小説

真贋(前)

【零】
深い深い地の底に、わたしは″居た″。わたしの知るこの世界のすべてというものは、生暖かい土の温度と、真っ暗闇だけであった。巨大な岩、深い地の底──わたしは、この真っ暗な世界で静かに息をして暮らしていた。地の底でひっそりと息づくわたし″たち″──それは、わたしを含めた、わたしと同じ様に岩の元素で身体が構成された生き物である──の知るこの世に生きるものは、わたしと同じ元素生物だけがすべてであった。この、何もない世界だけがすべてだと思っていたわたしに、″この世界″以外のものがあると言ったのもまた、わたしと同じ元素生物であった。岩神モラクスより、この世界を見るための目を賜り、巨龍の身体を得、地上に出て暮らすことを許された彼は、地の底からの去り際にわたしにそう言った。地上──わたしたちの棲む場所のずっと上に存在する、この真っ暗な世界しか知らぬわたしには全く想像ができないような世界なのだと言う。わたしたちの知らぬ世界というものは光に照らされ、人という二つ足の生き物が、集落を作って生活をし、わたしたちの知らぬ大地の上を歩いているのだという。わたしはその話を聞きながらも、彼の話すことの一割も想像することができなかった。当然だ、元素生物であるわたしには、この世界にあふれているのだというさまざまな音を聞くための耳という器官を持ち合わせておらず、彼の言う光というものを感知する目という機能も持ち合わせてはいない──彼の言うことの半分も理解できなかった元素生物たち──その中にはわたしのことも含まれるのであるが──は次第に興味を失って再び地中深くで眠りについてしまった。しかしながら、わたしはその″ 理解できない話″に興味を抱いてしまった。それが、わたしの転機となるとも、その頃は分からなかった。わたしは、彼の言う人間という生き物に思いを馳せた。彼の言うことは何一つ理解できなかったのであるが、知らない世界があるということを面白いと感じ、わたしも彼のように、地上の世界で生きたいと願うようになってしまった。二つ足の生き物が、わたしの想像するのも難しい明るい世界を歩き回り生活をしているというのは、どこか別の世界の事柄のように思えて仕方がなかったのである。
この地中から出て、彼のように広い世界を見に行きたい──わたしはそう望んでしまった。彼の言う地上を生きる人のように、両の足で地を踏みしめ大地を歩き、わたしの知らない世界を見たいのだと、そう望んでしまった。一介の元素生物でありながら、人のように生きることを望んだわたしの望みを叶えたのは、岩神であった。元素生物としてではなく、人としての生きるための肉体を与えるのと引き換えに、彼とわたしは小さな契約を結んだ。これから先は元素生物ではなく人として生きること、その契約が、岩神にとってどんな利を生み出すものであるかわたしにはさっぱり理解できなかったのであるが、わたしにとっては利以外のものがなかったので、二つ返事でその契約を結んだ。契約が成立したのち、岩神はわたしに人間の肉体を彫った。光を見るための目があり、においを感じるための鼻があり、音を聞くための耳がある。二本の腕と足のある生き物「──これが、人間」実体のある生き物となったわたしが考えたことが、口を通して音となって外に出て行った。この感覚は未知のものであった。「ああ」岩神は、わたしの言葉を肯定した。

【壱】
わたしの今までいた場所が、璃月という国であったことを知ったのは、わたしが知らぬままに地上を彷徨い歩きモンドという名前の国にたどり着いた後のことであった。上品な服を着た女性が、わたしの身なりをみた時に慌てふためいたあとで、彼女が過去に着ていたのだという服をわたしに譲ってくれた。「わたしの着ていた古いもので申し訳ないけれど……」彼女はそう言っていたけれども、大陸を彷徨い歩いているうちに泥だらけになり、擦り切れ、ボロボロの布切れを纏っているだけに過ぎなかったわたしの姿に比べれば、かなり良い逸品であった。彼女はわたしの、璃月からの旅路──璃月の岩山の方から、モンドへの道のりを走って来たという話である──を聞いた後で、目を丸くしていた。

