「あなたはこのお店に随分と通っているのですか?」
「ええ、まあ……」
「これはどのような料理でしょう」
彼はお品書きを指さしてそう問うた。まさか、そのような質問をされるとは思わなかった。わたしは彼に問われたものについてひとつひとつ説明をした。「あなたは何を注文したのですか?」そう彼に問われたので、わたしは普段注文している料理の名前を言った。すると、彼は「では私も同じものを」と言ってわたしと同じ料理を注文していた。
「いいのですか?このお店には沢山おいしいものがありますよ」
「あなたが食べているものを食べてみたいと思ったのです。いけませんか?」
「いえ、そういうわけでは」
わたしが口ごもっていると、彼は「ここに来るのは初めてなんです」と言った。そして「あまり外食をしないもので、外の料理には詳しくないのです。ですが、あなたが食べているものであれば確実においしいものが食べられるでしょう」と言った。わたしの選んでいるものは、この店で最も安い食事なのであるが、彼のような人がそれを食べてもいいのだろうかと他人事ながら少しばかり心配になった。外食に出かけるにしても、彼のような人であれば高級料亭にでも出かけていそうなものだが、なぜこのような場所を選んだのかとは流石に聞けなかった。そのような気分の日は多分、彼にだってあるだろうと思ったからだ。わたしの料理が運ばれてきたのを眺め、彼は「とても美味しそうですね」と穏やかな笑みを浮かべていた。「ええ、とても美味しいですよ」そうわたしが言うと彼は「そうですか」と言って少しだけ楽しそうな顔をしていた。
彼の料理が運ばれてしばらく、わたしと彼は食事をとりながら些細な会話をしていた。質問は彼からのものが大半で、日頃はどのように暮らしているのか、普段は自分で料理をしたりするのか──それらについて、わたしは一つ一つ答えていた。わたしは料理があまり得意ではないし、そんな庶民の生活など誰も興味を持たないと思ったが、彼はそれを興味深そうな顔をしてずっと聴いているのだ。そして彼も料理は得意ではないと言うのを聞いてなんとなく、親近感を覚えた。そして、最近は稲妻の外の国の人の姿もよく見るようになりましたね、と行き交う人々の姿を思い出しながら、わたしは彼に言った。彼は「ええ、鎖国令も終わりましたから」と答えた。彼の手元にはいつの間にか酒があった。この店の中では一番高い酒であった。
「あなたも一杯どうですか?奢りますよ」
「すみません……それでは一杯だけいただきます」
「どうぞ」
それは庶民にとって高級な酒という意味であり、彼のような人にとっては安酒に等しいだろう。それを、この男が飲んでいるさまはあまりにも似合わなかった。わたしは普段飲むことが出来ない、わたしにとって高級な酒に口をつけた。
「おいしいです」
「それはよかった」
彼は「この国も随分と変わりました。昔のことが恋しくなる時も確かにありますが、それも決して悪いことではないでしょう」と言った。わたしは「そうなのですか?」と彼に聞き返した。「わたし、外の人が物珍しくて、まじまじと見てしまうんです。失礼だとは分かっているのですが……」そうわたしが自分の悪癖を名も知らぬ彼に打ち明けると、彼は思い当たる節があったのか(先ほど店に入ってきた彼をまじまじと見たせいでもあるが)、彼は上品な笑みを浮かべて「そうですね、今は物珍しいことかもしれませんがいずれ慣れる日が来ますよ。外の人が珍しくないくらい、普段の風景に溶け込んでしまうはずです」と言った。「そうでしょうか。わたしは少しこの変化が怖いとも思うのです」わたしの口から勝手にその言葉が次いで出てきた。言ってはいけない心境の吐露だったと、口に出した瞬間わたしは反省した。彼は少し考え込むようなそぶりを見せた後、口を開いた。
「そうですね……それはただ相手のことを何も知らないから怖いのです。彼らのことも知ることができれば、怖いと言う気持ちにはならなくなりますよ」
「そうでしょうか」
「ええ。あなたは良くも悪くもただ知らないだけなのです。稲妻の国に住む人も皆が皆変化を受け入れられるとは限りません。勿論、変化についていける人もいれば取り残される人もいるはずですから」
「あなたはそれを悪いことだとは思わないのですか?」
わたしの問いに、彼は黙り込んだ。そして、酒に口をつけた後に「思いませんよ」と言った。
「そのような人を取りこぼさないようにするのがこの国の人間たちの仕事でもありますから、今は不安かもしれませんが安心して構いませんよ」
そう穏やかに言う彼の顔を見ると、なんだか心の中が穏やかになっていくような気がした。今まで抱えていた不安の全てが、ゆっくりと取り除かれていっているような気がしたのだ。わたしは緊張のせいか普段に比べて随分と早くになくなってしまったお茶をもう一杯、店主に頼んだ。彼が奢ってくれた酒はまだ少しだけ、残っている。
