小説

シルバーの味

 卒業式の日に、鞄の中に雑に放り込んだアルバムでこれからの関係性が変わることが自分の身に起こるとは思っていなかったが、実際に起こってみればそういうこともあるものだと思うので不思議なものである。卒業アルバムの隅、なまえが「家に帰ってから見て」と言ったところに書かれていたのは、己に対する感謝のことばと、告白であった。はっきりとした物言いがなまえらしい、ただ、すなおに己に対して向けられた、愛の言葉がそこにあった。普段ならば、声に出して言ってきそうなものだが、こういうときばかり奥手になるのは、合格発表を一緒に見に行った時のふるまいで緊張していると少しばかり引っ込み思案なところを見せるということを十分承知していたため、結局のところ、なまえの中での己への愛のことばを告げる動作というのは、こういう少しばかり距離を取ったようなところでやるのが彼女にとっては限界なのだろう。それが誠実と言うかどうかなどはさておき、なまえがこうして、このような形であれ想いを告げてきたことに気づいたのであれば、それに対する返事をするのが筋だろうと、とりあえず電話を掛けた。なまえというおんなのことは、仲の良いクラスメイト、クラスメイトの中でも一際仲が良い異性の同級生、と言う印象であった。休みの日にそういうところに付き合ってくれと言われれば付き合うことに何ら抵抗はない。特段、そういう関係になりたいかと言われれば、そうでも良いしそうならなくても良い、ただ、そういう関係性に名前がついてしまうのは少しばかり恥ずかしいとは思う。呼び出し音が何度かなった後に、なまえが電話を取った。教室で普段聞いていた声よりも、電話を通した声は少しばかり籠って聞こえた。

「なあ、返事だけどよ」
「待って、言わないで、準備ができてない」
「いいか?」
「早い、だめ、もう切る……」
「切るなよ。お前どこいるんだ」
「駅前の予備校、今ちょうど出た」
「そこ行くから待ってろよ」
「ええ、やだよ……」
「告白しといて逃げるのは無しだろ、返事までちゃんと聞けよ」
「……分かった」

己が駅の前に着くころ、なまえは駅前の時計台のそばに立っていた。制服を着ていないなまえの姿をみるのが新鮮だった。見慣れた制服の黒地のスカートではない、明るい色をした洋服を纏っているのがあまり、見慣れない。「待たせたな」「……いい」「緊張すんなよ、無理だろうけどよ」「分かってるなら言わないでよ」一歩ずつ後ろに下がろうとするなまえに向って右手を出した。なまえは、その手に向って、自分の右手をおそるおそる出した。なまえの手が触れるか触れないかの距離まで来た頃には、こちら側から握ってやりたくて仕方が無いのだが(思ったよりも己は我慢弱かった)、今回は、なまえが先に握ることを待たなければならないので、待つに徹した。なまえが、己の手をゆっくり握る。合格発表の日に恐る恐る、己の手を握ったときのように指先がふるえていた。「よろしく」「ウエッ」「なんだよそれ」「嫌なんじゃなくてびっくりしたから変な声出た」「そうかよ」なまえの手を握り返して言えば、なまえは喉の奥からつぶれたカエルのような声を出して思い切り体を揺らして驚いていた。手を引こうとするなまえの手が離れないように、相手がいたくない程度に力を入れれば、観念したのか手を放そうとすることは無くなった。

