小説

流浪

 女との旅は、常に順調というわけでもなかった。初めのうちは、草むらに生えている食べられるキノコと食べられないキノコの見分けすらできずにお腹を壊してみせたり、キノコによる幻覚をみては家族のことを思い出して泣きつく日もあった。その度に、病院に連れて行きながらこんなに面倒なことになってしまうくらいであればこの女を連れてこなければよかったと後悔していた。「君は本当に何も知らないんだね」そう悪態を付くと女は申し訳なさそうな顔をしていた。その表情を見たときに少しだけ言い過ぎたかもしれないと思い黙ってしまったが、間違ったことは何一つ言っていないので謝罪の言葉を口にするのはやめた。女の体調がすぐれないからと、野宿をするのをやめて街に行き、宿をとった。こじんまりとした宿の一室を借り、一人横になるのが精いっぱいだと思われるベッドに女を寝かせた。「旅人、あなたはどこで寝るのですか」そう女は言った。僕は、この女の前で眠ったことは一度もなかった。先に眠りにつくのは女で、遅くに目覚めるのもこの女であったからだ。僕は部屋に備え付けられた座り心地の悪いソファに腰を下ろし、ベッドに横たわる女を眺めながら、「僕の心配より自分の心配をしなよ」と言った。女が一向に眠ろうとしない僕の姿を横目で眺めては落ち着かない様子であったため、ため息をついて「僕は君みたいに人間ではないから眠らなくてもいいんだよ」と言った。「人間ではない?」女は目を丸くしていた。

「そうだよ。おかしいことでもあった?」
「あなたからそんな話を聞いたことがなかったから」
「聞かれたこともなかったしね。わざわざいう話でもないよ」
「わたし、悪いことを聞いてしまった?」
「いいや」
「そう……」

女はそう言って天井を見上げた。低い、大して綺麗でもない天井を見上げて女は黙り込んだ。きっとまた、余計なことでも考えているのだろう。

「わたしのきょうだいがいるでしょう」
「ああ、君よりもずっと小さな子どもだったね」
「彼らが眠れない時、わたしは眠れるまで枕元で子守唄を唄っていたわ。こんなふうに……」

そう言って、女は唄った。細い声で唄うこの女の、大してうまくもない唄を聴いていた。そうして唄っているうちに疲れたのか、女の唄声は次第に穏やかな寝息へと変わっていった。女がすうすうと寝息を立てるのを横目に眺めた後で「へたくそ」と小さな声で悪態をついたのであるが、その声は女には届いていないようであった。その日から三日ほど、女は眠り続けていた。それほどまでに体調が悪かったのか、そこに気づけなかったことに関しては申し訳なく思ったが、しばらく眠り続けていた女が目を覚ました時に、いつもに増してやかましい調子で「お腹が空きました」と言ったのを見てため息をついた。そこには呆れがあったのも確かであるが、とにかくこの女が復調したことに安堵している自分がいたのも確かであった。その後、女と一緒に食卓を囲んだのであるが、その時に女は僕に問うた。

「旅人、あなたは何も食べなくても平気なの?」
「そうだね。食べる必要もないけれど、食べれないということではないよ」
「なら、あなたと一緒に食卓を共にすることはできるのですね」
「そうだね」

そう答えると、女は満足そうな笑みを浮かべていた。

「何、その顔」
「うれしいから」
「それだけのことで?くだらないな……」
「でも嬉しいことには変わりないですよ」

旅の途中で、女は今までの僕の旅路について尋ねてきた。今までどこにいたのか、どのような国にいて、どこに行こうとしているのか……それらを問うてきたときに、仔細を話すことはなかったが、稲妻という国で生まれたということ、稲妻で世話になっていた時期があったこと、そしてスネージナヤという国で過ごしていたこと、そしてスメールという国で過ごし、学者として暫く教令院で過ごしていたこと……それら全てが自分にとっていい思い出であるとは決していえないことではあった。「旅人、あなたは……」そう女が口を開いたときに、自分の口から思ったよりも強い口調で「同情ならば必要ないよ」と言ってしまった。女はそれを聞いて押し黙ってしまった。女も聞いてはいけないことを聞いてしまったのだと、そう思ったのだろう。「君が気にすることは何もないよ」そう言ったとき、女は困ったような顔をしていたが、その顔を見ないふりをしていた。

