小説

真贋(後)

【肆】
待ち合わせの日の昼下がり、彼女に連れられて、わたしは彼女が主人と一緒に住む家へと案内された。小さな壺のようなものに触れた瞬間、目の前の景色が変わり、璃月の山奥のひどく落ちついた場所をそのまま閉じ込めたような空間に、巨大な邸宅があった。「ここは……」わたしが景色を見渡しながらそう問うと、彼女は「ここは先生の住む家で、わたしの家でもあるわ」と言った。わたしと同じ顔、同じ名前をした女は、わたしの姿を上から下まで眺めた後に、「そうだ! いいこと思いついた」と言ってわたしを家屋の奥へと案内した。「この服、着てみてくださる?」女が出してきた洋服は、彼女が今着ている洋服と全く同じ服であった。彼女に言われるがまま、わたしは自分の着ていた西風教会の修道服を脱いで、彼女の洋服を着た。そして、彼女がそうしているように、わたしの髪の毛を結ってくれた。彼女は、彼女そのものになってしまったわたしの姿を、興味深そうな表情で眺めている。そして、わたしに「そのままぐるっと回ってみてください」と言った。彼女に言われるがまま、くるりと回って見せると、「私の姿はほかの人にはこのように見えているのですね」と言った。彼女はわたしを台所のほうへと連れて行き、ここに立ってみてください、と言った。彼女に言われるがまま、わたしはその通りにした。彼女はわたしの姿をじっくり眺めた後で「なるほど」と言った。

「鍾離先生から見た私というのはこのように見えているのですね」
「……鍾離先生?」

彼女の口から知らぬ人の名前が出てきたので思わず聞き返してしまった。すると、彼女は「あなたは最近璃月に来たばかりですから、知らないのも当然のことですね」と言った。そして、彼女はその″鍾離先生″という人の話をした。彼女の主人の名であり、璃月でも博学で有名な方なのだという。行き場をなくして困っていた彼女は、鍾離先生に引き取ってもらいこの場所で長く生活しているのだと言った。

「この運も、岩王帝君のおかげかもしれないわ。今はもう、天へと還ってしまわれたけれど……」
「天に還った? それでは、もう岩神はいないのですか?」
「確かに岩王帝君は還ったわ。けれどもきっと、私たちのことはどこかで見守ってくれている……だから、居なくなったというのとは少し違うかもしれないわね」

彼女はそう言い、遠くを見るような目をしていた。ぼうっと眺めている先は、この場所に広がる景色とも違うところを見ているように、わたしの目には映った。「本当に岩王帝君がまだ私のことを見てくれているのであれば今すぐにも……」そう彼女はぽつりと呟いた後、黙って首を横に振った。
「私も、ここまで鍾離先生に色々してもらっておいてこんなことを言うのはよくないということくらいわかっているのだけれども」
それでも退屈なのよ、と彼女は言った。時折街に出て息抜きをしたりしないのかとわたしが問うと、彼女は首を横に振った。「先生は私が外に出るのをあまり良しとしない……この場所には私の欲しいと望んだものすべてがあります、それはすべて鍾離先生が用意してくれました。それでも、少し退屈になってしまいます。彼に助けられておきながら高望みをしているということはわたしも知っているつもりなのですが」そう彼女が少し困ったように笑っていた。その表情からは彼女の諦念に到達しているようにも見えた。

「私、あなたに会えて本当に良かった。これは岩王帝君のおかげかもしれないわ」
「どうして?」
「あなたと出会えたことが何よりの証拠だわ。……ああ、いいことを思いついた。一日だけ、あなたの時間を私にくれないかしら」
「それはかまわないけれども、何をするのですか?」
「一日だけ、入れ替わって過ごしましょうよ。私があなたになって、あなたが私になる。本当に一日だけよ、お願い」