「馬車を使わずにその足で走ってきたのですか?」
「馬車?」
「あなた、璃月から来たというのに馬車も知らないなんて……あの乗り物よ」

そう言い、彼女はそばを指さした。荷車を馬が引いて走っている乗り物である。わたしが今まで生きてきた中で、そのような乗り物というものを見たことがなかったので、わたしは「あれが、馬車」と彼女の言葉を反芻するように声に出して言った。彼女はわたしの姿を訝し気な目で見た後で(きっと、わたしがあまりにも物を知らないので、不審な者なのではないかと疑っているのではないかと考えられる)、「箱入り娘にしてはお転婆過ぎるし、あなたは一体今までどうしていたの?」と問うた。わたしは岩神モラクスに人間としての身体をもらうまでは地中で生き、モラクスに身体を貰ってからはこの身体一つで大地を駆けてきた。それ以外のことは何も知らない。わたしが答えあぐねていると、彼女は黙りこみ、「あなたにも事情があるのでしょう、踏み込んだことを聞いてごめんなさいね」と丁寧に謝罪の言葉を述べた。わたしは彼女に何を言われても、彼女の望む返答を返す自信がなかったので、彼女がそこで会話を切り上げてくれて助かった。彼女はわたしを連れて、モンドの西風騎士団へ連れて行った。わたしに身寄りがいないこと、璃月から一人でここまで来たこと……わたしが彼女に話したすべてのことを、騎士団の人に話していた。彼らはわたしのことを訝し気な目で見ていたが、その後同情の態度へと変わり、モンドでゆっくりすると良いと言ってくれた。彼女と騎士団を後にしたとき、彼女は「よかったわね、これであなたもモンドで暮らしていけるわ」と言った。

「わたし、ここで暮らしてもいいのですか?」
「ええ。あなたの住む家も西風騎士団が用意してくれたわ。私が今から案内するわね。今日はもうそこでゆっくり休んでちょうだい」
「何から何までありがとうございます」
「これも風神さまのあなたへの恵みでしょう。風神さまは誰にでもおやさしいのです」
「風神さま?」
「ええ。モンドの人々は風神さまの恵みのおかげで暮らしているわ。もし、あなたが風神さまに興味があるのなら、西風教会の礼拝に参加するといいわ。私は教会のシスターをやっているの」
「西風教会……」

西風教会──モンドの中で最も大きな建物のことであるとシスターは教えてくれた。シスターは、わたしのモンドでの生活の拠点となる家に案内してくれたあとで「ゆっくりおやすみなさい」と言って去ろうとしていた。「あの」去り行くシスターの背中に思わず声をかけてしまった。シスターが振り返り、わたしに「どうかなさいましたか」と優しく問うた。

「助けてくださり、ありがとうございました」
「いいのよ。先ほど言った通り、これも風神さまのあなたへの恵みです。私はやるべきことをしただけですから」

それでは、と言ってシスターは歩き去って行ってしまった。わたしは、シスターの小さくなっていくシスターの後ろ姿が見えなくなるまで、彼女の背をずっと眺めていた。



夜が終わり、太陽が再び昇り始めたころ、わたしはシスターに言われた通り西風教会へと足を運んだ。今まで見たことのない人の住居や店の建物の集まる街並みを眺め、悠々と回る風車を眺めながらゆっくりと教会に向けて歩くと、わたしが思うよりずいぶん到着に時間がかかってしまった。教会の扉を開けたとき、中から歌が聞こえてきた。わたしは席に座り、指を組んで瞳を閉じている人を横目に見ながら、空いている席に腰を下ろした。歌が終わり、人々がはけていくのを、わたしはぼうっと見ていた。わたしの身に着けている服と同じものを着ている女性たちの群れの中から、わたしの唯一知った顔の女性が出てきた。「あなた、来てくれたの」シスターは、わたしの顔を見るなりそう言った。

「昨晩はいい夜でしたね。あなたはよく眠れたかしら?」
「はい」

わたしは人間の姿をしているが人間ではない。だから、わたしは人の眠りというものを必要としないのであるが、人間は陽が落ち空に星が瞬いてから数刻したのちに、眠りにつくのだという。眠っている間は夢の中で様々な時間を過ごし、夢からさめたあと、また普段の日を過ごすのだということを、わたしはかの龍の姿を得た彼から聞いていた。彼女が言っているのはきっとそのことだろう。眠りを必要としないわたしは、昨晩部屋の窓から瞬く星々を見、空に昇った月が沈みゆくのを眺め、月が沈むと昇り始める太陽が空を焼き、橙色に染めているのを眺めていた。璃月からモンドまでの道のりを駆ける間にも飽きるほど見たはずなのに、この国で見る空はまた違う表情をしているように見えた。決して飽きることのない星空を見上げているうちに、時間は矢のように走り去ってしまったのだ。さすがにそのことを素直に言うことはできなかったので、シスターには「よく眠れました」と小さなうそをついた。彼女は「それはよかった」と言って微笑んでいた。「先ほどの催し物は、どのようなものなのですか」わたしがそう彼女に聞くと、シスターは「礼拝よ」と答えた。西風教会に所属するシスターたちは、こうして集まって風神さまのための聖歌を歌い、人々はこの教会で祈りをささげている。祈りというものは風神さまに対して、日々幸せに生きてこられていることの感謝の気持ちを祈ることもあれば、自分の犯した罪を許してもらうための謝罪の祈りをすることもあるのだという。わたしが先ほど見た人々は、風神さまに対して思い思いの祈りをささげていたのか。彼らがどのような祈りをささげたのかは、彼らと、それを聞く風神さまにしかわからない。美しい教会の造形を某っと眺めていたわたしに、シスターは声をかけた。