「旅の目的地はないよ、僕はこの世界をただ彷徨い歩いているだけさ」
「そうですか」
「嫌になったかい」

そう問うと、女は黙って首を横に振った。「僕に行くべきところはない、君のように帰る場所があると言うわけでもないからね」そう言うと女は急に泣き出してしまった。何が悲しかったのか、僕には全く理解することができなかった。今までがそうであったように、これからもそうであることには変わりない。それがただ、永遠にも等しい時間が続いていくだけのことである。

「そんなに、そんなに悲しいことなんてあるんですか、帰る場所がどこにもないなんて」
「別に、僕は今までもこれからもそうであることに変わりないだけさ。スメールで過ごした時間は確かに長かったし、二度と戻ってくるなと言われているわけではないよ。もしかしたらこれが君の言う帰る場所であるというなら、僕の帰る場所がないわけではなくなったね」

そう言うと女は安堵したような顔をしていた。そして、「わたしは、あなたがいたスメールという国に行ってみたいです」と言った。「行ってどうするの?何もやることはないし珍しいものも何もないよ」そう言ったのであるが、女の意思は固かった。今まで、目的地を定めずに、気まぐれに道を選び歩いてきた。女がこうして言うことがなければ、目的地を決めて出かけると言うことをするつもりもなかったのである。「そうだな……」教令院のことを思い出したときに、草神の姿が脳裏によぎり、思い切り顔を顰めてしまった。それを見た女が、「嫌な思い出でもあるんですか」と問うてきた。「ただ、会いたくない奴がいるだけさ。恩があるから無視をすることもできない、ただただ面倒臭い……」そう言うのを見て女は笑っていた。今まで見たことがないくらい清々しい笑顔であった。

「何かおかしなことでも言ったかい」
「旅人、あなたにそのような顔をさせる人がいるなんて思わなかったからおかしかったんです。気を悪くさせたらごめんなさい」

スメールはどちらの方角ですか、そう女が問うた。「ここから歩いて七日ほどだね」そう答えると女は「そんなに遠いのですね」と言った。「諦めてもいいよ」そう言ったのであるが、女の意思は固かった。こう言ってしまった後でこの女が言うことを聞かないと言うことは、今までの経験からよくわかっていた。

:

女はスメールという国をいたく気に入ったようであった。僕がこの国を出てからというもの、もう二度とこの国に来ることはないだろうと思っていたのであるが、存外縁があるものである。女はこの国で過ごしているうちに学問というものを知った。本というものを眺めては字が読めないのだと女が言ったときに、この女にこの国の本に書かれている別の文字を教えるところから始めなければならないのかと、それは自分のやるべきことではないだろうとも思ったのであるが、女がやりたいことを見つけたことを知った後では、それを無碍にすることもできなかった。一つ一つの文字を教え、本の読み方を教え、教令院に存在する本を読み始めた女が、「この国にある本を読み切る頃にはわたしは寿命を迎えているでしょうか」と大真面目に問うのを見ていると、この女が暫くこの国から外に出たいと思うことはないだろうとも思った。熱心に本を読み始めてから数ヶ月、数年と時は光のように過ぎ去っていき、若かった女は随分歳をとった。度々故郷に手紙を書いては無事を知らせ、この国で過ごしている頃に故郷から両親の訃報が届いた。その頃、女は読んでいた本を閉じて、僕に話しかけた。「連れていって欲しいところがあるんです」その手紙を受け取ってから、女が故郷に戻りたいと言うということはすでに分かっていた。「わかったよ」そう言ってスメールから、彼女の故郷のある国境沿いにある辺鄙な村まで、二人でまた旅をすることになった。女は随分歳をとり、昔ほど好調な旅路を歩むことはできなかった。休憩を挟む回数は昔以上に多くなってしまった。「あなたはいつまでも若いのね」そう女が何の気無しに言うのを聞いて、「僕は人ではないからね」と言うのを繰り返していた。スメールから何ヶ月という時間をかけて彼女の故郷についたとき、彼女のちいさかったきょうだいたちはもう随分成長して大人になっていた。女を送り届けた僕の顔を見て「あなたは姉さんのご友人ですか」と問うた。何十年も昔に出会ったことがある、と言ってもきっと信じてもらえなさそうであったため、適当な嘘をついて誤魔化した。女は両親の墓の前で「ただいま帰りました」と言った。女の両親は元気なまま寿命を迎えて死んでしまったのだと、きょうだいたちが言うのをきいて女はひどく安心しているようであった。