必死に願う彼女の思いを聞くと、それを断ることなどできなかった。たった一日。東の果てから太陽が昇り、西の果てに沈むまでの短い時間である。ここまでわたしと関わってくれた彼女にできることがあるならば……そう思い、彼女の考えに「ええ、一日ならば」と賛同すると、彼女は「ありがとう」と言い、微笑んだ。そして、わたしの着ていた修道服を借りてもいいかしら、と言ったので、それに首肯した。彼女はわたしの修道服を着て、くるりと回って見せた。西風教会の修道服の裾が躍る。わたしの姿は、こう見えているのかと思うとなんだか感慨深いものがあった。今のわたしと彼女は、本来のわたしと彼女が入れ替わっているのにも関わらず、元の姿とそう変わりないように見えた。

「あなたは人と一緒に過ごすのがあまり好きではないのですか?」
「難しい質問だわ。私は確かに鍾離先生のことは嫌いではないわ。むしろ感謝しているわ。けれども、ここは少し窮屈なの」
「わたしの知るシスターは愛する人と暮らしているとき、いつも嬉しそうにしていたわ。でもあなたは少し違うみたい」
「ええ、そうね。そのシスターはきっと、今の暮らしが本当に楽しくて仕方がないのだと思うわ」
「ならば、あなたは楽しくないということ?」
「難しい質問だわ……楽しくないわけではないのよ、これは本当。でもね……」

わたしは、シスターを見て人と共に暮らすことに憧れの念を抱いていた。シスターが子の手を引いて、楽しそうに会話をしている姿。シスターは子を愛し、子はシスターを愛していた。仲睦まじく歩く二人の姿は、どこから見ても幸福の姿だったのである。人と暮らすということはああいうことなのだと勝手に思っていた。しかしながら、目の前の彼女は鍾離先生という人と暮らしているのにも関わらず、全く楽しそうに見えないのだ。「私はきっと幸福よ、誰よりも恵まれているはず……」そう彼女は小さくぼやいた。

「あなたも、私になってみれば少しはわかるかもしれないわ。あなたが私として生活をして、私があなたになって生活をする……きっと、主人は今日の晩には帰ってくるでしょうから、彼と一日を過ごしてみたらきっと何かわかるかも。そして明日、また同じ場所で待ち合わせをして……どうかしら?」

彼女がうきうきとした様子でそう言った。わたしが答えあぐねていると、彼女が「ねえ、お願い」と頼み込んできた。彼女はわたしのように自由に外で過ごすことをあまりしたことがなく、外の世界に憧れているのだと言った。わたしは彼女のふりをしてこの邸宅で過ごし、彼女はわたしのふりをして璃月の街で過ごすのだという。もし、主人にバレてしまったら──その心配を口に出すと、彼女はカラカラと笑って、「主人は優しいから、きっと許してくれるわ。その時は二人で一緒にごめんなさいをしましょう」と言った。彼女がそこまで言うのであればと首肯すると、彼女は嬉しそうな声を上げた。そうして、彼女はこの邸宅の中でわたしが彼女に代わってやらなければならないこと、そして、彼女の主人の趣味、それから──全てのことを言ったあとで、「あなたのその振る舞いは私そのもののよう。きっとバレることなんてないわ」とくすくすと笑っていた。わたしの持っている神の目を見たあとで、「でも私は神の目は持っていないけれども、それでもきっとなんとかなるでしょうね」と言った。そうして、彼女は少しの荷物を持って、「じゃあ、私は出かけるわ。また明日、あの場所で待ち合わせましょう。また、いつか……」そう言って彼女は手を振って、敷地から出ていってしまった。

【伍】
彼女の主人が帰ってきたのは、それから数刻とも経たない頃であった。今まで彼女が邸宅の全てをやっていてくれたおかげか、わたしがやることといえば邸宅の小さな掃除と、主人の服の準備だけであった。彼女の主人が顔を見せた時──わたしの表情は、自覚できるほどに凍りついてしまった。

