小説

うまくいかない話#10

「ただいまあ」年単位ぶりに実家に帰ってきた。一人暮らしの発端は家から追い出されたからで、初めのうちは望まぬ一人暮らしであったのにも関わらず、慣れて仕舞えば実家にあまり帰らなくなるから不思議だ。実家に帰ってきてリビングで寝ながらテレビを見ていると、インターホンが鳴った。「はあい」そう、母親が玄関に向けて返事をしたのちに、玄関の方へと走っていく。そうして玄関扉が開き、「あら!」と驚いたような声を上げた。「おばさん、こんにちはあ」そう玄関先から聞こえてきたのはなまえの声であった。今まで思い出したくなかった、なまえの声である。「どうしたの」玄関口で話している声の方が気になってしまい、テレビの音など何も聞こえなくなってしまった。「結婚の挨拶に来たんです」結婚。その言葉が聞こえたときにすっと背中が冷えた。「今侑おるけど」そう母が言うのを聞いた時に呼ぶなと心の底から叫びたくなった。なまえは「ええよ、侑も休んでるやろうし……」と言って遠慮するのを聞き、ひどく安心していた。今更なまえと顔を合わせたところで話すことなど何もない。知らない男との結婚の挨拶を聞いたところで元彼である自分に会いたいと思うわけなどないだろう。なまえは少しだけ母親と話した後、すぐに帰っていってしまった。「なまえちゃん、結婚したんやってえ」そう、母親が己の気も知らずに話しかけてきた。「ほおん」そう、適当に相槌を打つだけで精一杯だった。別れた後も己はなまえと言う女ひとりにふりまわされているというのにも関わらず、なまえは知らぬ男と付き合って、結婚したのだ。当たり前か、なまえのような素敵な女を放っておく男などこの世にはいないに決まっている。そう考えて、手放したのは自分の方だったのだと思い出してため息をついた。あのままなまえと付き合っていればなまえと結婚したのは己だったのか、そういうありもしない妄想をしたけれども、もうこれから先それは現実になることはないのだと思ってため息をついた。
2023-02-03