その日の晩、月が空高くに上がった時間に、女が僕に与えた客間(相変わらず必要最低限のものだけが置かれている質素な部屋である)を訪ねてきた。

「旅人、あなたはこれからどちらに行かれるのですか」
「さあ?まだ考えてないよ」
「そうですか。ごめんなさい、わたしの旅はもうここでおしまいのようです」
「そうみたいだね」

両親が死に、この村での生活のことを考えたときにこの女が再び教令院に戻ると言うとは決して思ってはいなかった。村には小さな子どもがたくさんおり、彼らを食わせていかなければならないのを知った後では勉強をしたいとは口が裂けても言えないだろうと言うことは、僕にもよくわかっていた。

 旅立ちの日、早朝に何も言わずに出て行こうと思っていたのにも関わらず、女は見送りにやってきた。「あなたはきっと何も言わずに出て行くと思ったんです」そう女が言うのを聞いて、ため息をついた。

「見送りに行ったら寂しくなるのはわかっています。でもお別れが言えないのはもっと嫌でした」
「そうかい」
「今まで楽しい旅をありがとうございました、旅人。またあなたに出会えることができれば嬉しいです。もしよかったら、また訪ねてきてください」
「それは約束できない」
「ふふ、あなたならそう言うと思いました。これでお別れかもしれません。あなたにとっては短い時間であったかもしれませんが、わたしにとっては長い長い夢のような時間でした。それでは、また。これ以上話すと寂しくなってしまうから……」
「そうだね。君との旅は悪くなかったよ」
「ありがとう」

村の外に出たとき、後ろを振り返ることはやめた。女のことだから、僕の姿が見えなくなってしまうまできっと見送っているのだろう、そう思ったからである。そして、女の性格を考えればきっと泣き出しているのだろうとも思ったからだ。ほら、やっぱりそうだ。啜り泣く声が遠くから聞こえる。僕の生きている時間の長さで考えれば、あの女との旅の時間などほんのわずかな時間であるが、あの女にとっては人生のうちの長くの時間であったのだから別れが寂しいと言う気持ちは、とてもよくわかっていた。だからこそ、この道のりを振り返ってはならないのだということを、僕はよく知っているのだ。女の啜り泣く声が聞こえなくなった頃……振り返ってもあの村が見えなくなってしまうほどに歩いた頃、一度だけ後ろを振り返った。そして、今までの悪くない旅のことを思い出して、何となく心が穏やかになった。

:

あの国境沿いにある辺鄙な村には二度行ったことがある。今から数百年と随分昔のことである。再びこの村に辿り着いたのは、自分の足が勝手にあの村に向かったからである。相変わらず村は小さく、人々は最低限の食糧と金で暮らしているようであった。もうあの女はいない。人間の寿命は百年といかないのだから当たり前のことである。「旅人」そう、村に足を踏み入れたときに、あの女の面影の残る年若い女が話しかけてきた。もうあの女はいないのだと言うことを十分に理解しているのにもかかわらず、まるであの日の出来事が繰り返されているのかと錯覚してしまいそうなほど、あの女に似ていたのだ。しどろもどろになって「あ、ああ」と答えると、女は僕の手を取って家へと招待してくれた。以前寝泊まりしたことのある、あの家だった。ああ、この女はあの女の家の子孫か、そう察することができたのは、与えられた部屋があの時と同じ、相変わらず質素な客間であったからである。最低限の家具しか準備されていないのにも関わらず、一輪の花だけが飾られている。挨拶でもしようと思い客間を出たときに、「眠れないの?」と言う声が聞こえた。かつて、自分に掛けられた声と同じものである。客間の隣にある部屋のドアが少しだけ開いている。声の出所はきっとこの部屋なのだろう。ドアの隙間からその部屋を覗き込むと、女の背が見えた。部屋からは女の声と、小さな子どもの声が聞こえる。眠れない子どもを寝かしつけようとしているのか、その女は子守唄を唄いはじめた。数百年前に一度だけ聞いたことのある、たいして上手くないあの子守唄がそのまま、女の口から唄われているのだ。その声を聞いて、僕は目の前のドアを静かに閉めて、部屋から外に出た。過去に一度、女と共に出かけたことのある、女の両親の墓のある場所であった。そこには、僕の知る墓以外にもいくつか、新しい墓が増えていた。この墓のいずれかがきっと、あの女の墓なのだろう。どの墓があの女のものなのかは僕にはわからなかったが、増えた新しい墓の前で、「僕は君との約束は守ったよ」とだけ言った。きっとこの声は誰にも聞こえないだろう。その言葉を言ったときにやさしい風が吹いた。それが、まるであの女が僕に返事をしているようであった。
2023-05-15