダルを持ち直し、いきなり腰を低くしたと思えば、わたしの膝裏からすくい上げるように、わたしの肉体を持ち上げた。「何するの」「砂が入らなければいいんだろう、なら問題ないな」大有りだろ、そう軽口を叩けば准は「ハハハ」と声を出して笑って見せた。わたしの体の均衡は、膝裏を支える准の左腕と、わたしの背を支える准の右腕、要するに、准の両腕の中だけで保たれている。「……高い」准に縋るように、彼の首元に向けて腕を伸ばせば、准はわたしが彼の首元に腕を回しやすくするようにほんの少しだけ首を下げた。存外、器用なものである。

「絶対落とさないでよ」
「落とさないさ」

怖いなら首のところに腕をしっかり回しておいてくれ、准はそう楽しそうに笑った。「うわあ」彼のそういう、歯の浮くようなセリフが自然と出てくるのもずるいと思うが、それが似合ってしまうのはもっとずるいと思う。准の首元に腕を回して、自分の体を准に密着させているのがなぜだか恥ずかしかった。

「……やっぱり怖いから下ろして」
「きちんと履くと約束するならそうするよ」
「わかった、約束するから」

照れ隠しも良いところ、少しの可愛げのない言葉を言ったところで准にはなんの効果も無い。そもそも、わたしにくっつかれていた准が、何かしら特別な感情を抱いているのかさえも分からない。彼のふるまいはきょうだいにするふるまいとそう変わらないし、もしかしたら、意識しているのはわたしだけかも知れないと思えば、余計に恥ずかしくなって、わたしを下ろそうとしない准を急かした。「早くしてよ」「ああ。……悪いな」准は一言謝って、准はわたしのサンダルを砂浜の上に落とす形で転がした。べつに、サンダルを転がすことをわたしに謝る必要はないのに、准のそういう、人の物を丁寧に扱おうだとか、わたしのサンダルを丁寧に扱わなかったことに対する謝罪だとか、人の気持ちを汲んで行動するところが好ましかった。准が落としたサンダルは、ひっくり返ることなく正しく上を向いていた。「明日は晴れかなあ」ずっと小さなころにやった、履物を飛ばして行うお天気占いのことを思い出す。准はキョトンとした顔をして「そうだなあ、晴れると良いな」と言った。わたしがサンダルに足を入れてすぐに、准がサンダルのストラップを留める。「これで外れないだろ」「ありがとう」くるぶしに当たる准の手が熱かった。

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 ゆらゆらと、揺れている。自分の足で立っていた時でも、車椅子に乗るようになってからも、あまり感じるのことの無い不思議な感覚だ。ただ、どこか懐かしい。近しい感覚は、まるでたゆたう水面の上に体を放り出して身を任せているような、わたしの意思とは関係のない別の力が働いている感覚である。

「おはよう。気分は?」
「悪くないけど……」

 わたしが思う以上に、准の顔が近くにあったので驚いてしまった。わたしを誘っていた瞼の裏にあった憧憬は、目と鼻の先にあった准の顔のせいで雲散霧消してしまった。「准の顔が近くにあったからびっくりしただけだよ」「そうか」まだ、夢の続きを見ているのか、はたまたこれが本当に起きていることなのかが分からなくて、わたしは両足の腿から膝のあたりに力を入れた。相変わらず、わたしの足はわたしの言うことを聞いてはくれず、うんともすんとも言わなかった。履いていたはずの汚れ一つないサンダルはいつの間にかどこかに行っていて、わたしの履物を失った足は、准の左腕を支えにだらんとぶら下がっているだけである。低い目線に慣れてしまったわたしにとって、准の頭一つ、二つほど下がったところに視点があるのは慣れない。

「怖いなら首のところに腕をしっかり回しておいてくれ……いや、そうしてくれた方が助かるな、俺としても」

准がそう言うので、彼の言葉に従うかたちで彼の首元に向けて腕を伸ばせば、准はわたしが彼の首元に腕を回しやすくするようにほんの少しだけ首を下げた。矢張り、器用なものである。准の首に腕を回して、彼の体、胸元に体を寄せるように、准にぴったりとくっついた。准は「そっちの方が支えやすくて良い」と、機嫌がよさそうな顔でそう言った。

