小説

信仰と約束

 「わたしはまだ将軍さまにお会いすることは出来ません」そう言われて天領奉行の者に顔を合わせることを拒絶されてしまったという出来事があったと、眞は言った。しかしながら、眞の表情は暗いものではなく、むしろ晴れやかなものであったので、その出来事は眞にとって悪いことではなかったのだろうということは想像できた。その日は、眞が天領奉行のもとに出かけた日のことだった。天領奉行の者が揃っている中でひとり、壁の向こう側から出てこない人が居た。隠れているものを連れてこようとした者がいたが、その者は頑なにそこから出てこなかった。「今はどうしても将軍さまに顔を合わせることが出来ないのです」と言う凛とした女の声だけが、眞の視線を遮る壁の向こう側から聞こえた。眞が理由を尋ねると、「申し訳ございません。でも、まだわたしは将軍さまにお会い出来るほど武術の鍛錬ができていないのです。弱いわたしのまま、将軍さまにお会いすることはできません」と申し訳なさそうに言われてしまえば、無理矢理そこから引っ張り出そうとするものは誰一人いなくなってしまった。眞にとって、その天領奉行の者が強かろうが、弱かろうが全く関係などないというのに、女は強い意志をこめてそう言ったのだという。自分の目に映るにふさわしいものになりたいというその女の意思を、眞は汲んだ。いずれ顔を合わせる時が来ることを楽しみにしています、そう眞が言った時、壁の向こう側から女のすすり泣く声が聞こえたのだという。
その日の出来事について話している眞の横顔は、彼女にとって嬉しかったことを話しているときのような表情を浮かべて話していた。大切な思い出を一つ一つ語るときのような、どこかうれしそうな表情を浮かべて話していた。稲妻という国の民は、将軍さまのために、と言って尽力している人間が数多くいる。その女も、例外なくこの国の民のひとりであったというだけの話であるのだが、眞に対して面と向かってそのようなことを言った民がひとりもいなかったせいか、その日の出来事は彼女の心に強い印象を与えたのだろう。



 武術の鍛錬の合間、休憩を挟んだ時にふと、眞の言った女の話を思い出した。天領奉行に所属する女、武術の鍛錬をしているがまだ眞と顔を合わせられるほど強くはないと言うその女のことを思い出し、少しだけ女のことを覗こうと思った。眞が、嬉々として語っていたその女について、この国の数多くいる民のうちのひとりでしかないその女について興味を持ったのは、眞があまりにも嬉しそうにその時の思い出話をしていたからに違いない。女は、その日も武術の鍛錬を行っているようであったが、己の目から見てもその女の実力はひどいものであったし、彼女の言う”将軍さまに顔を合わせられるようになる”ほどの武術の実力を身に着けるには、少なくとも相当な年月がかかるだろうということは、火を見るよりも明らかであった。才能という言葉一つで片づけるのはあまりよくない事であるかもしれないが、その人には適する場所が存在すると思っている。己であるならば武術を、眞であるならば執政を執り行うことがそれぞれ適であるように、その女の場所は天領奉行の一兵士という武人のような立場ではないと、少なくとも己の目にはそう映った。その女が、息抜きで行っていた将棋の様子を見る限り、彼女の適した場所は天領奉行たちをとりまとめ、指揮を執り行うような立場の方がずっとふさわしいと思った。
 女の様子を見たその日から、思い出した頃にその女のことを見るようになってしまった。才能のない方向への努力をし続ける女のことを哀れに思った自分が居るからなのか、暇つぶしとして眺める時飽きないからなのか、それとも、眞のことを心のそこから信望しているその女に興味を持ったからなのか、理由は己の中ではっきりと分かりはしなかったものの、彼女を見ていて飽きないというのは事実だった。他の兵士たちが一晩でできるようになることが、その女がやると少なくとも三日以上の時間が掛かってしまう、このまま不向きなことをやり続けていればすぐに諦めてしまうものだろうと思っていたが、その女は諦めることなく武術に向き合い続けていた。女の涙ぐましい努力の姿を見ていると、自身も勇気を貰えているような気持ちになるのも、また事実であった。この女の前向きな姿は、眩い光を湛えているようにも見える。ただ、才能のない方向への努力を無駄と言って切り捨てることは容易いが、その様子が眩しいもののように見えたのもまた事実であった。そのさまを表現するのであれば、うつくしいというのが一番適切だとも思った。天領奉行の人間たちにも、彼女が武人としてではなく、指揮官という立場の方が向いているという話は何度もされているようであったが、「将軍さまとのお約束がありますので」そう彼女は言って、頑なに首を縦には降らなかった。眞と言う存在は、その女にとって才能のない努力を延々と続け、途中で止めることが出来なくなるほどに大きな存在であったのか。才能のない努力を延々と続けることに対して思うところはあるものの、それほどまでに眞のことを強く想っているのだと思うと少しだけ暖かい気持ちになるのも確かであった。