「あなたも、どうかしら」
「祈りを?」
「ええ。あっ……ごめんなさい、璃月の方は岩神を信仰していらしていたわね」

このテイワット大陸という世界に住まう人間というものは、皆それぞれの神を信仰しているのがあたりまえなのだろうか。わたしはたしかに、岩神モラクスに人間の身体を作ってもらった。そのことに対する感謝の気持ちはあれど、彼女たちのように神に対して祈りをささげようと思ったことは一度たりともなかった。岩神というものは璃月の国に居り、その国を支配する力を持った者ということが、私の中の認識であった。わたしが人の世で生きるようになって初めて、わたしはこの世界に住まう人々の神に対する信仰──神に対する敬愛の念のような情のことである──に触れた。シスターの言う″祈り″を行うことで、結果的に神がわたしに何をもたらしてくれるのか──それをシスターに問うたとき、「風神さまから何もかもを頂戴するというわけではないのです」と言った。何をしてくれるかもわからない神に対して、なぜ祈るのか。祈ったことで何になるのか──それを問う前に、シスターが祈りをささげることについて教えてくれた。

「私たちは風神さまがもたらしてくれる幸運に感謝している。その気持ちを祈るのです」
「ならば、悪いことをした人がする懺悔というものは?」
「自らの行いを自省し、悔い改めるという決意を神に聞いていただくのです」
「なるほど……風神さまは聞き上手な神さまなのでしょうか」
「ええ、そうかもしれません。何百、何千という民の心を聞いているのですから、きっとそうでしょうね。きっと、風神さまはあなたにも加護をもたらしてくれるでしょう」

そう、シスターは言った。「風神さまの加護」そう、わたしが復唱すると、彼女は″風神さま″について詳しく教えてくれた。この国で信仰されている神さまのことであり、この国にやさしい風をもたらし、豊かさをもたらしてくれる存在──神というものはこの国を守護する存在なのだということを、ぼんやりと理解した。風神さまというこの国で信仰されている神さまの姿は、広場にそびえたっている像のような姿をしているのだということも、シスターが教えてくれた。この国の人々は、あの神の姿に、この国の人々は敬愛の念を持って接しているのだろう。そして、それが璃月にとっては岩神であるという話なのだろうと、自分なりに理解した。わたしがこの国に辿り着き、彼女に親切にしてもらえたのも、もしかしたら″風神さま″の加護のおかげなのかもしれないと思えば、風神さまに祈りを捧げるのも悪くない話だと思った。わたしの隣でシスターは指を組んで、瞳を閉じて黙り込んだ。彼女もまた祈りを今、風神さまにささげているのか。わたしも、シスターの見よう見まねをして、彼女と同じように指を組んで瞳を閉じた。



モンドという国に来てから、わたしはさまざまなものを知った。これまでの璃月からモンドまでの旅路の中で、そびえたつ断崖絶壁の岩山や、広大な草原などの自然を見ることは多かったけれども、自分と同じ二本の手足を持った、大きな人間、小さな人間──たくさんの人間の集まる場所に来たのは初めてのことであった。人というのは、こうして小さな集団となって生活しているのだということをわたしはこの目で見るまで知らなかったのだ。地中でひっそりと息づきながら暮らしていたわたしの目に映る人間の生活というものは、地中に暮らしているときには全く想像のできない世界であった。人として生きること──それは、わたしが岩神モラクスに望み、その通りにしてもらい、人の中で暮らしていながらも、いまだ実感がわいていなかった。両手を握りしめて、開いてを繰り返す。これがわたし自身の肉体であるのにも関わらず、いまだ別の生き物のような気がしてならない。モラクスは、わたしに人として生活するようにと言っていたけれども、彼の言う人としての生活というのはこのようなことであったのか、わたしには、今このように過ごしているのがが正しいことなのかはわからなかった。わたしを庇護してくれた教会のシスターの真似事──これは人間の真似事である──をして一日を過ごし、時折図書館で本を借り、その本を間借りしている部屋で読みながら過ごしていた。本に書かれている当たり前の人の生活というものは、わたしのような者にとっては何もかもが新鮮であり、元素生物であるわたしたちとも似かよったところもあるのだということを想像させてくれるところが、好きだった。わたしがその本を読んだり、まばゆい星空を眺めて時があっという間に過ぎ去っていくのを感じながら過ごしているうちに、その様な些細な疑問などはすっかり頭のどこかへと消えて行ってしまった。割り当てられた部屋で夜を過ごし、東の果てに太陽が姿を見せ始めたころに、わたしはいただいた修道服を着て教会に行く。西風教会に着いてシスターと朝の挨拶を交わし、彼女と共に風神さまへの祈りをささげた。ランチタイムはベンチに腰を掛けて人びとが和気あいあいと生活している様子を眺めながら時間を潰し、昼下がりの教会の慈善活動の時間になり、わたしはシスターと共に風神像の掃除へと出かけた。決して軽いとは言い難い掃除用具を持って、風神像のもとへと行き、像に着いた汚れやほこりを落とし、丁寧に布で磨き上げる──そのような仕事をしているうちに、空高くに上がっていた太陽は、西のほうへと沈みかけていた。その日、西風教会へと戻ってきたとき、「ママ」と呼ぶ小さな声が聞こえた。その声に反応したのはシスターで、彼女は「あら」と目を丸くしていた。小さな人間、わたしの背丈の半分程度の大きさの人間は、シスターの腕に抱きついて「かえろうよ、今日のごはんはなあに?」と朗らかな笑みを浮かべて問うた。シスターはわたしに申し訳なさそうな声で「ごめんなさい」と謝罪した。

