小説

終点

長い長い、旅をしていた。持っていた名前を捨て、新たな名前を得た僕が旅に出たころの話である。しとしとと雨が降り続ける中、女は傘を持たずに雨に打たれたまま呆然としていた。それが、女と僕の初めての出会いであった。スメールの商人が僕を助けてくれたように、僕は気まぐれでその女に手を差し伸べたのである。女は僕の手を取って立ち上がろうとして、「痛い」と言って座り込んでしまった。どうやら、足を怪我しているらしい。女の身体を抱え、雨の当たらない家屋の軒下に行く。ちょうど、雨が防げる軒下にベンチがあったので使わせてもらうことにした。女は馬車に轢かれ、そのまま誰にも助けてもらえないまま、あの場に居たのだという。「助けてくれてありがとうございます」そう言い、女は自分の名前を言った。女はなまえというらしい。「僕のことはこう呼ぶといい──」そう、いつの日か旅人が言ったあの名を口に出すと、なまえは不思議そうな顔をしていた。確かに、人につける名前にしてはあまりにも抽象的であったのだ。でも、人ではなく人形につけられた名前だといえば、それはそれで納得されるのかもしれないが。

「ご迷惑を掛けてしまって、申し訳ありません」
「君の身内は?」
「わたしには身内がいませんから」

雨に濡れたなまえをそのまま放ってどこかへと行くことだってできたはずであった。しかしながら、あの時の僕はなんとなく、なまえを放っておけなかった。桂木が僕を助けてくれたように、一人放っておかれた過去の僕に重ねてしまったのかもしれない。なまえは申し訳なさそうな顔をして、僕のほうを見ていた。「僕の心配より君の心配をした方が良い」そう、なまえに一声かけると、彼女は目を伏せた。
 雨が止んだ後、なまえを病院に連れて行った。なまえは、抱えられながら申し訳なさそうな顔をして、僕の顔を見ていた。足の骨が折れているのだと医者に言われたあとで、なまえはため息をついていた。医者にかかるための金もないのだという。なまえにそこまでやる義理はないのにも関わらず、僕はなまえの病院にかかるお金のすべてを負担し、なまえの治療が終わるまでこの場にいようと思っていた。「どうしてここまでわたしにしてくださるんですか」そう、なまえは僕に問うた。「ただの気まぐれだよ」まさか、自分の過去をこの女に重ねて勝手にかわいそうに思い、手を差し伸べているということをなまえに知られたくなかった。

 なまえの足が治った後で、僕たちは旅に出た。このテイワット大陸を、あてもなく彷徨おうとしていた。「もしあなたがよければわたしも旅に連れて行ってください」なまえは別れ際、僕にそう言った。旅のお供はいらないと思っていたが、このかわいそうな彼女ならば悪くないと思った。傷ついた小鳥を助けて世話を焼いているうちに愛着が湧いたのと全く同じ気持ちであった。だから、この女が旅に同行することを許した。なまえに旅の同行を許すと、嬉しそうに顔を綻ばせた。「君はこの国から出て行きたいと思っているの?」そう問うと、彼女は首を横に振った。「この国が嫌いというわけではないのです。わたしには行くあてもないので」そう、寂しそうに言う彼女を無碍に扱うことができなかっただけだ。懐いた小鳥を手放すのが惜しい、そうただ思っただけである。なまえとの旅はスメールという国が旅の始まりの地になった。自由の身、放浪者としてこの大陸をあてもなく彷徨い続ける旅を僕となまえははじめたのだ。初めは璃月を目指して何日も野宿をしたり、時には街中の柔らかいベッドに入って眠ることもあった。なまえは僕と違い、ただの人間である。力のない、ただの人間だ。食事をしなければならないし、眠る必要もある。人形である僕にとって不要なそれらを、彼女ひとりのためにやらなければならなかった。なまえは食事をするたびに顔を綻ばせ、夜眠る時は「良い夜を」と挨拶をして眠りにつく。なまえの柔らかな寝顔を見ながら、僕にとって不必要な時間を過ごすことも悪くないと思っていた。時折冒険者協会で仕事を貰い、それで小さな小遣いを稼いでいるなまえを見るたびに「そのようなことをする必要はないよ」と言ったのであるが、彼女は聞き入れてくれなかった。自分の日銭は自分で稼ぐと言うのだ。彼女の仕事をすこしだけ手伝ってやると、なまえは毎回この仕事の半分はあなたに手伝ってもらったものですからと言って貰ったモラの半分を渡してこようとするが、それは不要なものだったので断った。「また君が骨折してもいいようにモラを持っておくといい」と言うと彼女は至極申し訳なさそうな顔をして僕の方を見るのが、すこしだけ面白かった。そのような旅を何日も、何年も繰り返している。

