小説

傾慕

 母が病で亡くなった。わたしが十五歳になったばかりのときであった。教令院に進学したばかりの頃のことであった。学問の国と言われているこの国において、まだ治療方法が確立されていない病気はまだ沢山ある。わたしの母は運悪くその病にかかってしまい、日々弱っていくところをわたしたちに見せないようにと一人で部屋にこもりきりになってしまい、ドア越しに母と話をすることが多かった。母と顔を合わせて話をしたいとわたしがわがままを言った時、母親は言葉を詰まらせた後に、「どうぞ」と言って部屋のドアを開けることを許してくれた。わたしの知っている母親は快活であったところしか知らなかったせいか、すっかり弱り切ってしまった姿を見て絶句してしまったことをよく覚えている。母はわたしのその表情を機敏に読み取って、「あなたにはわたしの元気な姿だけを覚えていて欲しかったけれど……」と言っていたが、わたしはその母の申し訳なさそうな顔を見た時にひどく悲しくなってしまったことをよく覚えている。その後、母と会話を一言、二言交わした後に部屋を出た後、母の部屋から啜り泣く声が聞こえたのを聞いた時に、もうこの扉を開くのはやめた方が良いのだと思った。それからしばらく、母とはドア越しに話をするのが日課になってしまった。母はもう長くないのだということは、病に詳しくないわたしの頭でも十分に理解することができた。その後、母親は数ヶ月と立たないうちに死んでしまった。母の最期の姿をわたしは見せてもらえなかった。その日に母の部屋から出てきた父の口から「なまえは死んだ」という短い一言を聞いたときに、わたしがわがままを言って母の部屋に入った日以来、初めて母顔を見ることになった。母の死に顔はとても安らかで、ただ今も眠っているだけなのではないかと勘違いしてしまいそうになるほどに穏やかなものであった。ベッドの上で眠るように死んでしまった母の姿は、最期の最期まで病気と戦って逝去した人の姿には見えなかった。「お母さんは本当に死んでしまったの」そう、父に問うたが、父は顔色ひとつ変えることなく「ああ」というだけであった。今朝、母親のいる部屋のドア越しに「行ってきます」「行ってらっしゃい、今日もがんばってね」という会話を一言交わしたのが、まさか母親との最後の会話になるとは思っていなかった。「本当に……」死んでしまったの、そう母の死を認めることのできないわたしの言葉の最後を汲み取り、一縷の望みを打ち砕くように、父は「死んだ」ともう一度言った。わたしの双眸からは涙が勝手にあふれてくるのであるが、父は相変わらず無表情で、母が死んだというのにも関わらず一抹の悲しみをも覚えていないように見えた。父が泣いたところは一度も見たことがなかった。父はただ、悲嘆に暮れるわたしの隣に、何も言わずに寄り添っていた。父は母の死について、何も思っていないのだろうかと勘ぐってしまいそうになってしまったが、そんなわたしの視線を余り気にしていないのか、父はわたしの穿った視線を無視したまま、父は母の部屋にあった本を、すべて別の本棚に移そうとしていた。「何をしているの」そう父に問うと、父は「荷物の整理だ」とだけ答えた。悲しみに浸る余裕など、父には存在しないとも言いたげであった。「なまえは死んだ。なまえの葬式をして、彼女の荷物の整理をしなければならない。俺に今できることはなまえの荷物を整理することだけだ」父はそう言って、母の荷物をすべて箱の中に詰めていくのを、ただ呆然と見ることしかできなかった。それが、この部屋から本当に母がいなくなってしまったのだと無理やり意識させられてしまうようで本当に悲しかったのだ。しかしながら、父にはそれは全くと言っていいほど伝わらなかった。わたしが言葉に表すことをしなかったのだから当然のことだったのかもしれない。