「そちらは?」
「私の子で、家族よ。今年四つになるの」
「家族」
「ええそうよ」

家族──人間には子である自分を生んだ親がいて、その親と子の結びつきのことを親子と言い、それらをまとめたものを大雑把に家族というのだということは知っている。愛する人同士で結ばれることもあれば、そうではない場合もあり、それは人によって違うらしい。以前読んだ本にそのようなことが丁寧に書かれていたからだ。元素生物であるわたしたちが、同じ元素生物と一緒に地中の中に住んでいるのと似たようなものであるとわたしは解釈していた。これが、人の家族。確かに、シスターとその子どもは、目元がどことなく似ていた。子は親に似通ったものを受け継ぐのだとも本に書かれていたことを思い出していた。わたしがまじまじと二人を見てしまったせいか、シスターは「何か?」と問うた。「ごめんなさい、ふたりがとてもよく似ていたから」わたしがそう答えると、シスターは「私たちは親子だからそれは似ているでしょうね」と言い口元に手を当てて笑っていた。
「今日はもうこのくらいにしましょう。子どもも待っているし、あなたも疲れたでしょう。今日は家に帰ってゆっくり休んでちょうだい」
シスターはそう言い、子の手を引いて帰っていった。子どもがシスターに話しかける大きな声が、わたしのいるところにまで聞こえてくる。「今日は鳩と遊んだんだよ」「あらあら。すぐに飛んでいかなかったの?」「一羽だけぼくと一緒にいてくれたんだ」「よかったわね」夕焼けを背に二人が朗らかな会話をして消えてゆくのを、わたしはただぼうっと見ていた。あの二人の様子を見ていると、シスターは彼女の子どもを、彼女の子どもはシスターのことを好いているように見える。二人は手を優しく結び、楽しそうに笑っていた。わたしとシスターが同じ時間を過ごしている間に、あの小さな子どもはわたしたちとは違う時間を過ごしていて、その話を今、シスターに話しているのだ。わたしの見聞きしているひとつだけの世界があるのだと思っていたのであるが、それぞれの人たちが同じ時間にそれぞれ違う生活の営みをしているということが、まるで違う世界がこの世に並行して存在している様に思えて面白かった。家族というものはそうやって、それぞれ過ごした時のことを、集まって共有するのかもしれない。わたしは、間借りした部屋に帰ったところで一人きりである。今日の話を共有する相手といえば、時折窓に飛んでくる小鳥に話しかけることくらいしかできないだろう(それでも、彼らはわたしの気持ちなど知らずにどこかへとはばたいていってしまうのであるが)。わたしがぼんやりと窓の外を見て過ごしている時間に、彼女は一つの家に集まって、それぞれが過ごしてきた全く違う世界の話をお互いに共有し、会話を楽しんでいる生活を毎日送っているということを知り、わたしも彼女のような日々の生活にぼんやりとした憧れのようなものを抱いた。

