小説

星の仔

 その女の行方を知る者は、教令院の中でもごくわずかの限られた人間だけであった。その女は学者としては抜きん出て優秀な人間であった。二百年に一度の優秀な卒業生だとされるリサの名前を知らぬ者はいなかったが、それと同じくらい、彼女の名前を知る者も多くいた。なまえ──その女の名は、学者として優秀であったから有名になったという理由もあったが、それ以外にも理由はあった。優秀な卒業生故に教令院が旧体制から新体制へと移行するときに、賢者候補として彼女の名前が上がったのにも関わらず、彼女は賢者としての役職を辞退していた。賢者になってしまえば仕事に追われてやりたいことが何もできなくなってしまう、というのが彼女の弁であったが教令院の大部分の人間、特に彼女の所属する学院の人間からしてみれば彼女が賢者の座を断ったことを理解することは出来ないことであった。学生は揃って「論文を書いて詰められずに済むのであればその方が良い」と言ったのであるが、彼女は論文を書くことを好んでいたし、研究に精を出している方が向いているのだと自認していた。とある書記官は一時的に代理賢者の地位についていたが、代理賢者としての仕事すらも断ったのである。そして、行方をくらましたのであった。教令院に割り当てられたなまえの部屋で彼女の姿を見たものはいない。しかしながら、彼女に宛てた手紙の返事は随分遅れて返ってくる。彼女がやらなければならない必要な仕事があればそれは最低限こなしているようであったため、彼女が行方をくらましたことについてとやかく文句を言う人間は、彼女に指導をしてもらいたいと思っていた学生のみであった。なまえは広く学生を受け入れていたわけではないが、あまりにも学生を断り続けていたため教令院の上の人間から学生を受け入れるようにと指示されてしまった。なまえは渋々数名の学生を受け入れることとしその場は収まったのである。学者として優秀ななまえのもとで学ぶことができると知った学生は最初のうちはひどく喜んでいたが、彼女の行方が誰にもつかめないことに途方に暮れることになってしまったのである。学生を受け持つことについて手紙での了承は受けたものの、それ以上のことは何も起きなかった。学生たちは皆、なまえに指導を受けることになったことに喜びはしたものの、彼女が一向に教令院の自室に姿を現すことがなかったためなまえの顔すら知らなかったのである。彼らが知っているのは彼女の研究成果と、論文に関して書いた手紙を送った時に随分と遅れて返ってきた返事の手紙に書かれた彼女の手書きの文字だけであった。途方に暮れた学生がなまえの行方を探して教令院にいる老学者たちに問うたとき、「なまえという女の行方が知りたければ書記官に聞けばいいだろう」と言ったのであるが、学生たちは書記官の行方を知ることもできないのだからお手上げである。執務中の書記官を訪ねて彼の部屋に向かったところで、書記官からは「人探しは俺の仕事ではない」と言われて一蹴されてしまうのだ。結局学生たちはなまえから随分遅れて返ってくる手紙でのやり取り以外で彼女の行方を知る術は無いのだ。

「いつまでそうしているつもりだ」
「"そう"ってどういう意味?」
「学生の面倒を見ないでいつまでのらりくらりとしているのか、という意味で言っている」
「最低限の指導はしているよ。学生が書いた論文はきちんと読んでる」
「その指導結果があの論文か?」
「いいじゃない、好きなように論文を自由に書かせるのがわたしのモットーだよ」
「それで卒業できない学生が増えても?」
「それはわたしの責任じゃない。卒業要件を満たせない中途半端な論文を出してくる方が悪いんだよ」
「君は研究においては優秀だが指導教官としては最悪だな」
「だから学生をずっと取らなかったのに。それを知っててわたしに学生の面倒を見るように言ったのは教令院でしょ」