「こちらこそ、よろしくお願いします」
「畏まるなよ」
「緊張してるから」
「知ってる」

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 己が大学生になって一年が過ぎそうになったころ、二度目の合格発表に出かけるというなまえとの約束は無事、果たされた。なまえとは、なまえの受験勉強の邪魔にならない程度に連絡を取り合ったり、予備校から、なまえが家に帰るまでの徒歩の二十分程度の時間に電話をしたり、防衛任務が無く都合が良い場合はなまえを家に送るためだけに待ち合わせして一緒に家に帰るなど、ほどほどの付き合いが続いていた。点数が伸びにくくなってきたとか、記述模試の裏をかき忘れそうになったとか、なまえの話は予備校に毎日通っているせいもあり、伸び悩む試験の点数と模擬試験の結果の話を聞くことが多かったが、結果は着実に付いて来ているようで良かった。試験当日は、本番にドジを踏んでくれるなよと思いながら激励の言葉だけをかけたのを思い出す。
 なまえと待ち合わせをした日、つまり合格発表の日は、冬の寒波が戻り、今冬一番の冷えになるのだと朝番組で言っていたように思う。また冬でも来るのかね、と朝方に祖母と会話したのを思い出す。たしかに、待ち合わせ場所に早めについて、なまえがくるのを待っていた時に、口から出る白い息だとか、少しばかり首筋が冷えるのに、ジャケットをもうひとつ厚いものにするべきだったし、マフラーをやっぱり持ってくるべきだったと思った。
 今年は科目の選択忘れをしなかったかを確認したとか、名前は書き忘れないようにしっかり最初に書いたとか、そういう話は受験後の燃え尽きたなまえが電話口で最初に報告をしてきたので、答案用紙の記入がずれてさえいなければ後は問題ないだろうと思う。そういう間違いさえなければ、合格圏内の中でも上位の方を取れていたはずだろうから、今年こそ問題なく合格するだろう、そう予備校の教員らにも言われていたようであったが、なまえは矢張り「去年のあれがあったからどうもね」と困ったように笑っていた。「良い結果出ると良いな」「うん。洸太郎のそういう『絶対大丈夫』とか言わないところがすきだよ」「不確かなことなんか言えるかよ」「そういうところあるよね」「そうだなァ」今年もやはり、緊張してすっかり石になってしまったなまえの手を引いて、掲示板の所へと引っ張った。なまえの受験番号が合格者一覧に張り出されているのを見たのち、入学手続きに必要な書類を取りに教務課の建物のあるほうへとなまえが出かけていくのを見送った。去年校舎と校舎の間の影の場所で泣いていたなまえのことを思い出しながら、もう一年経ったのかとぼんやり考えた。

「洸太郎の後輩かあ。洸太郎先輩」
「痒いからやめろ」
「諏訪先輩」
「お前苗字で今まで呼んだこと無かっただろ」
「ないね。洸太郎もないじゃん」

今更気持ち悪ィだろ、と言えば「背中がかゆくなるからいや」と返事が返ってきた。「洸太郎先輩、今度学校案内してください」「その気持ち悪ィやつをやめたらな」「はあい」間延びした返事をして、くすくすと笑うなまえはとても嬉しそうだった。泣いちゃうかも、と言っていたが泣かずに嬉しそうに笑っていたのでそれはそれでよかったと思う。生憎、器用なほうではないのでおんなに泣かれてしまえばどうして良いのか未だにわからない。

 恋人ができたときにどうしてもやりたいことがあった。自分のすきなおんなの指を彩る指輪を送るという行為であった。アクセサリーを相手に贈ることに様々な感情的な意図が含まれているということは聞くが、実際のところ、自分にそれがあったかどうかはもうよく覚えていない。シルバーの指輪を贈るという行為は、どうも自分にはそう似合いそうに無い行為だということは十も百も承知である。できれば左手の薬指であればなおよいのであるが、この際、彼女の指に己の贈った指輪が映えるのであれば、どうでもよかった。
 けっこう、おおざっぱな性格をしているというのは重々承知であるつもりであったが、好きなおんなに渡す贈り物にまでそのおおざっぱな性格を思い切り反映する必要性は全く無いだろう。合格祝いと称して夕食を食べに出かけた帰りに、その時に大体付き合って一年くらいだろうとか、そういう言い訳染みた御託を並べて指輪を渡すまでは良かったのだ。ただ、渡してしまった指輪を、おんなの指にはめた時に、薬指どころか中指に嵌めるにしても緩く、親指に嵌めるには窮屈すぎるものを買ってしまったのに気付いたのは、なまえが指に嵌めた時に、指輪を嵌めていても外のリングの向こう側のきれいな景色が見えた時で、「……悪い」とすぐに謝罪したのであるが、目の前のおんなは、箱を開けるまでが喜びのピークで、そのあとからみるみる落胆の表情を描いていった。「……誰かにあげようとしたものだった?」そう、普段ならば言わないような言葉選びをして、己に向ってそう言うのだからこちらも、それなりに言ってしまった。みるみる彼女の表情はこわばったものになって、涙をいっぱいにためて堪えて、涙がこぼれる前にそのまま己の目の前から立ち去ってしまったのである。なまえの大学入学が決まり、憧れのシルバーを贈るということを達成しようとした日に、己らは初めて大きな喧嘩をすることとなった。