「それならば、綾華さまは今随分とおいそがしいのかもしれませんね」
そうわたしが言うと、彼は目を丸くしていた。綾華さま──稲妻の人間であるならば、社奉行として仕事をしている彼女のことを知らない人間は居ないはずなのである。「そうですね……彼女は確かに忙しくしています」彼はそう言った。仕事が山のように増えているのだと、彼は言った。
「わたしは昔、綾華さまに魔物に襲われてしまったところを助けてもらったことがあるのです。あの美しい剣捌きを見て舞のようだと思いました。不注意で魔物に襲われておきながら、わたしは綾華さまをこの目で見れたことを幸福だと思ったのです。綾華さまはもうわたしのことを覚えてはないと思いますが、わたしは綾華さまが健康であられることを祈っています」
そうわたしが言うと、彼は「そうでしたか」と言った。彼の口から小声で「綾華がそんなことを……」と言っているのを聞いて、彼女の知り合いなのだろうと思い、食い入るように綾華さまのことを聞いてしまった。彼は「彼女は元気にやっていますよ、最近は随分忙しいですが、楽しく仕事をしています。兄も居ますから大丈夫ですよ」と言った。わたしはそのときに彼女には兄がいることを思い出したのだ。神里家の当主の綾人さま、わたしは彼の顔を全く知らなかった。綾華さまが表に出てくることは多くあったが、当主さまが表に出てくることは非常に珍しく、わたしは一度も目にしたことがないのだ。
「綾華さまが非常に忙しくされているのであれば、当主さまは尚更かもしれません。わたしは、当主さまのことは全く存じ上げませんが、綾華さまが忙しくしているのであれは、彼もきっと忙しいと思うのです」
「……そうかもしれませんね」
「綾人さまもきっと、綾華さまのようにおやさしい方なのでしょうか。綾華さまがあのような素晴らしい方なのですから、お兄様もきっとそうなのでしょうね」
「それはどうか……人を騙したりするような悪い人かもしれませんよ」
「そんなまさか。だってご当主さまですよ?」
そうわたしと彼が笑い合っている時に、わたしたちの背に向けて声がかけられた。「あっ、若!こんなところに居たんですか」わたしと彼の後ろに立っていたのは、トーマさんであった。神里家にいるはずの彼がどうしてこんなところに、と思ったのと彼が一緒に食事をしていた彼のことを『若』と呼んだことがわたしの頭の中で複雑に絡んでいった。その間にも、トーマさんと彼は二人で話をしている。「探してたんですよ、いつまでも帰らないから」「おや、今日は外に出かけると書き置きを残したはずですが」「夜の九時までに帰るとは書いてありましたが、まさかこんな時間まで外出とは聞いていませんよ」「おや、おしゃべりに夢中で時間を忘れて随分遅い時間になってしまいました」「心配させないでください。相手の方もこんなに付き合わされるとは思わないでしょう」急に話の矛先がこちらに向いたので、わたしは慌てて「いえ!そんな迷惑なんてかかっていません。わたしも夢中になりすぎてしまって……」と答えた。トーマさんが呼ぶ『若』と呼ばれた彼はわたしに向き直って挨拶をした。
「こんな時間まで付き合ってもらってすみません。私は神里綾人と申します」
「……神里綾人さま」
「ええ。あなたが想像していた人間とは随分違ったでしょう」
彼は、いたずらに成功したような顔をして穏やかに微笑んでいた。トーマさんが会計を済ませたのちに、綾人さまは「それではまたお話しましょう」と言い、ふたり並んで店を出て行ってしまった。わたしは今まで話した彼との会話を思い出して、恥ずかしくなってしまった。彼が神里家の当主だとも露ほども知らずに好き勝手言いたい放題をしてしまったのだ。神里家の当主さまは綾華さまみたいな人だと勝手に思っていたのであるが、実際のところ、綾人さまという方は、少し意地悪なところがある人だと思った。わたしが、綾人さまの話をしている時に自分がそうだと名乗ってくれてもよかったじゃないかと、そう思ったのだ。わたしも、もう遅いしそろそろ帰ろうと店主に「会計をお願いします」と言ったのであるが、店主は「君の分も彼が全部払って帰って行ったよ」と言った。酒を一杯だけ奢ってもらうつもりだったのに、食べたものすべてを奢ってもらったことに気づいて慌てて店の外に出たがもう遅く、彼ら二人の姿はとうに街中の喧騒の中に消えていってしまっていた。わたしが綾人さまにお礼を直接言える日はいつやってくるのか──今度、いつ出会えるかもわからない彼のことを考えて、ひとつため息をついた。
2023-05-27