小説

流浪

 旅の連れなどいらなかった。気まぐれで作った人形をひとつ胸元に連れて、ただただ目的地も決めることなく、この広い世界を一人で彷徨い歩けばいい──旅に目的はなく、終わりがいつやってくるかもわからない、僕に存在する無駄に長い時間潰しをする毎日を送る、ただそれだけの話であった。旅の道中、小さな村にたどり着いた。国境のそばにある、辺鄙な村である。その村で女に出会うまでは、僕の旅がどこへ向かってゆくのか、この旅路に終わりが存在するかすら考えることすら億劫になってしまうほどに長い長い時間を、僕ひとりと、いつかの気まぐれで作った小さな人形だけで歩いていけば良いと思っていたのだ。
 女はその村で幸福に暮らしていた。自分が経験したことのない、やさしい両親というものを持ち、日々生きるために必要なだけの食糧と、生活に困らないだけの金を持ち、楽しそうに過ごしている。女に対して抱いた気持ちは、過去の僕が見たならば羨望に限りなく近い思いを抱くものだろうと思っていた。しかし、この女は、自分の持たぬ全てを知らず知らずのうちに手に入れてはそれ自体が幸福であることすら知らないようで、ひどく呑気な顔をして日々を過ごしているようであった。

「旅人」

女は僕のことをそう呼んだ。その呼び名を否定する必要はなかった。今の僕の身分は世界を放浪しているものであり、そのような者のことを”旅人”と呼ぶのだということを知っていたからである。かつてその名で呼ばれていた者と出会ったのはとうに過ぎ去った昔の出来事であり、その旅人の手で不本意ながらこのどうしようもない世界で、僕が第二の名を得ることとなったが、第二の名を女に告げるつもりはなかった。そもそも、この村に長くとどまる理由がなかったのだ。名を名乗ったところでどうしようもないだろう。「旅人は、どこから来たの?」女は僕の顔を見て言った。彼女の双眸には”興味”と”関心”の色が浮かんでいる。僕が聞いてもいないのに、女は勝手に自分の話をぺらぺらと話した。この村から出た経験があまりないこと、ほんの五つのころ、一度だけこの国の港まで連れて行ってもらったのだということ──その話に全く興味を持つことができなかったのだが、女が楽しそうに話しているのを、暇つぶしにして時間をつぶしていた。この女は、村の外のことを、殆ど何も知らない。この世界に暮らしながらも、この世界の何もかもを知らず、暗部に触れることもなく、ただただ幸福な毎日を過ごしているのが羨ましくもあった。女はこの村にやってきたよそ者である僕のことを快く迎え入れて、「この村で過ごす間はこの家にいてくださって構いません」と言い、部屋まで与えてくれた。その誘いは僕にとって都合が良く、その言葉に甘えて部屋を借りることにした。女の家は、この村の中にある一般的な家とそう変わりなかった。豪華な家具があるというわけでもなく、かと言って質素すぎるというわけでもない、ごくごく一般的な家庭という言葉がふさわしいように思えた。与えられた部屋には、ベッドが一つと、小さな机と椅子、それから机の上だけを照らすことのできる小さな灯りと、小さな花瓶が飾られていた。花瓶には甘い匂いのする白い花が一輪だけあった。花は天井に向かって花びらを大きく広げている。僕が、この村で過ごす間なんの不足もない、必要なものだけがそこにはあった。
 翌朝、女の両親が仕事に出かけた後に女は僕の部屋を訪ねてきた。遠慮がちに部屋をノックして入ってきた女は、朝の短い挨拶をした後で「昨晩は眠れましたか」と問うてきた。人間ではない僕には睡眠というものは必要ない。する必要もないことをあえてすることもない。「良い夜だったよ」そう、それだけを答えると女は安心したような顔をしていた。「枕が変わると眠れないというでしょう、だから少し心配していたのです。でも旅人さんにはあまり関係ないかな」そう女はつぶやいた後、花瓶の水をかえていた。さして面白いものでもないのであるが、その様子をただ見ていた。花はいつしか枯れる。枯れる花のためにこの女は毎日水を変えているのだろうか。僕にとってはその行為すら無意味なものに思えて仕方がなかった。しかし、その無意味だと思えるその行為も、客人のためにやっていることなのであれば、その行為に対して無意味だと言うのもまた意味のない行為である。迷惑にならない善意であれば、それを受け入れるのもまた悪くないことだろう。「旅人、あなたのこれまでの旅の話を少しだけ教えてくれませんか」そう、女は言った。僕が、女に出会ったときと同じことを再び言われたのだ。「僕に面白い話なんて何もないよ」ただ、行き場がないからこの世界を放浪しているのだということを、この女は知らない。そして、僕がこの女にそれを話す必要もないのだ。