「今戻った」

その声、その姿──それはわたしの記憶に鮮明に焼き付いていた。彼女の主人──鍾離という名だったか──というのは、岩神モラクスが人の姿をかたどったものであった。

「お、お帰りなさいませ」

わたしの声が自然と震えるのを感じた。目の前のこの男相手に、わたしは彼女のふりをしなければならないのか、そう思うと一気に緊張が走った。「……鍾離先生」そう、彼の人としての名を呼んだ。モラクスはわたしの姿を上から下まで見た後に、わたしの腰の一点を見ていた。その瞬間、彼が表情を固くし、わたしの腰元にぶら下がっていた神の目をむしりとった。そうして彼はそれを見つめた後で、片手でそれを握りつぶした。琥珀色の神の目が音をたてて砕け散るのを、彼が真顔で眺めたあとに、彼はぽつりと呟いた。

「贋作か」
「……」

わたしが彼の顔を見ていると彼は「怖がらせてしまったか」と言い、わたしの頬に手を伸ばした。モラクスが、わたしの頬を撫で、まっすぐな瞳でわたしの目を見ている。その目に映っているわたしは、彼の言うところの彼女の贋作であるに違いない、わたしが彼女でないことを知った時、彼はわたしの神の目を砕いたように、わたしの肉体も同じように砕いてしまうのかもしれないと、そう思った。彼からもらったものが彼の手によって壊されてしまう、それがわたしに取っての恐怖であった。「いいえ……」無理やり絞り出したその声に、モラクスは顔を伏せた。彼の目にはわたしが彼を恐れているように映っているのか、彼はひどく優しい表情を浮かべて、「いや、何も言わずともいい」と言った。彼は一人納得したのか、そのまま邸宅の中、彼の自室に戻っていった。わたしは彼女に言われたことを思い出し、彼の後についていった。そして、彼の着替えを手伝った。「この数日、お前はどうしていた」そう、モラクスはわたしに問うた。モラクス──いや、鍾離と言うのが正しいか、彼が彼女に言いつけていた、この邸宅から出ないという約束を破ったことは口が裂けても言えるはずがなかった。「花の世話をしていました。昨日、スイートフラワーの花が咲いたので、それで砂糖を作って……」そう、彼女が作り置きをしていた瓶に入った砂糖を見せると彼は「そうか」と言った。「街には行かなかったのか?」そう、彼がわたしに優しく問うた時、彼にこれ以上嘘をついたところでどうしようもないと言うことを悟ったわたしは、「少しだけ。モンドの行商人が来ていると聞きましたから……」と恐る恐る口に出していうと、彼は少し考えこむそぶりを見せた後、まっすぐな視線をわたしに向けた。彼のその視線から目をそらすこともできなければ、これ以上彼にどんな言い訳をしてもどうしようもならないということを、わたしは悟った。

