小説

うまくいかない話#9

 「身の回りのことを全部やってくれる子って、ただの都合のいい人やないですか」そう言われてからなまえのことを考えるたびにそのことが頭をよぎるようになっていた。己が好いている最高の彼女だと思っていたなまえという存在が、今まではこの世で最も素敵な女であると信じてやまなかったはずなのにそれがどうにも霞んで見えるようになってしまった。今までそんなことを一度も考えたことなどなかったのに、ただ外野から言われた些細な一言でこんなにも揺らいでしまっているのである。そんな己の気持ちなど何も知らないなまえは、相変わらず家のことをすべてやり、世話を焼いては満足そうな顔をしていた。「なあ侑、今日はなあ……」今日の出来事をぽつぽつと喋るなまえの話など少しも自分の耳には入ってこなかった。頭の中を巡っているのは、三食ごはんと家事がついてくる女、それについて母親と何が違うのかと問われてみたときに、それを否定することが出来なかった自分自身のことである。なまえの話に相槌を打つことも忘れて、すっかりその思考に囚われてそれ以外のことを考える余裕などなかったのである。女性関係の乏しかった己にとってなまえ以外の女性という他の比較対象があるわけもなく、彼女と言う存在そのものがどのようなものであるのが正しいのかが、なにもわからなくなってしまった。少なくとも母親とはセックスはせんやろ、そう思い直してはセックスをするかどうかで彼女か母親かの線引きをしている自分にも嫌気がさすようになり、無理やり彼女と母親の線引きをしようとしては苦悩する、そのような時間を過ごしていた。あまりにもぼうっとしていたせいか、なまえが己の顔をみて口を開いた。「侑、何かあったん?」最近静かやね、そうなまえに問われたけれども何も答えることができなかった。彼女と母親の違いがよくわからないとなまえに言えれば良かったのであるが、そのようなことをこの目の前の女に言えるわけもなかった。「おう……」そう小さくつぶやくと、なまえが顔を覗き込んできた。それがまるで小さな子どもを心配する母親のようであり、目の前にいる世話焼きのなまえという女のことを彼女ではなく、この女は母親のほうに近いのだと思うと急に気分が悪くなってしまった。今までは彼女のそういうところが最も好きだったのにも関わらず、である。

「……いや、なんでもない」
「何かあったなら言うてよ」

そうなまえは優しく言ってくれたけれどもそれに対して返事をすることができなかった。素直になまえの言葉に甘えて、全てを吐き出せるのであればよかった。それが出来なかったのは、なまえという女が自分の恋人であるからであり、これがもし恋人でなければなまえに気軽に聞けていたのだろう。己が心の中で考えていることのすべてをなまえに伝えることなど出来やしない。彼女として見ていたはずの女のことが母親のように見えてきて気分が悪くなってしまったなど、彼女に伝えてはならないことくらい自身でよくわかっていた。その日、なまえを玄関先で見送るときも、「ほなまた明日」と言って手を振って出ていくところをいつも名残惜しいと思っていたのであるが、ここのところ暫くは、もう早う帰ってくれという気持ちの方が強かった。なまえに対して今までこんな気持ちを一度も抱いたことがないのにも関わらず……

一度拍子がずれてしまうとその調子を整えるのは難しい。ずれてしまった足並みを再び揃えなおすために努力する気持ちが、もう己の中に存在しなかったのだ。なまえは相変わらず己の家に来て、家事をやって、夕食を作ってくれている。なまえの食事は文句なしにおいしいはずなのに、なぜかこの日は味がしないような気がしていた。「侑、やっぱり変や、最近」そうなまえが食事を終えた後、テーブルに置いてある箸置きに箸を揃えて置いた後にそう口を開いた。「最近元気ないやんか」そう心配そうな顔をして彼女が己の顔を見ているのを見たときに、申し訳ないという気持ちが半分、もう耐えられないという気持ちが半分あった。

「……別れよう」

そう切り出したとき、なまえは目を丸くして己の顔を見ていた。唐突にそう、己が切り出したことに驚いているようでもあった。「わたし、何かやった?」そう、なまえが問うてきた。なまえは何もしていない。ただ、己が心変わりしただけの話である。なまえの丸い眼に少しずつ涙がたまっていくのが見えたときに、なまえは本当に己のことを好いていたのだということを改めて知り、申し訳なくなってしまった。「ほんま、すまん……」そう涙をこぼすなまえに対して首を垂れて謝ることしかできなかった。
その日、玄関からなまえを見送ったのが最後の日になった。その時のなまえのさみしそうな背中をまっすぐ見ることができなかった。



「なあ、侑う」そう、己に甘えてくる女に対して「どうしたん」と答える。なまえとは全く似ていない女だった。好きな女のタイプを聞かれた時に、乳のでかい女がいいと心にもないことを言った時に紹介された女だった。乳の大きさは申し分なくそれ以外に関して言えばこうやって甘えてくるところは、なまえにはなかったところだった。なまえと全く違う女を選んだのは、なまえのことを思い出さずに済むからである。なまえのことを忘れるためになまえと似ても似つかない女と付き合っているはずなのに、思い出すのはなまえのことばかりであった。この女はやたら己の家に来たがったが、彼女を家に入れることはなかった。世話を自分からしたがる女であるならば、また、なまえのことを思い出してしまう。どうしてもこの女との比較対象になまえが出てきてしまうのは仕方がないことだろう(本来、こういう過去に付き合った女と今の彼女について比べることがよくないことはわかっている、そのため、この女の前でなまえのことを話したことは一度もない)。「なんで家にいれてくれへんの」そう女が言うたびに適当に言い訳をして逃れていたが、いよいよその言い訳も尽きてしまった。「あたし以外にも女がおるん?」そう女が小首を傾げて可愛らしく己に問いかけてきたが、その視線は鋭いものであった。「そういうのやないねん」そう答えはしたものの、この女は全く納得してくれなかった。結局、この女は己が意地でも家に入れたがらないところを見て他の女がいると思い込み、相手の方から別れを告げられてしまった。その時に別れられたことに安心している自分がそこには居た。その後、別の女と付き合ったけれどもそれもうまくいかなかった。女を家に入れないことを徹底した結果別れたのだから家に入れるべきだと思い自宅に女を入れたら、その女がなまえのように自分の世話を焼こうとしたため嫌になってしまったのだ。別れ際「なにがあかんかったん」と女に縋られたけれども、なまえの時と同じように理由を言うことができなかった。色々な女と付き合ってみたものの、結局どれもこれもうまくいかなかった。どの女と付き合ってもなまえのことを思い出してしまうのだ。なまえのことを思い出さずにいれる女であればそれでいい、己の望みはただそれだけであるのにも関わらず、なぜこうもうまくいかないのか。
2023-02-03