「寝ちゃってごめん、詰まらなかったでしょ」
「楽しいよ」
「……退屈じゃなかった?」
「全然」

 いつの間にか、太陽は西の方へと傾いていた。「ずっと待っていたの?」「勝手に待っていただけさ」「……准、」「俺が勝手にそうしたんだ。だから、謝るのはよしてくれ」わたしが、准に車椅子を押してもらう形で海に来るときは、車椅子で通れる限界だと思われる場所――コンクリートで舗装された道路の中でも一番海に近い、砂浜とコンクリートの境界あたりにある、屋根付きのベンチのあたり――までであるが、今のわたしは准に抱えられて限りなく海に近いところまで来ていたようである。准は相変わらず、夢の中で見た准と同じように、紐を一番上までしっかりと締めた暑そうな靴を履いたままで、砂を食いに来る海水に触れるか、触れないかの瀬戸際に立っている。目の前の海水は透明で、底の白砂を巻き上げるようにして動いているのも見えるというのに、それが遠くになればなるほど、海底のサンゴ礁の色か、海藻の色か、はたまた、水の色か――それらも、今のわたしでは近づくこともままならないのだから、色の正体を想像することしかできないが――を溶かし、更には西日の燃えるような橙をも欲張って、水面は色の濃い橙色を映す。相変わらず、延々と続く海の向こう、繰り返し寄せてはかえす波の上に、橙色の光は砕けて散る。透き通るような青、地平と空の境界が、曖昧な色をしていたはずなのに、今では燃えている空と、空の色を海色の上に溶かしている。もう、数時間もしないうちに、燃える空はなりを潜め、暗い色をした夜がやってくるのだろう。

「そろそろ下ろして」
「靴を履いていないのに下ろせるわけないだろう」
「……准がやったんでしょ」
「ああ、そうだな」

准は、ばつが悪そうな顔していた。勝手に靴を脱がせたことを悪いと思っているのか、それともわたしが寝ている間に、ここまで砂浜を歩いて連れ出してきたことに対してなのかは分からない。

「嫌な訳じゃないよ。少しびっくりしただけ」
「なら、もう暫くそうされていてくれ。車椅子も、靴も全部向こうに置いてきているから今すぐには下ろせない」
「うん」
「悪いな」
「わたしのこと、絶対落とさないって約束してくれるならいいよ」
「約束する」

 たしかに、すぐそばにわたしの車椅子の姿が見えない。准が「向こう」と言ってわたしの体を、車椅子のあるだろう方角へと向ける。彼の視線を追って見た方に、豆粒くらいの大きさにしか見えない屋根付きの休憩所があるのが見えた。准の言うのはきっとあそこなのだろう。わたしの車椅子でも行ける最も海に近い場所は、あそこだ。准に押してもらうとはいえ、車椅子では砂浜を渡るのは難しい。実際に渡ろうとしたことは無いが、一歩踏み出すごとに砂に沈む足を見る限り、車輪も同じように埋まって、うまく走れないだろうということだけは想像に易い。

「結構歩いたね」
「そうだな」
「……腕の限界きたりしない?」
「心配しなくていいぞ。俺も疲れる前にちゃんと戻るよ」

だから安心してくれ、准はそう言って、さらにベンチがある場所とは逆の方角に向けて歩き出した。「もう少し、付き合ってくれないか」「良いよ」「ありがとう」准が、きっとわたしに馴染みのある歩幅よりもずっと大きな一歩を踏み出すたびに、砂を踏みしめる音が聞こえる。太陽が、海と空とを橙色に燃やすのを見ながら、数時間も経たぬうちにやってくるだろう夜のことを想う。太陽が沈み切ってしまう前、橙色の光源が、水平線の向こうへと顔を半分ほど隠してしまっているのを、准の腕の中に居ながら見ている。わたしが、焦がれてやまない海の近くに、准の足を使って、たどりつくことができたのだ。准はたぶん、わたしがこうしてまた、砂浜の上、海と砂浜の際へ行きたいと思っていたことを知らないのだろう。きっと、今回のも彼の気まぐれであるのには違いないのであるが、うれしいことには変わりない。「ねえ、准」彼の首に回している腕に力を入れ、准の肩に顔をうずめた。わたしの知る准の家のやさしいにおいと、ほんの少し汗のにおいが混ざっている。