なまえはツンとそっぽを向いてそう言った。完全に不貞腐れているということは、その女の態度を見れば一目瞭然であった。スメールの国土の半分以上を占める大砂漠、アアル村から随分と遠くにある砂丘で、なまえは砂の中に体の半分を埋もれさせながらそう答えた。なまえの行方を知る者はいない、果てしない砂漠の中でこの女一人を探すのは、砂粒の一つを絨毯の毛の中を掻き分けて探すよりも難しいことである。アルハイゼンが砂丘に寝転ぶなまえを見下ろしながら悪態をついたのを、女は不服そうな顔をして、彼の顔を見上げていた。すでに太陽の陽が落ちたあと、空には月が浮かび、小さな星々が河を作って流れていた。それらをなまえはこの場所で見上げながら過ごしていたのである。この女の奇行を目にするのは一度や二度ではない、このなまえは暇さえあればこうして夜更けに砂漠で寝転びながら空を見上げているのである。こうして自分の体が砂漠の砂と一体化しようとも、それをやめないのである。砂漠を拠点にする悪い人間たちや、魔物がうろうろとしている場所であっても、そうでなくてもこの星の海を眺めることのできる場所をなまえは好んでいた。

「で、こんなところにまでわざわざきてわたしの説教をしにきたの?」
「いいや、単なる苦情だ。人探しの依頼が来ては俺の仕事が止まってしまう」
「それは失礼」

アルハイゼンは砂の中に埋もれるなまえの腕を掴んで引っ張り上げた。なまえはされるがままに砂粒の中から引き上げられた。「いいところだったのに、また見つかってしまった」そうなまえが言うのを聞いて、アルハイゼンはため息をついた。この女はいつもそうだ、こうして広い砂漠の中で一人砂の海の中を泳いでいる。まるで、砂の中で生まれ育った蛇や蠍のように砂の中に隠れているのだ。「どうして見つかったんだろう」そう、なまえはぼやいた。

「俺は君とかくれんぼをしているつもりはない」
「でも見つけてくれるでしょう、どこにいても」
「ああ」
「なんで見つかるんだろうと思って。前もそうだった。さらにその前もそう。学生の論文を見ろって手紙が来てその返事を無視していた一週間後にあなたはこうやってこの広い砂漠の中でわたしを見つけている」

なまえは砂を一掴みしたあと、再びその砂を元の場所に戻した。

「こうしたら、わたしの握っていた砂なんて、もう誰にもわからないはずなのに」

どうして、そうなまえは問うた。アルハイゼンは彼女の手のひらからこぼれ落ちた砂粒を眺めた後に「さあ」と言った。彼は惚けているのだ。なまえは表情の一切読めないアルハイゼンの顔を眺めてため息をついた。アルハイゼンはこの女を確実に探すことのできる術を知ってはいたが教えるつもりはさらさらなかった。なまえがそうしているように、アルハイゼンも天を仰ぎ星々を眺めた。この小さな星々にも一つ一つ名前がついていて、なまえにとってはどの星も愛おしいものである。そうでなければ星の研究を教令院を卒業した後にも続けることはないはずであった。なまえのいる場所は、この星の中を探せば見つけることができる。もう彼女は覚えていないだろうが、まだ教令院で学生をしていた頃、一度だけ一緒に酒を飲んだ時に顔を赤くしながら星の話をしていたことを思い出していた。彼女にとって両親であると言っても過言ではない父と母の星、彼女のとうに亡くなってしまった父母の研究を受け継いだなまえは、自分の両親の残した研究にずっと夢中になっていた。なまえを魅了する受け継いだ研究結果に書かれている父と母の星、彼女はそれをただずっと見ていたいだけなのである。スメールの街中でその星は遠くに輝いていて、雨林や建物の軒が邪魔していて綺麗にその星を見ることができない。だから、なまえはその星を最も綺麗に見ることができる場所……今日はそれが、この砂漠のこの場所であっただけのことである。時間が巡れば星の位置は変わる。一ヶ月前のなまえの居場所と、二ヶ月前のなまえの居場所は違う。彼女の父母の星の最も綺麗に見える場所を探せばなまえの居場所は自ずと分かる。例えこの女にそれを告げたところで彼女が居場所を変えようとするとはとうてい思えなかったが、そのことをアルハイゼンがひとりだけで握りしめているというのもまた事実であった。あの日酒場にいた人間たちがとうに忘れてしまっただろうなまえとアルハイゼンだけの小さな事柄を、アルハイゼンは学生の頃から今に至るまでずっとひとりで握っているのである。だから、"なまえの居場所を知りたければ書記官に聞け"と老学者が言うのは決して間違いではないのである。アルハイゼンがなまえの居場所を学生に伝えてしまえば良いだけの話であるのだが、あの日なまえが多弁に語っていた父母の星に対する情熱を知った後では、彼女の邪魔をするのは良くないだろうという事はアルハイゼンにも良くわかっていた。一人の時間を邪魔されたくないということは、彼にも十分理解できることであった。だから、仕事の邪魔になろうがそれをあえて口にすることはなかったのである。アルハイゼンとなまえの間にある小さな秘密、これが今となっては教令院となまえを繋ぐ術であった。教令院で行方知らずとして有名ななまえと、教令院の中でも足取りがつかめないと言われるアルハイゼンの二人を繋ぐものはなまえの父母の星だけであった。
なまえは砂だらけになった衣服のポケットから一枚の手紙を出してアルハイゼンに渡した。砂だらけになった手紙の差出人はなまえであり、その手紙の宛名はアルハイゼンであった。「開けても?」「どうぞ」手紙に書かれた一文を見てアルハイゼンは顔を顰めた。"代理賢者殿"そう書かれている文章を見たアルハイゼンは顔を顰めて「俺はもう代理賢者ではない。ただの書記官だ」と言った。