「あの贋作はそこで買ったのか」
「ええ。きれいな琥珀色をしていましたから」
「そうか」
「何か、嫌な思い出でもあったのですか」

そう、わたしは恐る恐るモラクスに問うた。

「……お前が神の視線を受けたのではないかと」
「それに何か問題が?」

わたしの質問に、彼は答えなかった。無表情のまま、わたしを見つめているだけだ。「……ごめんなさい、出過ぎたことを言ってしまって」そう、わたしが言うと、彼はため息をついた。「お前はどうしていつもそう怯えている?」そう言って、わたしの頬を撫でた。怯えてなんかいない、そう、嘘でもつければよかったのであるが、モラクスの前で嘘をつくことなどできるはずもなければ、それらしいことを言ってその場をやり過ごすこともできなかった。喉が震える。声をだすのがこんなにも恐ろしいと思うことは、過去に一度もなかった。──神の目。テイワットの世界で暮らす人々が神の視線を授かった時に生まれると言われるそれを、わたしと同じ顔をした彼女が授かることの何が彼の不満なのか──そう考えた時に、わたしはすぐに一つの回答にたどり着いた。モラクス以外の別の神の視線を彼女が授かること自体が彼にとって不満なのだ。彼女をこの邸宅から出るなと言っていたのもきっと、彼女をほかのだれの目にも見せたくないからであるに違いない。そのことに気づいたとき、岩神モラクスというこの神の狭量さに絶句してしまった。人に見せることを許さず、神に見せることも許さない──それほどまでに、このモラクスはあの人間の女ひとりに入れ込んでいるのだ。岩神モラクスとあろうものが、たかだか小さな人間ひとりにここまでいれこみ、固執している! 岩王帝君を信仰している人間がこれを見たらこの神にあきれてしまうのではないのかと思うくらいである。岩王帝君は天へと還ったという。それならば、ここにいるモラクスは一体何だというのか。神の座を降りた彼は今、岩王帝君としてではなく、一人の鍾離という人間として生活をしようとしているのだろうか。まるで、わたしが元素生物としてではなく、人として暮らす様になったように……確かに、目の前にいる鍾離と名乗るこの男は、かつての岩王帝君とは違う。彼は契約を重んじ、それ以上もそれ以下でもなかったはずだ。たったひとりの人間の女に入れ込むことなどしなかったはずだ。人が人を愛し、生活を共にする……その様なことを、かつての彼ならばしなかっただろう。今の鍾離と名乗る男の姿を見た後では、岩神でもなんでもない。これでは一介の人間とそう変りないのだ。岩神モラクスの、神であるすがたしか見たことがなかったわたしにとって、人のように独占欲という感情をむき出しにし、欲のままに一人の人間を閉じ込めている──そのこと自体信じがたいものであった。モラクスは、あの人の女に入れ込み、彼女を閉じ込めていたけれども、わたしの知る彼女はこの邸宅から外に出たがっていた。欲しいものの何もかもを与えられたのにも関わらず、この場所にいること自体が苦痛に思えていたのだ。あのシスターと子のように、互いを愛しているわけではなく、モラクスが一方的に人を愛し、独占しており、女はそれに飽き飽きとしていたのだ。彼女が、まさか信仰していた岩王帝君だとは微塵も思っていなかっただろう。そうであれば、まだ話は少しだけ変わっていたはずだ。モラクスの寵愛を受けているのにも関わらず、彼女はこの場所から逃れて自由になりたいと岩王帝君に祈る──こんなに悲しいすれ違いというものがあるだろうか。モラクスと彼女、ふたりの人との共生の姿というものは、シスターとその子に対して抱いた、わたしの焦がれた人と共に生きることの姿ではなかった。
それと同時に、わたしに人間としての器を与える時、この姿にしたのはきっと、 彼にとって最も人間としての理想的な姿であったからに違いないということにも気づいてしまった。わたしがこの姿に創造されてしまったことの理由──単純に、彼が愛していた人の姿というものが彼女の姿だったからである──を悟り、わたしは口を噤んだ。わたしが明日、この場所から出なければならないと彼に言ったらどうなるか、それを考えると目の前が真っ暗になってしまった。きっと良しとは言われないだろうし、彼女の今までのことを考えると、きっと許しはしないだろうとも思った。そうわたしは確信しながらも、彼に明日のことを話した。

「鍾離先生」
そうわたしが彼の名前を呼ぶと、彼は気持ち嬉しそうな表情を浮かべてわたしの方を振り返った。
「なんだ」
「明日、少し外に出たいのです。街中に出かけたいのですが……」
そう言うと、彼はやはり顔をしかめた。
「何か必要なものでもあるのか」
「いいえ」
「ならば、何故」
「散歩に出たいと思ったのです」
「それならば邸宅から出た先に泉がある。そこにいけば気晴らしにもなるだろう」

