小説

潮騒

 海鳴りの声が聞こえる。波は、砂浜の白い砂を巻き上げては、遠く沖のほうへと連れて行ってしまう。波が砂を食うやさしい音が、わたしの鼓膜を打った。寄せては返す波の音が心地よい。太陽の光で程よく暖められた海水が、わたしの身体を飲み込んでは、沖へと連れて行こうとする。この世界の生き物が死ぬとき、生き物たちは皆地脈に還るというが、今のわたしがここで死ぬときは地脈ではなく海に連れていかれてしまうのだろうと錯覚してしまう。このやさしい波の音を聞きながら死ぬというのも、またいいことなのかもしれない。そう思って瞳を閉じた。聞こえるのは波の音、触れるのはあたたかな海の水。このままこの場所で海水に融けてしまえたら──そう心の底からそう願ったときに、波の音とは違う、人の声が聞こえた。「ねえ、君」凛とした女性の声であった。よく通るその声は、まるで海水に溶けてなくなろうとしているわたしに与えられた道しるべのようにも聞こえた。その声のする方向に行けば、わたしはこの水に融けてなくなってしまうのかもしれない。彼女はきっと、わたしを迎えに来てくれた女神か。「君、ちょっと」彼女の声が聞こえたのちに、わたしの身体に手が触れる感覚があった。その手の感覚に、水の中に溶けかけていたわたしの意識はすっとこの世に引き戻され、しぶしぶ目を開ける。わたしの眼前には、うつくしい女性が心配そうにわたしの顔を覗き込んでいるのが見えた。先ほど聞いた凛とした声の主は、わたしを連れて行こうとした女神でもなんでもなく、目の前の彼女であったか。心地の良いうつくしい声を持った女性。彼女のことを見たのは初めてだった。これほどまでにうつくしい人間がこの世に居たのか。わたしの心のすべてはその瞬間、彼女にすべて持っていかれてしまった。この海に融けてなくなってしまってもよいと、そう思っていた──つい数刻前までのわたしは、彼女の美貌でそのすべてを忘れ、希死念慮の気持ちすらどこかへと吹き飛ばしてしまうほどに彼女に見惚れてしまったのだ。わたしが、彼女の顔をぼうっと眺めていると、「よかった、気がついたのね」と名も知らぬ女性はそう、ほっとしたような表情を浮かべてそう言った。

「立てそう?」
「……ええ」
「そう。怪我は?」
「多分……ない」
「よかった」

彼女に差し出された手を、わたしはとった。彼女の手を取った瞬間、彼女はわたしの身体を器用に引っ張り上げて、立たせた。わたしの体重は決して軽くなかったはずであるが、それをいとも簡単に引っ張り上げたのである。

「……助けてくれて、ありがとうございます」

そうわたしが言うと、彼女は「ええ」と言った。彼女の口ぶりからは、人を助けることを当然だと思っている節があるようにも見えた。彼女はまじまじとわたしの顔を見つめたのち(彼女の綺麗な顔がわたしのことを上から下まで見つめることに羞恥を覚えた)、「このあたりでは見ない顔ね」と言った。わたしは、自分の名前を名乗った。自分の生まれ育った国で疎まれ続けていた一族の名の刻まれた自分の名前を言うことには抵抗があったが、国が変わって仕舞えば気にされることもないだろうと思いその名を恐る恐る口にした。そして、自分の育った国のことと、わたしが今七国をめぐる流浪の旅をしていて、最後にこのモンドという国にたどり着いたのだという話をした。彼女は最初のうちは不審そうな目でわたしのことを見ていたけれども、持っていた数少ない荷物の中から、かろうじで海水に濡れずに残っていた、国から発送されたわたし宛の手紙を見せることで身分に関して納得してもらうことができたようだった。彼女はわたしの家の名前を口にしたのち、黙り込んだ。一瞬だけ、彼女の目がわたしを憐れみの目で見たようにも見えたが、ほんの一瞬の出来事であったためわたしの勘違いだったのかもしれない。彼女はわたしに一言、二言話しをしたあとで、モンド城まで送ってくれると言った。わたしには彼女以外に頼る先もなかったので、彼女の言葉に甘えることにした。