 大きな戦争があった。眞や己の友たちだけではなく、たくさんの稲妻国の民をも失った。”雷電将軍”の座についていた眞がいなくなったあと、その座に就いたのは己であった。戦争のさなかに比べれば随分と国が落ち着いた頃、大きな戦争の前後で目まぐるしく国が動いている中ですっかり忘れていたあの女のことをふと思い出した。天領奉行に居た武術の才の全く無い女のことだった。明くる朝、九条家を訪ねたとき、遠くから見ていた女の姿がそこにはあった。眞の前では姿を見せることすらなかった女は、己の目の前には姿を現した。彼女が再び会う約束をしたのは眞である。眞ではない己の前に姿を現しても良いのだと、そう思ったに違いないと思ったのであるが、彼女の口から「将軍さま」と言われた時に、彼女の目には己も眞も同じ”雷電将軍”として映っており、眞であるか、そうでないかについては彼女の中に区別は無いのだろうということがわかった。彼女は、逃げも隠れもせずに、その女は己の方を見て微笑んだあと、頭を下げた。女の手指には武具を長い時間握りしめていたせいか、手指にはたこが出来ていた。彼女はずっと、眞の前に姿を現すことが出来るようになるまで──手指がそのようになるまで武術の鍛錬を繰り返していたのだろう。眞、もとい”雷電将軍”との約束を果たすために、ずっと──しかしながら、彼女と約束をした眞はもうこの世界にはいない。女が「将軍さま」と、眞に言った時と同じだろう顔をして、己にも「将軍さま」と言っている。稲妻の国の民は、”雷電将軍”が眞だろうが、己だろうが、その部分に関してはあまり気にしていないように見えた。そもそも、雷電将軍が二人いることを知る者すら居ないかもしれない。目の前にいるこの女も、例にもれずそうだっただけの話である──しかしながら、その出来事に、衝撃を受けている己が居たのも事実であった。あんなにも眞の前に姿を現すことができるようになるほど強くなるように、眞のためにと厳しいだろう鍛錬を繰り返していた女は結局、影である己の目の前に姿を現し、「以前は大変失礼をしました」と言うのである。この女の信じる”雷電将軍”というものの本質が眞でも、己でもよかったことが己にとってひどく衝撃的だったのかもしれない。眞を信じてここまでの努力を継続していたのにも関わらず、彼女は、己が”影”であることに微塵も気づかないのだ。己の気持ちに全く気付かない女は、嬉しそうな顔をして、以前眞に言われたのだろう言葉について語った。「いずれ顔を合わせる時が来ることを楽しみにしています──その言葉を胸に抱いて今までここまでやってこれ、一部隊を任せてもらえるようになりました。これからも、わたしは頑張れます──」そう言う女の言葉に対して「──ええ」という言葉を返すことがやっとであった。女の眩しい視線が、己に対して注がれる。その視線はきっと、己ではなく眞に対して注がれるはずだったものだ──眩しく、うつくしかった女の今までの努力の軌跡そのものが段々と光を失っていく。眞が語っていた、この女に対する思い出すらも、段々と光を失っていくようで、それが喪失感として己の心を蝕んだ。
2022-07-18