【弐】
わたしが土の中で過ごしていた璃月という国の人々の暮らしについて、わたしは何も知らない。それは当たり前のことであった。わたしは、璃月という国の地中奥深くで息をして暮らしていたので、その国の人々の生活というものを見たことがないのだ。璃月という国には大きな港があり、商業が栄えているのだということを、モンドにいる商人に教えてもらった時に、わたしも璃月の人々の生活というものを眺めてみたくなってしまった。そう思い始めてから、窓の外に見える空に月が昇っては沈みゆくのを繰り返しているのを何度か眺めた後で、わたしはモンドという国を離れて璃月という国に出かけることを決意した。朝の礼拝の後、モンドに辿り着いてから良くしてくれたシスターに、わたしは別れの言葉と、璃月という国にいくことを伝えた。彼女は「寂しくなるわね」と言いながらも、わたしを優しく送り出してくれた。シスターはわたしがまた、走って璃月まで移行とするのではないかと心配したのか、モンドから璃月に商売に出かけるのだという行商人に口利きをしてくれ、行商人の乗る馬車に相乗りさせて貰えることとなり、わたしは走って璃月まで行かずに済んだ。行商人が出発する前の晩、シスターと最後の会話を交わしたとき、彼女は「永遠の別れなのではないのだからそんなにかしこまらなくてもいいじゃない。璃月に飽きたらまた、モンドにいらしてね」と言ってくれた。別れの前日の夕方、シスターたちがお別れ会をしようと言い、彼女たちと食事を共にすることになった。本来、元素生物であるわたしには食事が必要なく、それは人の身体を得てからも変わらなかったので(モラクスはわたしに人間の肉体を与えたが、人間に必要な機能までは揃えていなかったようである)食事をすることがなかったのであるが、こうしてほかの人たちと食事を共にしてみると存外楽しいものであった。教会で共に讃美歌を歌ったシスターたち、そして、わたしたちの集まりを聞きつけたモンドの市民、西風騎士団の人々、その場に居合わせた吟遊詩人──わたしたちだけの小さな集まりだったはずのお別れ会というものの規模はどんどん大きくなり、気づいてみればあたりに居たのは初対面の人ばかりになっていた。吟遊詩人はわたしのために別れと再会の歌を、騎士団の方はわたしに一杯のドリンクを、そして知らぬモンドの市民はわたしに別れの言葉を贈ってくれた。彼らは皆が皆を知っているというわけでもないのにも関わらず、言葉を交わし、それぞれ楽しく飲食を行っていた。その夜が過ぎるのはあっという間で、気づいてみればもう月が空高くに上がり、夜もすっかり更けていた。「そろそろお開きにしましょうか」そう、シスターが言い、お別れ会は終わった。長い時間を過ごしたというのに、時間は矢のように過ぎ去っていってしまった。楽しいことというのはこうもすぐに時間が過ぎてしまってさみしいのだということを、最後にシスターはわたしに教えてくれた。
月が沈み、太陽が東の果てに顔を出し始めたころ、わたしは行商人とともにモンドという国を発った。シードル湖にかかる橋を渡り、風車の姿が小さくなってゆくのを眺めていると、わたしがモンドに来てから、彼女たちと出会った日のことがつい今しがたあったことのように思い出された。「モンドはいいところですね」わたしがそう呟くと、行商人はそれに対して「そうだろう」と胸を張って答えた。彼もまた、わたしと同じようにモンドという国をとてもよく気に入っているのだろう。空に太陽が登ってから沈み、空に浮かぶ月と、満天の星空を眺めながら、わたしが二本の脚で歩いてきた道のりを、馬車は悠々と駆けてゆく。乗り物に乗ったのははじめてのことだった。「馬車は良い乗り物ですね」そうわたしが言うと、行商人は少し驚いたような顔をしていた。

「お前さん、璃月から来たのだろう」
「ええ」
「歩いてモンドまで来たのかい」
「はい」
「それは大変だっただろう」

人間として生を受けたばかりのころ、人という生き物がどのようなものかを知らなかったわたしは、初めて見る広大な景色を眺めることができたことがとてもうれしかった。岩壁を背に、草原を駆け、時には海を眺め、突き抜けるような青い空や、瞬く金銀の星々を眺めながら駆け抜ける長い長い道のり──その旅路でさえも楽しいと思っていたのだから不思議だ。今はこうして、はじめて乗る馬車に乗って悠々と長い道のりを駆けているが、これはこれで快適で良いと思った。走ることに気をとられずとも、この美しい景色を眺めていれば勝手に目的地についてしまうのだから不思議だ。ここから、数日かけて璃月に向けて行くのだと行商人は言った。「あなたは何度も璃月とモンドを行き来しているのですか」そうわたしが問うと、彼は「ああ、そうだな」と言った。モンドで採れた果物を璃月の街で売るのだと彼は言う。「お前さんは、何をしにいくんだい」そう彼はわたしに問うた。わたしの真っ先の目標は璃月という街にたどり着くことで、それからのことは何も考えていなかった。ただ、街を見て、人々の暮らしを見たいという希望しか、わたしには無かったのだ。「今はまだ、何も」そう答えると行商人は不思議そうな顔をしていた。「わたしは、モンドの皆さんが璃月という大きな町があると言っていたので興味がわいたのです」そう彼に言うと、どこか納得したような顔をしていた。「確かに、あそこはテイワットの中でも大きな港があって商業が栄えている。興味を持つのも無理はないさ」彼はそう言って笑った。馬車で走りながら、太陽が昇っては沈むのを繰り返し眺めること数日(わたしは、この日が昇っては沈み、再び太陽が昇ってくるまでの時間を一日と数えることも知らなかったのである)、広大な自然の中を進み続けた頃、モンドで見た街並みとは違う雰囲気の建築物が見えてきた。わたしは、璃月という国に長くいたのにも関わらず、地上の璃月というものを何も知らなかったのだ。「モンドとはずいぶん違う街並みなのですね」そう、わたしが行商人に言うと、彼はカラカラと笑った。