「そうなんだ」
「君の情報は随分遅れている。一度教令院に戻った方がいいのではないか」
「まだ戻りたくない」

そうなまえが言うのを聞いて、アルハイゼンは「そうだろうな」と言った。もう一月もすれば、彼女の父母の星は遠い空の向こうに行ってしまい、スメールという国の中では見れなくなってしまう。そうなれば、彼女は渋々教令院の自分の部屋に戻ってくるのだということをアルハイゼンはよく分かっていた。「そうね……あと一月は戻らない」そう彼女が言うのを聞いたアルハイゼンは「そうか」とだけ言った。

「少なくとも学生に手紙の返事は出してやれ。彼らも困っている」
「書記官殿が他人の心配をするなんて、明日は砂漠に大雨でも降るのかな」
「砂漠に雨は降らないだろう」
「それほど珍しいことだって意味だよ」

なまえはそう言ってひとしきり笑っていた。彼女のその様子を見てアルハイゼンは何が彼女にとって可笑しいことであったのかさっぱり理解できなかった。

「じゃあ、今度またあなたの部屋に学生が訪ねてきたら一ヶ月後に戻ると伝えておいて」

なまえはそう言った。白紙の便箋と封筒、持っていたペンをなまえは砂の中に投げ捨てて、再び砂漠に寝転んだ。今は天を仰ぐことに夢中になっていたいようであった。父母の星が見えなくなってしまうまで、あとひと月の時間を、惜しみたく無いのだろう。そのなまえの姿を見る限り、手紙の返事を書く気はさらさら無いようであった。アルハイゼンはなまえの眺めている空を見上げる。小さな星々が明滅を繰り返している横で、恒星が二つ輝いている。彼女の父と母の星は、空高くでうつくしく輝いているのであった。アルハイゼンはなまえの様子を暫く眺めていたが、彼女の視線が空に釘付けになっており、もうこちらの顔さえ見ようとしないところを見る限り、ここから動くつもりがないのだと悟った。砂に埋もれていく彼女の白紙の封筒と便箋、ペンの姿を眺め、彼女の体が再び砂丘に呑まれようとしているのを眺めた後でアルハイゼンは「それでは」とだけ言い残した。なまえの「あなたもいい夜を」という一言だけがとてもよく聞こえた。アルハイゼンは最後になまえの姿を一度だけ眺めた後で、静かに暗い砂漠を去った。
2023-05-20