 己というおとこが、指輪を贈ることに憧れていたのであれば、なまえというおんなが指輪を贈られることに憧れていても何ら、可笑しくは無い。なまえは確かに、己の知る女に比べれば随分とロマンチストからはかけ離れたようなおんなではあるが、それを言えば自分自身に対してもそうだろう。己らしいとか、なまえらしいとか、あまり似つかないとか、そういう話はあるのかもしれないが、そんなものはあまり関係ないだろう。他者から見た自分たちの心象と、自分たちがやりたいと思ったことが違う事なんざこの世にはごまんと存在する。もし、なまえというおんながそういったものに憧れていたのであったとすれば、自分に合わない指輪を贈られてしまえばそういった穿った取り方をしてしまうのもわからなくはないのだ。そして、なまえに贈るために買った自分が、その物言いに対して怒ってしまうのも、自然な流れだろう。

 なまえと連絡が着いたのは翌日になってからだった。布団に入って悶々と考えたのちに一晩明けてしまえば、ある程度自分の中でも考えが整理されるものである。あの時になまえに言ったのはさすがに言いすぎだっただろうとか、それでもどうしたら仲直りが出来るか等、そのようなことを考えたところで何が正しいのかの答えは出てこなかった。電話をかけてきたのは、なまえの方だった。端末の着信音がけたたましく鳴って数十秒、着信画面におんなの名前が出た時にひどく緊張した。これ以上待たせてはならぬと電話を取ろうとしたときに、電話が切れた数秒後、なまえからのメッセージが飛んできた。「後でお話できませんか。謝りたいです」それは己も、考えていたことは同じだとメッセージに返事をする前に、すぐに電話をかけなおした。なまえが電話を取るのは早かった。「洸太郎」とそう己の名を呼ぶなまえの声はひどく弱弱しく、鼻をすする声がたびたび電話口から聞こえるのだから、今ももしかしたら泣いているのかもしれない。「ごめんなさい、せっかく洸太郎が準備してくれたのに、ひどいことを言ってしまって」「俺も言い過ぎた、悪かった」話してみれば、ただそれだけで良かったのだ。洸太郎が、そういうことをしてくれたのが嬉しかった、そういうことに憧れていたのだとなまえはそう言った。己もそうだと、そうこの時に言えればよかったのだろうが、己は「今度またやり直させてくれや」と言うことしか出来なかった。

 なまえに仕切り直しでもう一度、今度はサイズをしっかり計ってプレゼントしたのにも関わらず、なまえが二度目に渡された指輪をつけている所を見たことがなかった。一度目に渡した時のように、目に見えて喜んでくれたのにも関わらず、なまえの左手には別の指輪があった。親指よりも細く、薬指よりも抜けにくい中指にいつも嵌められているのは、あの喧嘩をした日に渡した指輪だけであった。なまえの左手を握れば、手の中でゆらゆらと指輪が揺れるたびに、二度目に渡した指輪は嵌めないのかとそう、問いたい気持ちになる。なまえに直接聞ければよいのだろうが、それをする勇気はなかった。もしかしたら、デザインが気に入らないとか、服に合わないから着けていないなど、己には全く想像できぬ理由が在るのかも知れぬが、どの服を着ていてもなまえがつけているのは全く同じ一度目に渡した指輪であった。指輪に問題があるのであれば、そう言ってくれれば良いのだろうが、指輪で一度喧嘩をしている己に対して、なまえが言うのもまた難しいことなのだろう。手の中で指輪が揺れるたびに、ほんの少しばかり苦味が口の中で広がるように思う。自分たちのした初めての喧嘩のこと、それから、様々な転機となる日とそれが上手く重なってしまっているという事。それらすべてがこの、指輪の中には込められている。自分で贈っておきながら、どうも己はこの指輪の苦味にいつまでたっても慣れることができずに居る。
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