小説

懸想

 賑わう酒場の一番隅の席、そこには一人の酔いつぶれた客を残し、周りには誰一人座っていなかった。そこのテーブルを敬遠したのか、マスターの配慮なのかは分からないが、そこで潰れている男は自分の周りだけが妙に静かなことにも気づいていない様子であった。男は、酒の入った杯を握りしめながら、テーブルの上で情けなくも座礁していた。家に帰ってきたらいいのにも関わらず、家ではなくこの酒場に俺を強引に呼びつけたのはこの男だった。彼は、俺に彼自身のことを先輩と全く敬わない話についてよく愚痴をこぼしていた。その回数は学生時代から数えてもう何度言われたのかも覚えていないが、酒に溺れて座礁するこの男の姿を見て先輩だと敬うのは誰がどう考えても難しいだろう。この情けない男の前の席に座るのも嫌だったが、行かなければ行かないで家に帰ってからまた喧しく突っかかってくることはわかっていた。「会計のためだけに俺を呼んだんじゃないだろうな」そう、机に突っ伏したままの先輩に向かってそう言うと、彼は酒ですっかり真っ赤に出来上がってしまった顔をあげてこちらを向いた。もう、視線すらろくに定まっていない。この男がこのように酒に溺れることは決して少ないことではなかったが、このような状況に陥るときは大抵、仕事の依頼主との話しがうまく進まなかったときが多い。彼自身が特に依頼されたわけでもないのにも関わらず、勝手に修正案をいくつか徹夜で仕上げ、それの全てが否定されたときが多かった。彼は余計な苦労を自分でしておいて文句を言うのだからどうしようもないのである。この話をするのであれば家でやればいいのではないかと思うのであるのだが、家でこの話をすると就寝までの時間までみっちり付き合わされてしまうことになることが分かっていた。彼の止まらない愚痴がこの酒場にいる時間だけで済むのであればそちらの方が短くて済むので随分とマシだった。そうでもなければ彼の誘いがあったとはいえ、自らこの場に行こうとは決して思わない。マスターに酒を一杯注文し、渋々向かいの席に座る。マスターはこの酒に溺れている男の姿をとっくに見慣れているため、俺の姿を見た時に「お迎えかい」と言ったがそれを否定した。「面倒臭い先輩に呼ばれたから来ただけだ」と言うと「面倒臭い先輩とは何だ?僕に対する君のいつもの嫌味が始まったな」とフンと鼻を鳴らすのだが何も間違っていないので否定しなかった。真っ赤な顔をした先輩が酒を一気に飲み干し、「マスター、もう一杯!」と叫ぶのを眺めながらため息を吐いた。これは思った以上に長引きそうだと思ったからである。彼の口から次に出てきた言葉は知らない女の名前であった。──なまえ、そう彼は女の名前を溢したのである。その名前に全く心当たりがないわけではなかったが。俺の知るなまえという女は目の前で情けない姿を見せている先輩の同じ学派に所属する後輩であり、俺の同期にあたる女の名前だった。彼女の姿を見た回数はほんのわずかで、彼女と俺の面識は全くと言っていいほどなかった。「君は知らないだろうな、恋をするってことは大変なことなんだよ」そう、テーブルに酒が運ばれてくるのを眺めながら、俺にそうぼやいた。「恋?」この男が恋をしている、そのような話をすることは一度もなかったし、そのようなそぶりを見せたところも無かった。俺の知らないところで彼が過去に勝手に恋をしていたことがあったのかもしれないが、そのような話題を口にすることは一度もなかったのだ。彼は「そうだ、恋だ。これはそうに違いないんだ……」そう言って酒に口をつけた。飲むペースが普段に比べて随分と早い。今日はずっとこの調子で酒を飲み続けていたのだろうということは想像に易かった。「なまえは他の誰とも違う、僕の設計を理解しようとしないどんな顧客とも違う……」なまえという女は少なくとも、彼と同じ学派を出ているはずなので、彼の設計に対する情熱と美学、それから拘りについては他の人よりも重々に理解している人であってもおかしくはないだろう。そのなまえという女と彼の間に一体何があったというのか。目の前で酒に溺れる男の口から、なまえという女についてぽろぽろと語られる断片的な情報を繋ぎ合わせた結果、なまえという女は、不幸が続いている彼にとって一筋の光になってしまうほどの存在になっているということだけは分かった。しかしながら、彼がなまえという女の何が好きなのかまではさっぱりわからなかった。俺にとって他者というものは、仕事や、生活に関連する人間たち以外の人のことについては他人という括りの中にあるだけであり、その対象のいずれかに好意を持って接する経験がなかったせいか、この男の言う恋というものも、今の俺には全く理解できなかった。自分の美学というものに対して全く理解のない人間が大多数であるこの世界で、芸術家という彼のような生き物は常に孤独な生き方をしているのが常であるように感じるところはあった。そのせいで、彼の美学というものに対して理解のある人間を見つけた時にそれが彼を照らす一筋の光にも見えてしまったのだろうか、孤独な人間がいよいよ孤独ではないことを知った時に陥るものが恋であるのか、それに対する彼の感情面に対する理解は全くできなかったが、なんとなくそのようなものだろうと推測した。彼の抱く感情を理解することができなかったのは、自分自身が他者への理解を全く欲していないせいであるのかもしれない。彼はすっかり空っぽになった杯をテーブルに置いた後再び突っ伏した。「俺に愛を説くために呼んだんじゃないだろうな」そう彼に言うと、彼は何も答えなかった。「それならば他に適任がいるだろう」そう彼に言ったのであるが、それに対しては失礼なことに彼も同意していた。「話す相手が君であることが間違っていることは僕も十分理解している」そう子憎たらしいことを言いながらも彼はなまえに対する愛をその唇から紡いでいた。「彼女のような人はこのテイワット大陸中を探しても一人としていないだろうな」「彼女の描く設計は美しい、その設計に対する理解をする人間がこの世に存在していないことすら憎たらしいと思う」口々にそう言う彼は完全に酔いが回っていて、酔いが覚めた後にそれを伝えてやれば彼はきっと顔を真っ赤にして怒り出すだろうということも、なんとなく理解していた。