「どうした」
「……ううん、何でもない。ちょっと、呼んでみたかっただけ」
「呼びたいなら好きなだけ呼んでくれて構わない」
「……そんなにたくさんはいい」
「遠慮するなよ」

准が口を開くたびに、密着している准の喉元あたりがやさしく震えているのがわかる。ずっと、近いところで聞こえる准の声が、わたしの鼓膜をやさしく揺らすのが心地よかった。「ねえ、准」「どうした?」「……」ただ一言、准にお礼の言葉を言えばよいだけの話なのに、喉につっかえてうまく言葉が出てこない。喉から出てこない声をごまかすように、わたしがもう少しだけ、准に強くしがみついた。准は、わたしの次の句を待っていた。急かすことをするでもなく、波の音をただ一緒に聞いて、わたしの喉から、次の言葉が出てくるのをじっと待っているのだ。ざざん、ざざん。わたしの鼓膜を揺らすのは、打ち寄せる波が砂を繰り返し食らう音である。そして、わたしにいちばん近いところに居る准が、ゆっくりと呼吸をする音が聞こえていた。

「嬉しかった」

 准を待たせておきながら、出てきた言葉はそんな短く、なんの捻りもない言葉である。そうして、准が息を呑む音だけが、密着しているせいか余計に大きく聞こえた。さすがに、准がどんな顔をしているのかまでを見るのが怖くて、わたしは変わらず、准の首元に顔をうずめたままである。「……本当は、」暫く、准がようやく口を開いた。「本当は、俺がずっと来たかったんだ。また、ここまで」わたしは、准の様子をうかがうために少しばかり顔を上げた。准の首元が、陽光の橙色に照らされて、赤くなっている。「何時も言い出せなかったから、寝ている間に勝手に連れてきてしまって、悪いとは思ったんだが」砂浜から海側に、随分と歩いたのか、准の靴ごと、波が砂を食らっているせいで、彼の履いている靴の色が、昼間に見た時よりもずっと濃い色に変わってしまっている。波は、わたしを抱えている准の背の向こう側のほうまで、砂を食らいに行っているらしい。どうも、欲張りな波である。そうして、その波は、打ち寄せては砂を巻き上げて、また沖のほうへと戻ってゆく「なら、今度はわたしが起きている時に連れていってよ」わたしも、准と同じであったと、ほんとうはずっと、ここまで来たかったのだと、そう素直に言えばよかった。海開きが始まる前の、人のすがたの見えないさみしい海の波打ち際にずっと行きたかったのだと。准に連れてきてもらえたことがうれしかったこと、本当はお礼を言わなければならないこと。言葉にしなければならないことはきっと、わたしには特に、たくさんある。

「わたしはひとりではもう、行けないから。だから、准がわたしを連れて行って」
「ああ」

 ありがとう、とわたしの喉からようやく絞り出た時に、ひときわ大きな白波がやってきた。ひときわ大きな白波は、ひときわ大きな音を立てて准の足を濡らした。准の靴から、小さな気泡がのぼる。もしかしたら、この波は白い砂や准の靴ばかりでなく、わたしがこれ以上ないほどに一生懸命搾りだした声さえも食ってしまったのかもわからない。准は何も言わなかった。准の耳にわたしの声が届いたかは分からない。黙ったままの准の顔を見ようと、顔を上げようとしたときに、准のわたしを抱え上げる腕が、わたしを一際つよく抱きしめたことから、わたしは顔を上げることさえできずに、准の首元しか見ることができなかった。相変わらず、准の首元は夕焼けに照らされて赤く染まっている。

「約束しよう」

なあ、――そう、わたしの名前を呼んだ。「今すぐ指切りすることは出来ないが、俺と約束してくれ」そう、准は言った。わたしには断る理由はひとつもない。それどころか、わたしが願っていたことに違いないのだから、小指と小指を結ぶ約束だろうが、なんだろうが構わない。「……わたしが行きたいって言ったんだよ」「そうだな。俺も言ったよ」「知ってる」「ああ」「約束ね」そう、准に言ったのち、わたしは准の返事をまたずに、准の肩口に再び顔をうずめた。潮騒の声はかわらず、わたしの鼓膜をやさしく揺らしている。きっと、この心地よい波の音は准の鼓膜をもやさしく揺らしているのだろう。海の向こう、わたしがたどり着けないだろうと思っていたところから吹く生ぬるい潮風が目に染みた。
2019-11-23