 エウルア──それはわたしのことを助けてくれた素敵な女性の名前であり、わたしが一目惚れしてしまった女性の名であった。わたしを助けてくれた、というのは浜辺で座礁しているところを助けてくれたという意味と、希死念慮に塗れたわたしの心を、掬い上げてくれたという意味があった。エウルアに二度も助けられてしまったわたしは、どうしても彼女にもう一度会いたくて、せめてモンドという国を発つまでにはもう一度会ってお礼が言いたいと思い、モンド城の城下町を歩き回っては彼女の足取りを掴もうとした。しかしながら、それはうまく行かなかった。ある人はエウルアの名前を聞いた瞬間に眉を顰めてしまい、それ以上のことを教えてくれなかった。お店の人ならば何か知っているだろうと思ったが、そこでも嫌な顔をされてしまい、それ以上彼女のことを口に出すことは許されなかった。街ゆく人にエウルアの名を出した時、彼女のことを悪く言う人もいた。彼女のことについてとやかく言う人間は皆、口を揃えて彼女の家であるローレンツ家のことを詰り、彼女とその家のことを悪く、吐き捨てるように言った。彼女の家もまた、わたしが育った国でそうされたように疎まれたものであるということは、この国の人間ではない余所者のわたしでさえはっきりとわかった。この国の人間はエウルアについて、彼女には関わらない方がいいと言った。しかしながら、わたしの知っているエウルアという人間は、彼らの言うエウルアという人間からはどれもかけ離れていた。エウルアが、彼らのいう残虐非道の人間であるとはどうにも考えられなかったのである。わたしはこの街の人間たちからエウルアのことを聞くのを諦めた。しかしそれは、わたしがエウルアと会うことを諦めたということとは同義ではなかった。一か八か、ある種の賭けでもあったが、わたしは必ずエウルアにもう一度会うことができるという確信があった。



「君、ちょっと──ねえ、君!」

遠くからわたしを呼ぶ声が聞こえる。凛とした女性の声、わたしがもう一度聞きたいと思ってやまなかったあの声が、もう一度聞こえたのだ。その声は、わたしの名前をやさしく呼んだ。その声に耳を澄ませ、目を開けると、眼前にはわたしが求めてやまなかった彼女の姿がそこにはあった。やっと会えた、望みは叶った──!そう思った時、急に身体の節々が思い出したように痛みだした。背、腕、足──体じゅうのすべてが痛む。節々が痛み、喉から声を出そうとするものの、喉は焼けるように痛み、掠れた情けない声しか出なかった。「エウルア」そう、わたしが声を絞り出して言うと、彼女はわたしの名前を呼んだ。
星拾いの崖から、わたしは身を投げた。あの崖から飛べば、身体が流れ着く先はエウルアがわたしを助けてくれた、あの砂浜の場所である。もう一度エウルアに会うには、そうするしかないとわたしはそう思ったのだ。一か八かの賭けだった。死んでしまえば元も子もないし、エウルアが見つけてくれなければそもそも飛び降りた意味すらない。すべての奇跡が重なり合ったとき、わたしはエウルアにもう一度会うことができるのだと、そう思ったのだ。そして、わたしはなぜかエウルアにもう一度会える自信があったのだ。根拠のない自信を抱き、わたしはあの星拾いの崖から飛び降りた。結果は、わたしの望んだ通りになった──それがうれしくてたまらなかった。全身の痛みなど、エウルアにもう一度会えたことに比べればどうでもいいことだった。「もう一度、あなたにあいたかったから」そう、喉から無理やり絞り出すと、エウルアは複雑な表情を浮かべた後、黙りこんでしまった。わたしはエウルアを困らせたいわけではなかったのだが、わたしの望みを叶えたとき、結果的にエウルアを困らせることになってしまった。エウルアは決して、うれしそうな表情を微塵も浮かべなかった。しかしながら、彼女に会いたがったわたしと、わたしがエウルアに会いたくて起こしたこの行動のすべてを拒絶することもできずに、彼女はただ複雑な表情を浮かべて絶句していた。わたしの喉が焼き切れていなければ、エウルアに優しくないこの国も捨てて、一緒に旅をしようと彼女に言いたかった。自分の国に疎まれた者同士であればきっとうまくやっていけると、そうわたしは思ったのだ。しかしながら、その言葉をかけることは許されなかった。エウルアに会うという目的を果たすだけで、わたしは精一杯だったのだ。それ以上のことは何もできなかった。ただ、彼女の腕の中に抱えられることしかできなかったのである。遠くから海鳴りの声が聞こえる。波が白い砂を食う穏やかな潮の音、そして、この場にはいないはずの海鳥の声が遠くから聞こえてくる。波の音の合間に融けるように「どうして──」という震えた女の声が聞こえた。わたしの喉はすっかり焼き切れていたので、その質問に答えることはできず、彼女と海鳴りの声に抱かれながら、この海の中に溶けた。
2022-08-13