やはり彼は、わたしの外出をよしとしなかった。わたしと同じ顔をした彼女との待ち合わせの時間は明日であるのにも関わらず、わたしは彼女の待ち合わせ場所に到底いけそうもなかった。この場所を無理に出ようとすれば、彼が烈火のごとく怒り狂うだろうと言うことも、察することができた。わたしは、モラクスに逆らうことはできない。わたしが彼に逆らってしまえば、人としての体を破壊されるだけではすまないだろうし、出ていった彼女もただでは済まないだろうと言うことも、理解することができたからだ。モラクスは「もう今日は休もう」と言って、わたしの手を引き、彼は彼の寝室へとわたしを連れていった。わたしを抱き込んで眠ろうとするモラクスの横で、わたしは明日のことを考えていた。彼女は主人は笑って許してくれますよと言っていたものの、わたしには彼が彼女のことも、わたしのことも許すとは全く思えなかった。彼がわたしの神の目を破壊したように、彼が彼女の贋作であるわたしと、彼女が入れ替わっていることに気づいたとき、わたしの運命はきっとあの神の目のたどった末路と同じである。外が暗くなり、夜が更けるのを、床で静かに息を殺して過ごしていた。「眠れないのか」そう、岩神モラクスはわたしに優しく問いかけた。わたしは彼の胸の中で目を伏せながら、「まだ少し、眠くなくて」と言った。「俺は……」少し疲れた、とモラクスは小さくぼやいた。眠りの必要がない夜に、人が眠りにつくようにわたしも眠るふりをしなければならない。夜明けまでにはまだ時間がずいぶんとある。わたしは明日のことを考えては、口から出そうになるため息を無理やり飲み込んでいた。



翌朝、彼は結局、わたしが外に出ることを許さなかった。わたしが彼女の贋作であるということを彼に言えば、この場所からわたしを放り出し彼女を連れ戻しに行くだろう、そう考えたあとで、それが彼女にとって幸せなことなのかを考えた時、わたしは黙り込むことしかできなかったのであるが、このままモラクスに嘘を吐き続けることができるとも思えなかったわたしは、意を決して彼にその話をすることにした。

「わたしは、あなたの愛している彼女ではありません」

嘘をばれてしまえば、きっとわたしの身体は破壊されるだろう。それが、早いか遅いかだけの話である。身体が破壊されるのが今日なのか、それともまだわからぬ先かのどちらかでしかないこの場所で、長く怯えて暮らすのは嫌だった。それならばいっそ──そう思ってわたしは、彼に思い切って話してしまった。モラクスは不思議そうな顔をした後で「ふむ」と考え込むようなそぶりを見せた後、口を開いた。

「俺の愛した女と同じ姿、同じ名、そして同じ声をしているお前が、俺の愛した人ではないと?」
「ええ、そうです。わたしは人間ではなく、あなたに身体をもらった元素生物に過ぎません」
そう、はっきり彼に言ったのであるが、彼は不思議そうな顔をしているだけであった。
「俺が身体を与えた元素生物であるというのならば契約は覚えているだろう」

そう彼は鋭い口調で言った。彼とわたしの契約、それはわたしがこれから人として生きていくということ、元素生物ではなく、人として──そのことを思い出してわたしは口をつぐんだ。わたしと彼女との違いは、わたしの生が元素生物であるか、人であるか、その差異しかない。そして、契約の上でわたしが人として生きているということになるのであれば、わたしは彼女との違いがなくなってしまう。人として人の腹から生まれた彼女と、元素生物として土の中で生きていたわたし──その差異が考慮されないのであれば、わたしは彼のいうところの彼女そのものであるに違いなかった。そうなってしまえば、ここにいるわたしという生き物は、彼にとって彼女そのものであるに違いない。このままでは、わたしは彼女ではないのにも関わらず、わたしはモラクスの望む彼女そのものになってしまう。

「でも、わたしは彼女ではありません」

そう言ったところで、彼は聞き入れなかった。彼女と同じ姿、彼女と同じ振る舞いをするわたし、彼が望んだ彼女そのものである今のわたしを見れば、彼女との違いなぞあってないようなものである。モラクスは黙って首を横に振った。そして、「少し散歩に行くといい、気分も晴れるだろう」彼はわたしにそう言ったが、わたしはいくら散歩をしようがこの気持ちが晴れることがないということを十分に理解していた。「モラクス……」そう小声でわたしが言った時、彼は急に態度を変えた。「契約を破棄するのか」そう彼が言った時にわたしは黙り込んでしまった。この時契約を破棄してしまえばよかったのにも関わらず、わたしは契約を破棄する勇気すらでなかったのだ。