「お前さんは璃月から来たのに璃月のことを何も知らないのか」
「ええ……わたしは街のほうではなく、田舎のほうにいたので、街を見るのは初めてなのです」
「そうだな、璃月はモンドとは違う、岩王帝君の力で作られた国なんだ。モンドとは全然違う雰囲気の国だよ」とごくごく当たり前のことを言うように告げた。
「岩王帝君?」
「なんだ、アンタは岩王帝君も知らないのか」
「……ええ、はい」
「ははは、どこかの良いところのお家のお嬢さんかい」
「いえ、そういうわけでは」
「冗談だよ。もしお前さんがどこかのお嬢様ならば璃月からモンドまで走って行きはしないだろうさ」

岩王帝君とは岩神モラクスのことだ、そう彼は言った。モラクスという岩神のことは知っていたけれども、人々がモラクスのことを岩王帝君と呼び親しんでいることをわたしは知らなかった。岩王帝君……その言葉を声に出してみると、なんだか舌に慣れずに不思議な気持ちになった。璃月港に到着し、わたしは行商人に礼を言って馬車をおりた。わたしは、馬車の荷台に商品を並べ始めた行商人の姿を眺めていた。彼はモンドから持ってきた新鮮な果物を並べたのちに、一つだけ琥珀色をしたブローチを置いた。「これは何ですか」宝石のようでいて、それとはまた違う、不思議な品物──それを指さして、わたしは行商人に問うた。「ああ、これは……」行商人はそれを″神の目″だと言った。

「神の目?」
「神に視線を注がれたものがこれを持っていると元素の力を使いこなせるらしい」
「あなたは使わないのですか?」
「ははは。俺にも下心があって少し使ってみようと思ったが、俺ではうんともすんとも言わなかった。俺は神に認められるほどの願いがなかったってことさ」

彼には使いこなすことができなかったのだという琥珀色に光る神の目──わたしがそれを手にしたとき、わたしの手に小さな岩元素が集まってきた。それを見た行商人は、「すごいな。あんたは、神に視線を注がれたんだ」と言って手をたたいて喜んだ。この元素の力は、わたしがもともと岩の元素生物であったから使えるだけのことであり、この神の目のおかげではないのだろうということにうすうす気づいてはいたが、それを言うのは余計なことだろうと思ったので言うのはやめておいた。「お前さんが必要ならば安くするけど、どうだい」そう、行商人は言った。わたしは、モンドから璃月まで連れてきてくれた運賃の代わりに、その神の目を買った。

「ありがとうございます。璃月まで連れてきてくれたことも、神の目を譲ってくださったことも」
「いいんだ。俺はこれをお前さんが買ってくれてうれしいよ。使える人が持っていてくれるのが一番いいことだからな。それでは、達者でな」



璃月という国は、わたしが今まで見てきたモンドという国とは一風変わっていた。モンドという街では吟遊詩人が歌い、シスターが祈りを捧げている姿を見ていたが、この国の街では道行く人々に行商人が声をかけ、商談を行う姿や、講談師が岩王帝君の伝説を物語として語って聞かせている人もいる。港のほうに行くと、多くの船が港にとまり、荷物を降ろしているものもあれば、別の国に出航していく船もあった。璃月の人間は、わたしの着ているモンドの西風教会の修道着を見て、「あなたは璃月人に見えるのに、璃月人ではないのね」と言った。モラクスの作ったわたしの顔というのは、この国の人間を模しているのだということを、璃月の街中に来てから初めて知った。わたしの神さまへの信仰というのは、常に宙ぶらりんで揺れている。モンドにいたときはシスターに倣って風神さまに祈りをささげていたが、この璃月という国で岩神モラクスに祈りを捧げろと言われたらその通りにしてしまうかもしれない。わたしにとって岩神モラクスという神さまは、わたしに人間の肉体を与えた恩人のようなものでありはするものの、人びとのように信仰の対象にするにしては、わたしとモラクスの距離は近すぎるようでもあった。しかしながら、モラクスとの契約で人としての生活を送ることを約束した後なのだから、わたしも彼らと同じように岩神に祈りをささげるようなことをしなければならないのかもしれないと思った。この国に来てまず最初に、モンドで言うところの西風教会のような場所を探してみたが、この国には教会というものがどこにも無かった。「璃月では岩王帝君に祈りを捧げたりしないのですか」そう、通りすがりの人に問うたとき、その人は不思議そうな顔をしていた。