「君はなまえの話をするために俺を呼んだんだな?」
「君の口から彼女の名前を聞きたくない。そう気安く彼女の名前を口に出すのはやめてくれ」
「じゃあどう呼べと?」
なまえ”さん”だ」

顔を真っ赤にした男が大真面目な顔をしてそんなことを言うのが可笑しかった。酔ったこの男がどこまで口を滑らせて俺に全てを喋ってしまうのか、それを眺めるのも悪くないと思った。

「ああ、なまえ……君の設計は美しい、誰が理解しなくとも僕だけは君の造形が素晴らしいことを知っている……」
なまえさんの設計が理解されないことで君は酔い潰れるまで飲んでいたのか?」
「それもあるがそれだけじゃない。そうだな……なまえの設計を理解する人間がこの世に僕しかいないことを悲しく思うが僕以外の人間には理解してほしくないとも思う……これが独占欲なのか?恋をしているから独占欲が生まれているのか?」
「……」
「恋というのは厄介だな、彼女には幸せになってもらいたい、僕みたいな苦労はしてほしくないと思う。それでも僕以外の人に幸せにされる彼女を見るのは僕が許せない、そもそも、僕が彼女に対して抱いている感情は間違いなく恋ってやつだろう?」

そう目の前の男は再びテーブルに突っ伏してそう言った。彼のいう恋というものは何も理解できなかったが「君がそれを恋だと思っているならばそうなのではないか?」と心にも思っていないことを言った。人に対する恋という感情のことをこのテーブル席で理解できる人間はいなかった。彼が俺を呼んだのも、人選誤りなのだ。それならばまだティナリやコレイたちに聞いた方がまだ十分要領を得る回答を貰えたに違いない。「ああ、なまえ……」そう彼は彼女の名を愛おしそうに呟いていた。そして彼はなまえについてペラペラと楽しそうに喋っていた。

なまえは本当にいい後輩だ、実は僕は結構後輩に恵まれているのかもしれないな」
「ああ」
「君も嫌味なところはあるし全く敬いはしてくれないけれども僕を助けてくれるし」
「俺は今すぐこの場から帰ってもいいのだが」
「冗談言うなよ」
「深刻な話だと思って来てみたら恋の話とは拍子抜けだ」
「それでも付き合ってくれるだろ」
「……」

呆れてしまい物が言えなくなってしまっただけなのにも関わらず、この男は好意的な方向に勝手に受け取ったようであった。「君の芸術に理解のある人間であれば誰でもいいのか?」そう、彼に問うと彼は首を横に振った。「なまえは僕の芸術に対する理解があるから好きになったんじゃないぞ」そう、真っ赤な顔をして反論してきた。酔っ払っているせいか、もう口もうまく回っていないのにも関わらず、言葉ばかりが先に出てくる様子がひどく情けなかった。