長い月日が過ぎた。なまえと旅をはじめてから、もう何十年もの時間が過ぎた。若かったなまえは、少しずつ歳をとっていった。なまえは僕のことを見て「あなたはいつまでも若いままですね」と言った。「まるで、歳をとっていないみたい。それなのにわたしはこんなに歳をとってしまって……」なまえは皺だらけになった手を、僕に見せてきた。僕は人形であり、人間ではない。なまえは僕が人間であるのだとずっと思い込んでいた。しかしながら、彼女に僕が人形であることを伝える必要などなかったので、それを言ったことはなかった。なまえは「あなたはいつまでも若くていいわね」と言って笑っていた。もう、歳のせいか足もおぼつかなくなり、歩くのさえ一苦労するようになっていた。なまえの体のことを考えて、旅の歩みも初めの頃に比べれば随分と穏やかな旅になったような気がする。今まで二人で徒歩で歩いていた旅路も、ある日から馬車に乗って旅をするようになった。なまえは「もうわたしを置いて行ってもいいのよ」と弱音を吐くようになった。なまえを今放り出したところで、この女の行く場所はどこにもない。あとはひとりで、知らない土地で孤独に過ごすことを考えるとそのまま彼女を放っておくことなどできなかった。自然ではなく、人に慣れてしまった小鳥をこの場で手放すのは、あまりにも残酷なことだと言うことはわかっていた。僕にはずっとそれを捨てることさえできたはずなのに、彼女を放り出すことはできなかったのだ。なまえはこのまま歳をとり、僕を置いてひとりで先に逝ってしまうだろうということも、わかっていた。これ以上、なまえが旅を続けることは難しいだろう、そう思ったときに旅の最後の場所を考えるようになった。なまえが長く眠っている間に、彼女の故郷でもあるスメールの地を、最後の旅の場所にすることに決めた。なまえがもう彼女には何もないと言った故郷であれ、彼女には少なからずスメールの地で過ごしていた思い出があるはずなのだと、そう勝手に思ったのだ。

「あなたはこのあとどうするの?」そうなまえは問うた。馬車が悠々と大地を掛け、スメールという国にたどり着いた。この国にくるのは、旅のはじまりの時以来であった。それほどまでに時間が経てば、街の景色も随分と変わっていた。相変わらずじめじめとした雨林があることに変わりなかったが、なまえが元々暮らしていたであろう家はとっくになくなっていて、僕たちは小さな部屋を借りてそこに暮らしていた。なまえは、僕が彼女を置いてどこかへと旅に出るのだと思っているのだろう。そのつもりは一切ないのにも関わらず、そういったことを言うのが嫌だった。「僕はどこにも行くつもりはないよ、少なくとも君がいるうちはね」そう彼女に言うと、なまえは申し訳なさそうな顔をして笑っていた。「わたしがあなたの旅の邪魔をしてしまったみたい」そういつも困ったように言うのだ。しかしながら、これもまた旅のうちのひとつであるのだから、彼女は何も心配することなどないはずなのに、なまえはいつも申し訳なさそうな顔をするのだ。その度に彼女の手を取った。皺だらけになった彼女の手と、歳を取らない僕の手はあまりにも対照的であった。なまえは僕の手に触れるたびに、「あなたはいつまでも若いままでいいわね」と言った。このままあなただけはずっと生き続けるのかもしれないわね、と冗談めかして言うのであるが、その実それが事実であったのでそれに対して何も言うことができなかった。「歳を取らないのは良いことばかりではないよ」そうなまえに言うと、なまえは「そうかしら」と言った。「わたしもあなたみたいにずっと若ければ、あなたとの旅をずっと楽しめるのに」そう、寂しそうに言うのだ。まるで、僕との旅をこれからもずっと続けたいのだと言わんばかりであった。天涯孤独のなまえにとって、今は僕しか一緒にいる人がおらず、それは僕にとっても同じことであった。新たな名を貰い、放浪者として新たな生を受けた僕がなまえと出会い、共に旅をしたいと思った相手が、いつまでも一緒にいたいのだと望んでいることを知った時に込み上げてくるものがあった。人形であるのにも関わらず、人間のようなことを考えている。なまえを助けると言う少しの気まぐれから始まったこの旅の終わりが、なまえが寿命を迎えることでもう終わろうとしていることに一抹の悲しみさえ覚えていた。