「その修道服はモンドのものだね。この国には教会のような場所はないんだ。でも、人々はこの国を作った岩王帝君に感謝して生きている。君に時間があったら、講談師のところに行ってみるといい。そこに行けば、岩王帝君のお話を教えてくれるはずさ」

わたしは親切な方にそう言われた後で、講談師のいる茶店へと言った。お茶を飲みながら、講談師の話に耳を傾ける。「これは、岩王帝君が人間を作った日のこと──」岩王帝君──わたしの知るところの岩神モラクスのことである──が、一介の元素生物に人間の身体を与えた日の話を、彼は語った。地中奥深くに暮らしていたさみしい元素生物は、ある日太陽の光の元で人間として生きたいと望み、岩王帝君にそう頼んだという話を彼はしていた。まるで、かつてわたしが地中で元素生物としてまだ存在していたころ、この世界には様々な生き物がいて、知らない世界があるということを教えてもらったときに、地上の世界に焦がれ人になることを望んだ日のことを思い出していた。講談師の話を聞けば聞くほど、岩王帝君の偉業というものがこの璃月という国の中では娯楽の物語として語られ、そしてその伝説を聞いて人々はさらに岩王帝君に対する尊敬の念を抱くのだということを知った。わたしは、璃月の人々がモラクスを信仰する気持ちはわからなくもないと思ってしまったのだ。モンドという国でも、璃月という国においても、人々はそれぞれ神を信仰している。その神が、風神か、岩神かの違いであって、信仰心の強さというものは、どちらの人間もそう変りないように見えた。

【参】
璃月港の近くにある小さな宿屋の部屋を借り、わたしのこの国での生活が始まった。モンドにいた頃、教会の礼拝の時間に神に祈っていたことが習慣になってしまったせいか、わたしはその時間この小さな部屋で祈りを捧げていた。祈りを捧げる相手は、モンドで暮らしていた頃は風神に対する祈りであったが、ここは璃月という岩神に対して祈りを捧げる人間が多い国であるため、わたしは岩神に祈るべきか、風神に対して祈りを捧げるべきかを悩んでしまった結果、どの神にも届かない自分だけの小さな祈りを捧げていた。この祈りは誰に届くこともない、ただこの日が平穏にすぎますように、小さな幸福がありますように──そのような自分だけの祈りであるから、誰に対して祈っても問題ないだろうと思った。誰にも届かない小さな祈りを捧げた後、修道着の腰のベルトに付けた神の目を見る。モンドから璃月に連れてきてくれた、行商人から運賃代わりに買ったこの神の目は、モンドという国での出来事を鮮明に思い出させてくれる。優しかったシスター、よくしてくれたモンドの人々、それから──この琥珀色に光る神の目を見るたびにわたしは今まで過ごしてきたことを思い出しては懐かしい気持ちになるのだろう。この神の目に元素の力が宿っているかはわたしにはわからなかった。しかし、それが本物であろうが偽物であろうが、わたしにとってはどうでもいいことであった。この神の目には、わたしがこれまで歩んだ、人間としての旅路を証明してくれるものであり、それ以上もそれ以下もないのだから、ほかの意味を持たずともよかったのだ。宿屋の狭い部屋の中で小さな祈りを捧げた後、部屋にある窓から外を見る。璃月の景観は、モンドの景観とはずいぶん異なっていた。自然が多く、穏やかに回る風車の見えた景色から、せわしなく動き回る人々の営みの見える街々の姿にすっかりと変わってしまったのだ。まだ早朝であると言うのに、人々は忙しなく動き回っている。港に入ってくる船を数えている人たちの背中も見えた。わたしがモンドで暮らしていたころは教会の奉仕活動を手伝っていたが、璃月という国には教会もないので、奉仕活動というものもない。今までは教会に面倒を見てもらっていたが、これからはわたしが自分で生活をしなければならない。わたしは仕事を探しに冒険者協会へと行き、そこでもらった小さな仕事──これは、璃月の人々が手の回らない細々とした仕事を依頼しているものである──を細々と行い、日銭を稼いで暮らしていた。その日、璃月の港で入港した船の数を数える手伝いをしたあとで、わたしは食堂へと足を運んだ。食事を必要としないわたしが、特に必要のない場所に出向こうと思ったのは璃月の人々に接してみたくなったからだ。モンドでシスターたちと食事を共にしたとき、次々と街の人々が集まって大きな宴になったことを思い出して、食堂へと出かければ人との接点ができるのかもしれないと思ったからである。
万民堂、そこでは璃月の庶民たちがゆっくりと食事とおしゃべりを楽しんでいるようであった。わたしが店に顔を出したとき、年若い気のいい少女が出迎えてくれたのちに案内された席に座り、おすすめのメニューを教えてくれたのでそれを注文した。料理を待っている間にも店内にはお客さんが次々と入ってきて、店内の座席はわたしの座っている二人掛けの座席の向かいの席を残して満席になってしまった。「すみません、一人入れますか」店の入口から、声が聞こえた。まるで、わたしが喋っているようであった。店番の気のいい少女は、わたしに「お姉さん、相席でも大丈夫?」と声をかけてきたのでわたしは首肯した。店の入口の方ではお客さんと溌剌とした店に立つ少女が少しだけ話をした後で、お客さんがわたしの向かいにやってきた。「えっ?」そう、不思議そうな声をかけられてそちらの方を見ると、目を丸くした女性が立っていた。女性が何に驚いているのかわたしはわからなかったが、ぼんやりとその女性を見ていると、わたしたちをみた少女が「あっ!」と驚きの声をあげた。
「お姉さんたち本当にそっくり! 双子の姉妹?」
姉妹、それは同じ母親の腹から生まれた女の子どものことを指し、先に生まれた方を姉、後に生まれた方を妹とすると言うことはモンドに滞在していたときに読んだ本に書かれていたので知っていた。わたしと目の前の女性は同じ母親の腹から生まれてきたわけではないので(そもそも、わたしは元素生物であり人間と同じ出生をしていないのだから当たり前だ)、姉妹と言うのは正しくない。わたしが答えるよりも先に、目の前の女性が「いいえ」と答えた。「ここまで似ている他人がいるなんて珍しいこともあるんだね、あっ、いけない!」少女はそう言って台所の方へと姿を消してしまった。向かいに座った女性は、わたしの顔をまじまじと見ていた。全く同じ顔、違うものといえば着ている服がモンドの西風教会の修道服か、髪の毛を結んでいるかどうかくらいなものである。わたしも、その女性の方をみる。まるで、鏡に映った自分を見ているようであった。しばらく二人で顔を見合わせていた。「……あなた、どちらからいらしたの?」そう、彼女はわたしに問うた。わたしの着ている服が璃月のものではないことからそう問うたのだろう。向かいに座る彼女の着ている服は、物の価値があまりよくわかっていないわたしから見ても、上質な織物で作られているように見えた。「最近、モンドから来ました」そう答えると、彼女は目を丸くして「もしかしてあなた、旅をしているの?」と興味津々といった面持ちで食い入るように問うた。わたしはそれに対して首肯した。すると彼女は「へえ!」と感嘆の声を上げ、わたしのこれまでのたびに関する話を問うて来た。わたしが璃月の田舎から山を越え、草原を駆け抜けてモンドに行ったこと、それからモンドの教会の世話になったこと、モンドの人々との出会い──どれもこれも、わたしにとって大切な旅の思い出である。それを、目の前の同じ顔をした女性に話すのは、まるで鏡に映る自分と会話をしているようで不思議な気持ちになってしまった。彼女は一通り話しを聞いたあとで、「へえ! 旅、いいなあ……わたし、璃月から出たことがないの。あなたみたいに、わたしも旅をしてみたいな」と呟いた。