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母が亡くなる前から、父と母の関係は子どものわたしから見てもよくわからないものであった。友人の家の父と母は仲が良くいつでも一緒に手をつないで出かけるのだと聞いていたが、そのようなそぶりを見せたことは一度もなかった。わたしの父と母は愛し合っていなかったのだろうか。母が死んだあとの父の様子を見る限り、父が母のことを愛していなかったと言われてしまうと、ああやはりそうなのかとどこか納得してしまいそうになる。わたしの父はよくわからない人だった。ひとりの時間を愛していて、家にいても自室で本を読むことが多かったし、同じ食卓についても余り話をすることもなかった。彼はただ、わたしと母が一方的に話すのをただ聞いているだけで、時々心をぐっさりと刺すようなことを言うことがあったが、それが正論であったためぐうの音も出なかった。「もっと優しく言ってもいいでしょう」と母がそのたびに諫めていたけれども、父は余り納得していないようで「俺は間違ったことは言っていない」というだけであった。「正論だけでは人が動かないことを一番よく知っているのはアルハイゼン、貴方が一番よく知っているはずなのに」そう母が困ったように言っていたのをよく覚えている。父は昔から間違ったことは言っていないのであるが、その言い方が少しばかり鋭すぎるのだ。そのせいで、父はスメールという国の中では有名人であるはずなのに、父のことをよく知る人は本当に数えられる程度の人しかいなかった。父の先輩でもあるカーヴェさんはそんな父の様子を見て、「いつかなまえたちに愛想を尽かされても知らないぞ」と茶化すように言っていたけれども、父はそのようなことを言われたところでどこ吹く風であった。父と二人だけの生活になったわたしたちの家はひどく静かなものになってしまった。静かだったのは母が病に伏してしまってからはずっとであったような気もするが、それがより一層静まり返ってしまったように思う。わたしは静かになってしまった家に耐えられずに外に出かける時間が増えてしまった。丁度、提出しなければならない論文を書かなければならない時期であったため、それで無理やり気を紛らわせていただけかもしれない。久しぶりに家に戻ると、父は相変わらず本を読んでいた。知らないうちにテーブルの上に置かれるようになっていた小さな一輪挿しに飾られた花は、生前母の愛した花であった。「これは、父さんが?」そう、久しぶりに家で口を開くと、父は花を眺めた後に「ああ」とだけ短く答えた。その隣に置いてある杯に入っている酒は酷く度数の高い酒であるということを、わたしは知っていた。母の生前、酒を飲むのをすっかり辞めてしまったはずだった父親が家で酒を飲んでいるところを見るのは初めてだった。相変わらず父は寡黙で、表情にアルコールが入っていることも全くわからないほどであったのであるが、父が深酒をしているところを見る限り、母の死が父になんらかの変化を与えてしまったのはきっと、気のせいではないと思う。父の本棚に置かれていた本の中に、片付けたはずの母の本が仕舞われているのを見た時に、この家には確実に、母がいたのだと言うことを思い返させる。母の愛した花、それは丁寧に手入れされているようであった。一輪挿しは芸術に関して理解のないわたしからみても美しいものであった。父がこれを買ってきたとは到底思えなかったから、生前の母の趣味かもしれない。水も綺麗なものが入っていたから、この花の手入れはずっと父が一人で行っていたのだろう。父は寡黙ながら、母のことを全く愛していなかったわけではなかったのだ。普段の姿からは母が亡くなってしまったことについて深く悲しんでいる様子は全く見られなかったのであるが、母の死について深く傷ついているのは、母を愛していた父に違いないのだということに気づくまでこんなにも時間がかかってしまった。

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翌朝、シティを歩いていると顔色が悪いカーヴェさんの姿を見かけたのでつい話しかけてしまった。「君は……」そう、カーヴェさんはわたしの名前を呼んだ。わたしの姿を見たあとで、「アルハイゼンは元気にしているか」と問われたので、昨日久しぶりに家に帰ったと言うこと、それから、父が深酒をしていたと言う話を少しばかり話すと、カーヴェさんは頭を掻きむしった後に「あいつは……まあそうだよな、ああいう奴だってことは僕もよく知っているんだ」と言っていた。父がカーヴェさんにテーブルに置かれていた一輪挿しのデザインを依頼していたことをその時にわたしは知った。「依頼内容については詳しくは話せないが、あの一輪挿しはあいつが一番大切にしているものを形にしたものであることには違いないよ」そう、彼は言った。「僕が建築デザイナーであることは君も知っているだろう?その僕にあいつが珍しく頼み事をしてきたんだ。断れるわけないじゃないか」そう、ぼやくように言うカーヴェさんもまた、父の知人であったが母の知人でもあった。母の死をひどく悲しんでいたのもまた彼であったのをよく覚えている。気を遣って家に遊びにきていたのは、彼であった。しばらく立ち話をした後で、少し休もうとカーヴェさんが言い、二人で喫茶店に入った。暖かいコーヒーの香りの漂うこの喫茶店でコーヒーを飲みながら、カーヴェさんは「アルハイゼンが結婚して子を欲しがるなんて昔では全く考えられないことだよ。二十年以上昔の僕にアルハイゼンが結婚するなんて言ったところで信じないだろうさ」と言った。わたしが父と生活している時間は、確かに長い。しかしながら、父のことを何も知らないのだ。父は自らの話をしようとはしなかったし、母からもあまり聞いたことがなかったのだ。家での父のこれまでのことを少しだけ話すと、カーヴェさんは「アルハイゼンは昔からああ言う奴なんだ、でもこれだけは言える、あのアルハイゼンが家族を持つことを望むようになったのは確実になまえがいたからさ。本当はこの話をアルハイゼンの口から聞くのが良いんだろうが、あいつは多分、娘の君にも言わないだろうな。機会があるならその時に聞いてみるといいよ」「父はわたしに話してくれるでしょうか」「アルハイゼンはああいう奴ではあるけれど、君のことを無視するようなことは絶対にしないよ。何しろ最愛の娘だからな。もし不安ならセノやティナリにでもきいてみたらいいさ、彼らもきっと僕と同じことを言うと思うよ」