「ごめんなさい、鍾離先生」

そう、わたしは彼女のような振る舞いをして、彼に謝ることしかできなかった。わたしがそう謝罪の言葉を口にすると、彼は満足そうな顔をして「それでいい」と言った。モラクスの考えることが全く理解できないわたしには、今のわたしの言葉の何が、彼にとって良しとすることだったのかさっぱりわからなかった。わたしは彼女の贋作に過ぎない。でも目の前の彼は贋作でも構わないのだと言わんばかりである。モラクスが愛していた彼女という人間が、ひとりの個人としての彼女なのか、それとも彼女と同じ要素をすべて備えているものであればすべて彼女であるという考えでしかないのか──わたしからしてみれば、わたしと彼女は全く別物であり独立した個体であるのにも関わらず、モラクスの中ではわたしだろうと、彼女だろうとどちらでもよかったのだと思うと、モラクスの抱いている彼女への執着の情というものが、どこにあるのかがわからなくなってしまった。しかしながら、それを問うたところで、わたしの望む回答がきっと来ないのだろうということも分かった。契約の上、人として生活をしなければならなくなったわたしは結局のところ、これから彼女として生きることを命じられているに違いない。これから先、わたしはモラクスの前で、常に彼女としてふるまって生活をしなければならないのだ。

「欲しいものがあれば何でも言うといい。用意しよう」

そう、モラクスはわたしに言ったあとで、自室へと戻って行ってしまった。わたしは彼の目がなくなったあと、自分の着ている洋服の腰元を見る。そこは、今まで存在していたはずの神の目があるはずの場所であった。しかしながら、神の目はもうすでに存在しない。これまでの旅路のことを思い出させてくれた神の目を失ったあとで残るのは、わたしのこれからのこの場所での生活のことである。わたしが唯一持っていた、今までの旅の思い出──それすら失ってしまったわたしは、たしかにこの場所に閉じ込められていた、旅にあこがれる彼女と何ら変わりないのだということに気づき、深くため息をついた。

【陸】
女は心の中で謝罪していた。鳥籠の中で閉じ込められていた生活から抜け出すことができるのであれば、それ以外のことを考える余裕もなかった。偶然出会った同じ顔をした同じ名前の女に会えたのは奇跡であり、彼女が人との共生を望んでいるのであれば彼女にとっても幸運だろうと言い聞かせていた。彼女の着ていた修道着に身を包み、璃月から出る馬車に乗る。彼女が以前過ごしていたというモンドという街に出かけてもいいかもしれないと、思った。この国を出て、先生の目につかない場所に行くことができるのであれば、それでよかった。彼女には心の底から申し訳ないと思いながらも、これから始まる新たな旅路に胸を躍らせているのも確かであった。鍾離先生のことであるから、私に良くしてくれていたように、彼女にも良くしてくれるだろうと思う。鍾離先生が、私と彼女が入れ替わっていることに気づいた時、きっと彼は怒るだろうということも、うすらと察していたが璃月という土地を離れて仕舞えば彼の目も届かないだろうと思っていた。彼との生活に不満はなかった。欲しいものは全て与えられた。しかしながら、私にとってそれが窮屈過ぎただけなのだ。「お客さん、どちらへ」運転手がそう私に問うた。「モンドまで」私がそう言うと、彼は分かりましたと言って馬車を引いた。璃月の街並みがどんどん小さくなって見えなくなっていく。私は彼女と先生のこれからのことについて一抹の不安はあれど、街並みが見えなくなって仕舞えばそれもすっかり忘れていた。「彼女がこれから幸福に過ごせます様に」そう私が小さな祈りを捧げた時、私の腰元に小さな光が宿り、琥珀色の神の目が宿った。
2023-01-02