「君は旅に出てみたいと思ったことは無いの?」
「見知らぬ土地に出かけてさまざまなものを見ることに憧れはしますが、実際に行動を起こす勇気は出ないのです。外は危険なものがたくさんあるのでしょう」
「そうだね」
「あなたほどの力があれば、旅に出れたかも知れませんね」

女はそう言って、僕の胸元にある神の目を眺めていた。緑色に光るこの神の目は、神になり損ねた僕に与えられた、神から授かった”神になり得る者に与えられる資格”でもあった。ひどく皮肉な話である。その女はそのような事情も知らずに、ただ何の気なしに、純粋に元素力を扱うことのできる力の証明であると思っているのだ。

「君もついて来るかい?」

その言葉は、僕が思うよりもずっと自然に溢れ出てきた。幸せな今の生活の全てから離れて、この世界を放浪することになる、その長い旅路への誘い文句であった。この女が家に帰りたいと根を上げるところが見たいという底意地悪いことを全く考えなかったわけではない。女はきっと首を横に振るだろう、そう内心思っていた。ただの冗談であるとこの女は受け取り、困ったように笑って旅に出ることを断るのだ。そう思ったのだが、女は目を丸くして、僕の目をまじまじと見つめていた。

「あなたの旅に?」
「それ以外ないだろう?力も持たない君は一人で旅に出て情けなくどこかで野垂れ死ぬのを望んでいるのならば別だけれど」

女は少し考え込んだのち、口を開いた。「あなたはこの村をいつ出るのですか?」そう言った後にすぐ、慌てたように続けて言った。

「違うんです、すぐに出ていってほしいというわけではないのです」
「分かっているよ」
「決心をつけるまでの時間が欲しいのです」
「三日かな、僕はあと三日はここにいようと思う」
「わかりました」

女はそう言って考え込むようなそぶりを見せ、「またご飯の時間に」と言って部屋から静かに出て行った。その後ろ姿を見ながら、らしくもない──こんなことを言うつもりではなかった、と思ったのであるが、言ってしまった手前もうどうしようもなかった。女と話をした三日後、女は小さな荷物を持って「わたしも、あなたについていきます」と言った。「良いのかい、いつでも柔らかいベッドで眠れるわけじゃないよ」そう告げたのであるが、女の意思は随分と固いもので、力強く頷いていた。

「あなたと一緒ならば、大丈夫だと思ったのです」
「根拠もなしに?」
「根拠なら、今まであなたが無事に旅をして来れてこの村に辿り着けている、ただそれだけで十分でしょう」
「そう」

女は両親に「出かけてきます」と告げた。両親たちは僕たちふたりの旅路を心配していたようであったが、女の意思があまりにも固かったせいか、説得を諦めたらしい。「気をつけて」「ええ。旅先で手紙を書きます」短い別れの言葉を告げた後、僕たちは村を旅立った。それは、女にとっては何もかもを知らない世界への旅のはじまりの日であり、僕はどこへ行くかも分からない旅の続きが再びはじまった日であった。
2023-04-30