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 父が珍しく外出をすると言った。「どこに行くの」そうわたしが問うと、父はまっすぐにわたしの目を見て「なまえの墓だ」と言った。「わたしも、ついていってもいい?」食いつくように言ったせいで少しだけ声が上ずってしまった。父は、「来たいなら来たらいい」とだけ短く言った。父と二人で外に出かけることになったのは、母が亡くなって以来初めてのことであった。父と共にシティを歩きながら、花屋に寄る。「この花を三輪もらえるか」そう言って父は母の愛した花を買っていた。小さな花束になったその花を持ち、父はシティの外れの方に向かって歩いていた。父の歩幅は大きい。わたしの歩幅では置いていかれるのが目に見えていたのであるが、少しわたしが後ろを歩いているのを見た父が足を止めて「すまない」と謝った。

なまえにも言われたんだ、俺は歩くのが早すぎると」
「母さんに?」
「ああ。俺はひとりで出歩くことが多いから歩幅のことを考えたことがなかった。なまえに言われて初めて、彼女の歩く速度と俺の歩く速度が違うことを教えられた。それももう何十年も前の話だが……」

父はそう言って、わたしに歩幅を合わせてくれた。この時になって初めて、父の口から母についてのことを聞かされるとは全く思わなかった。父とわたしはゆっくりと歩き、母の墓の前へと行った。母の墓は日頃から手入れされているようで奇麗だった。「花を供えてやってくれないか」父はわたしに花束を渡した。

「わたしが?」
「ああ。その方がなまえは喜ぶだろう」
「母さんが愛していたのが父さんなのであるならば父さんがやった方がいいんじゃないの?」
「いや、君がやってくれ。なまえは最期まで君をずっと気にかけていた」

父に言われるがまま、母の墓の前に花を供えた。父が母の墓を黙って掃除している。掃除する必要もないくらい綺麗な墓であるところを見ると、父がこれまでもずっと定期的に来ては掃除をしていたのだろう。あの父がそのようなことをしているとは以前のわたしであるならばあまり想像できなかったことであったが、今のわたしならば父がそれをやるだろうということも理解できた。「奇麗なのに」そうわたしが言ったが、それでも父は掃除するのをやめなかった。「俺がやりたいだけだ」そう父は言った。父の表情は無表情のままでありそこから感情を読み取ることはできなかったが、父がそう言うのであれば、父の好きにさせた方がいいのだろうと思った。父が掃除を終え綺麗になった母の墓の前に、わたしはたった三輪の花束を供えた。湿度のあるやさしい風が、母の愛した花を撫でた。父は墓前の花を眺めて「ああ、それでいい」と言った。