「あなたは何をしているのですか?」
「先生の、しがない世話人をしているわ」

彼女の先生は昨晩から国外に出かけているので暇を持て余し、璃月の街中に出てきたのだと言う。普段であればほとんど先生の家の敷地から出ることがなく、そこで過ごしているらしい。彼女もまた、シスターと同じように愛する人と共に暮らしているのだろうと、わたしはそう勝手に解釈した。彼女の口ぶりからは、鍾離先生のことを少なくとも嫌っていないことは明白であったからである。わたしは人の群れの中で暮らしたことはあるけれども、家族のような枠組みでの生活をしたことはない。人との共生というものに興味のあったわたしにとって彼女の話は、とても興味深いものであった。食事が運ばれてきたあともおしゃべりに夢中になり話をしているうちに、わたしたちは意気投合した。「わたしの名前は──」彼女の方からわたしに名前を教えてくれた。その名前は、わたしが岩神モラクスから人間として生きることを約束した時に与えられた名前と全く一緒であった。彼女に自分の名前を告げると、彼女は目を丸くした。
「あなたって、本当にわたしそのものみたい。こんな偶然ってあるのね」
確かに、今までわたしが人の世をみてきた中で彼女ほどわたしに似ている人間の姿など一度もみたことがなかったし、これから先もこのようなことが起きるとは到底思えなかったので、わたしは彼女の言葉に頷いた。食事を終えたあとも、わたしたちはおしゃべりを続けていた。心地の良い時間を過ごしたあと彼女が「そうだ」と思いついたように口を開いた。「またあなたとお話がしたいと思っているの。明日もわたしの主人は留守にしているし、もしよかったらうちに遊びに来てくれないかしら」わたしは璃月という国で話すことのできる人がいることがうれしくて、彼女のその誘いに二つ返事で頷き、明日の昼下がりの時間にまたこの場所で待ち合わせをした。
2023-01-02