なまえはその後数年と経たないうちに一人で歩くことすらできなくなってしまった。医者が言うには、老衰であるとのことであった。人形には無く、生き物には存在する老衰……それが今の僕にとって一番憎いものであった。こうなった時に、なまえは人間であり、自分が人形であることをまざまざと見せつけられているようで不愉快だった。なまえが僕と同じ人形であったならばと思わずにはいられなかった。ベッドに臥したなまえのそばにいると、なまえは「今日もあなたはわたしと一緒にいてくれるの」と言ってしわくちゃの顔で笑っていた。その表情は、彼女が若い頃から変わっていなかった。「あなたに触れても良いですか」そうなまえは言った。その度に、僕は手を差し出してなまえの手を握った。なまえはその度に幸せそうに笑って「わたしって幸せものね」と言うのだ。彼女の人生を思えば幸せだったことなど数数えるほどしかないはずなのに、僕と一緒にいることが至高の幸せなのだと言うのを聞くたびに、悪くないと思っていた。この女にとっての幸運は僕との出会いであると言わんばかりであるからだ。

「あなたはこれからどこへ行くの?」

なまえはそう問うた。これから先どうするかを聞かれているのだ。「まずは君を看取ってから、それから考えようかな」そう答えると、彼女は微笑んだ。「最後までわたしと一緒にいてくれるの」そう彼女が言うたびにすこしだけ照れくさかった。「また旅に出ても良いかもしれないね」そう言うとなまえは「あなたは旅が好きなのね」と言った。別に旅が好きだから旅に出ていると言うわけではなかった。行き場がないから放浪することしかできないだけなのだ。なまえにそのことを告げたのは、それが最初で最後であった。なまえはそれを聞いてすこしだけ寂しそうな顔をしていた。「あなたはまるで、あなたに拾われる前のわたしみたい」なまえが言うことは正しかった。僕も、なまえと旅をすることになるまでは行き場もなかったのだから。気づいてみれば、行き場がなかった僕たちは一つの終点を迎えようとしている。なまえの死をもって、一つの旅が終わろうとしているのだ。だからなまえに死んでほしくはない、そう思いはじめている自分自身に一番驚いていた。

明くる朝、なまえはそっと息を引き取った。最後に手を繋いで欲しいと、そうなまえが望んだから、彼女の手を取ったのだ。すると彼女は「わたしは幸せ者だったわ、あなたに会えて本当に……あなたをひとりにしてしまうのは不本意だけれど……」そう言って最後まで謝っていた。謝罪の言葉は要らなかった。なまえの口から幸せだったと言う言葉が出てきただけで嬉しかったのだ。怪我をした小鳥はいつのまにか元気になり、そのまま幸せに生き、そして最期を迎えたのだ。なまえの手が次第に体温を失ってゆくのを感じながら、ふと窓の外を眺める。窓の外では小鳥たちが囀っている。それらはちらりとこちらを見たのちに、透き通るような青い空に向かって羽ばたいて行った。
2022-12-18