「俺にはなまえのことが何もわからなかった」

父の独白を聞くのは初めてのことであった。

「俺は小さい頃に事故で両親を亡くし祖母に育ててもらった。祖母もまた、すぐに亡くなってしまった。俺は家族を持つと言うことに関して価値を見出すことはできなかった。人を亡くすことは辛くて悲しいだろう、それが再び起きるなんて俺は御免だった。しかし、なまえと出会ってからその価値観が揺らいだ。彼女と一緒に生きたいと、そう思った。なまえと俺は全く違う人間だ。価値観も違えば、性格も合うとは思えなかった。しかしながら、彼女との生活は心安らぐものだった。なまえの何が俺を変えたのか、俺はなまえを亡くしてからずっと考えていた。彼女の本棚にあった本を読めば何かがわかるのかもしれないと思ったが、そんなことはなかった。なまえの好んだ本は俺の好んで読む本とは全く異なっていたし、空想を描いた物語の書かれた本を読み続けた所で何も分からなかった。どんな論文や本を読んだところで分からないことに直面することは少なかったが、これほどまでに難解なことに巡り合ったことは今まで一度もない」

父はひどく冷静でいたように見えていたけれども、その実そうではなかったことを、わたしは今この時になって初めて知った。父は母のことを理解したかったのだ。母が自分の何を変えたのか、その自分自身に起きた変化を、そして、母自身を理解したいと思っていたのだろう。しかし、父の独白を聞いてもわたしは、理解の出来ないことを無理して理解しようとしなくてもいいのではないかと、わたしは心のどこかでそう思っていたのだ。自分の心のことが分からないのは当然のことであると思っていたからである。父は母の生前、わたしには学者にはあまり向いていないと言ったことがあるが、その時のことをぼんやりと思い出していた。母はそのときに父を諫めていたが、理解できないことを理解しようと向き合う姿勢になれないのだから、学者に向いていないのだということを言いたかったのだということを、今更理解してしまった。

「結局、なまえは俺を置いて先に逝ってしまった。俺は再び家族を失った。しかしながら、こうなるのであればなまえと結婚をしなければよかったということは全く思わない。結婚したこと自体が誤りだとは全く思えないのだから尚更分からない。以前の俺なら結婚したことが誤りだったのだと思っていただろうな……しかし、その理由がわからない。なまえならば俺の質問の答えを知っているのかもしれないが、なまえはもうここには居ない。俺の答えはいつまでも出ないものなのだろうか」
「……父さんは、母さんのことを愛していたの?」

わたしは思わずそう聞いてしまった。父の口から出てくる言葉を聞いていればそのようなことは明らかであるのだが、わたしは父の口から母を愛しているという言葉を聞きたかったのだ。父は暫く口を噤んだあとで、「そうか……」とだけ言った。

「愛している、という言葉についてどのような意味を包括するものであるのかは俺には分からないが、なまえを亡くした後でもなまえのことをずっと考え続けている。これは”愛している”ということでいいのだろうか」
「父さんは考えすぎなんだと思う。父さんが母さんとずっと一緒にいたいと思った気持ちは確かなんでしょう?」
「ああ、そうだな……このまま、なまえと家族三人でずっと暮らしていければいいと思っていた。それが俺にとっては平穏であり、充実した生活であったことには違いない」
「なら、父さんは母さんのことを愛していたんだよ」
「愛する、というのはそういうものでいいのか?」
「母さんと暮らしていて父さんはわかっていなかったの?」
「ああ、そうだな……俺は何も分かっていなかった。人というものはいずれいつか死ぬ、それが早いか遅いかだけの違いでしかない。いずれどのような形かで別れを迎え、いずれ悲しむことになることは心のどこかで分かっていた。それでも、俺はなまえと一緒にいることを選んだ。その選択は絶対に誤りではなかったと断言できる。それを愛しているということだというのならば、俺はなまえのことを愛していたのかもしれないな」
「父さんは今も母さんのことを愛しているんでしょう。だから今もこうしてずっと悩んでいるんだよ、違う?」
「……そうだな。言われてみれば確かに、俺は今もなまえのことを愛している」

父はそう言って空を見上げた。空は燦々と太陽の光が降り注いでおり、少し湿度のある風が穏やかに吹いていた。わたしは父のことを何も知らなかったが、今日この話をすることで、父のことを少しだけ知ることができたような気がした。父の口から、母のことを聞いたのは初めてのことであった。もっと早くに知れればよかったとさえ思う。父は母を愛し、わたしたち家族を確かに愛していたのだ。ここまで自分の感情の吐露がうまくできない人を、わたしは父以外には知らない。ふたり並んで母の墓の前で黙り込んだ後、父が口を開いた。「そろそろ帰ろうか」父はそう言ってわたしの手を取った。父の手は大きく、暖かかった。わたしがまだずっと小さな子どもだったときに、母に手をつないでもらっていた時のことをふと、思い出した。
2023-06-16