「彼女の持つセンスも輝いている。僕には考えつかないアイデアに富んだ設計も得意だ。なまえの設計について少しだけ話したこともあるが、彼女は僕の話を聞いて『そのような考え方もありますね』と話を丁寧に聞いてくれた。彼女が考え抜いた末に出してきた代替案も素晴らしいものだったよ。彼女の設計の中に僕の設計に対する美学も取り込んだ美しい設計を組み上げて見せたんだ。あれは僕となまえの初めての共同作業と言っても良いだろう。他の人と一緒にやる設計作業が楽しかった日は今まで一度もなかった。意見をお互いに出し合って最良のものを作っていく。心が満ち溢れるのを感じたね。これほどまでに素晴らしいことはないだろう?」
「結果は?」
「案件自体がなくなって何もかも無くなったよ。その日の夜、僕となまえは悲しみを癒すために酔い潰れるまで飲んだね。なまえはずっと僕を励ましてくれたよ。『今回のことは残念でしたね、カーヴェ先輩との仕事はとても楽しかったんです。沢山勉強することもできました。また今度先輩と一緒に仕事をさせてください。そしたらわたしはもっと素晴らしい建築デザイナーになれる気がするんです』って言ってくれた。なまえは優しかったんだ、どこかの後輩と違って嫌味を言うこともない。ただ全く意見を言わず全て僕に従うということもしない。自分の考えをしっかり持っていて譲れないところについては僕にしっかり話をしてくれる。こんなに素晴らしい後輩はいないだろう」

その日から僕はなまえに夢中になってしまった。またなまえと一緒に設計ができないかとずっと考えている。なまえは僕にいつだって優しくて、僕のことも汲み取ってくれる。そして自分の美学もしっかりと持っている。その辺の建築デザイナーの中に埋もれさせておくには勿体無い逸材だよ。ああ……彼女のことを考えるだけで胸が熱くなってしまう、これは恋ってやつだろう?それくらい君にもわかるよな?──そう呂律の回らない舌でそう捲し立てた後、情けなく「なまえ」と彼女の名前を呼んだ。

「君が俺に言っていることをそのまま彼女に伝えればいいのではないか。『僕は君に恋をしている』とでも言えばいいだろう」
「そんなことが言えたら苦労していない。僕は建築デザイナーとして名は売れたが莫大な借金を背負っている、そんな情けない人間が彼女に恋していると伝えることがができたら苦労しない」
「それほどまでに素晴らしい人なのであれば他の人は放っておいたりしないだろうな。君が何も伝えない間に彼女が他の誰かの元へと行ってしまう、ないことではないだろう」
なまえは魅力的だ。彼女の美学を理解する人間が増えてほしいと僕は思っている。それでも僕以外の人には理解してもらいたくないと思ってしまう。僕は自分の欲と彼女にとっての幸せの間で僕はずっと揺れているんだ」

もしかしたら設計をやっている方がずっと簡単かもしれないと思うくらいには僕は悩んでいる、恋は設計よりもずっと難しい。自分と他人の間でずっと揺れ続けるんだ。そうしている間にも時間は過ぎてしまうし彼女は僕ではない誰かに見つかってしまうかもしれない……悲しいことだ──そう彼は言って遂に黙り込んでしまった。酒が回り切った後で喋る元気を無くしたのか、そのまま潰れてしまったのだ。暫く潰れた彼を眺めていると、心地のいい寝息が聞こえて来た。それを聞いてため息を吐き、彼の懐から財布を取り出してマスターを呼んだ。「会計を」長い注文書のリストを眺めた後にこれほどまでに酒を飲んだのかと呆れてものも言えなくなってしまった。彼の財布の中から全ての金を払おうとしたが彼の財布の中身だけで払い切れるものではなかった。空っぽになった彼の財布を元の場所に戻し、支払い額の七割以上を自分の懐から出すことになってしまった。自分の先輩がこんなに情けない人間であることを知ったらなまえはどう思うだろう、そう明日彼が目覚めた後に嫌味の一つや二つでも言ってやろうか、そう思いながら会計を行い、完全に潰れてしまった男を無理やり立たせて酒場を出た。スメールの夜の街はすっかりと静まり返っていて、こんな時間までこの男に付き合っていたのかと思うと思わずため息が出た。いつもつれて転ぶかもわからないこの男を植木の中に放ったらかしにして帰るのも悪くないと思った。しかしながら、なまえに対する彼の名誉のためにも、渋々彼を家まで連れて帰ることを選んだ。
2023-05-30