小説

うまくいかない話#8

 別に連絡しなくても良いとなまえに言ったのにも関わらず、なまえは律儀に連絡をよこしてきた。なまえが家に来るときは必ず、己のバレーの練習が終わるころの時間にメッセージを入れてきていた。大学の授業が終わり、バレーの練習が終わった後にスマートフォンを確認したときに、なまえから”今日行く”という連絡が来るのが楽しみになっていた。練習が終わってロッカールームに入ってすぐ、着替える前にスマートフォンを眺め、なまえからの連絡を確認する己をチームメイトたちは冷やかしてきたけれども、それも気にならなかった。なまえからの連絡が待ち遠しいのは事実で、それをイジられるのは照れくさいが、なまえのことを羨ましく思われているような気がして悪い気はしなかった。
 バレーボールの練習をして疲れて自分のアパートに帰ってくると、なまえがアパートにいた。「おかえり」と朗らかに笑って言うなまえにつられるように「ただいま」と言った後に、玄関先に顔を出しに来たなまえをゆっくり抱きしめた。「侑汗くさいよ」そうなまえが照れくさそうに言って離れようとするのを、無理矢理抱きしめているのが好きだった。暫く胸元に顔を押し付けていれば、諦めたなまえが胸の中で大人しくなる。この時の瞬間が、一番好きだった。なまえはなんでもやってくれた。高校の頃の同級生がなまえについて「面倒見が良さそう」と言っていたのは事実だった。自分のアパートに帰ると既に食事の準備が終わっていて、朝に放り出していた洗濯物は洗濯されたあと乾燥機まで回されて畳まれて衣装ケースの中に入っている。翌朝、ゴミ出しを忘れないように、玄関のところにゴミまでしっかりまとめて置かれている。家に帰って自分がやらなければならないと思っていた家事の全てはなまえにやってもらっていて、自分は何もする必要がなかった。食後の片付けくらい自分でやると言ったのにも関わらず、なまえは「ええから、大人しくテレビ見とき」と言ってやらせてはくれなかった。侑はいつも頑張っていて大変だから、となまえが言うのに甘えるようになって、次第になまえがやってくれることが当たり前のようになっていった。なまえの家事が終わったあとは二人でゆっくりテレビを見てのんびりしていた。翌日、なまえの朝が早くなければなまえが泊まっていくこともあった。今まで想像の上でしか抱いたことのなかったなまえのすがたを、その時に初めて知った。なまえがどんな声を出すのか、どんな顔をするのか、を眺めるのがすきだった。そうして、その顔を自分の前だけでしかしたことがないということに、優越感を抱いていた。
互いに大学を卒業し、社会人になってからもそのような生活は続いていた。己は、大学卒業を機に所属チームの練習場所に近いところに引っ越し、なまえは就職先が近いからと言う理由で、兵庫の実家の方に戻った。それでも、なまえは仕事終わりが早いときに、己の住む家へと来てくれていたし、泊まっていくこともあった。己の住む部屋には、自分の洋服のほかになまえの洋服も置かれるようになっていった。なまえには新しい部屋の鍵をわたしていて、勝手に入っていいとも言っていたけれども、相変わらずなまえは家に来るときに必ず連絡を寄越していた。法律上は結婚できるけれども経済的に独立出来ていない状況で己らができたことは、この新婚の夫婦のごっこ遊びを楽しむことくらいだった。ワンルームの、決して広いとは言えない部屋に帰ってくると、なまえがすでに栄養バランスの良いご飯を作って待ってくれていた。己が絶対に触るなと言った場所以外は、なまえによって丁寧に掃除されていて、己が家に帰ってやることといえば、なまえの作ってくれたご飯を食べて、なまえによって掃除された風呂に入り、なまえが用意してくれたふかふかの布団に横になるだけである。なまえは、己の世話をかいがいしく焼いていた。家に帰ってきて何もしないでただご飯を食べて寝るだけという、なまえに甘やかされた生活は、とにかく充実していた。
 なまえと付き合い始めて七年が経とうとした夏のことだった。練習後、スマートフォンを確認するとなまえから連絡が来ていたのであるが、着替えの最中に急遽、先輩方から飲み会に誘われてしまった。先輩方の誘いを断ったところで彼らが何も悪いことを言わないのは分かっているが、何となく断りづらくてなまえに「今日は遅くなるから夕食は冷蔵庫に入れて欲しい、ごめん」というメッセージを入れた。なまえからは了解のスタンプだけが送られてきていた。なまえに申し訳ない思いはしたけれども、飲み会のテーブルにつき酒が入ればそれも忘れていた。飲み会の途中、席を外してトイレに行ってから戻ってくると、自分たちの席だけでなく、己らの飲んでいたグループの隣で飲んでいた同じ年くらいの女の子たちのグループも一緒になって飲んでいた。「どうしたんこれ」そう言うと、隣のグループに声をかけたらしい先輩がたがドヤ顔をして己の方を見ていた。「侑は彼女おるからなあ」そう言われた時に、女の子たちのグループが沸いた。なんやねん、と思いながら空いた席に座って酒を飲んでいると、何故か彼らは己の彼女の話で盛り上がり始めてしまった。家に帰ったら甲斐甲斐しく世話を焼く彼女がいて羨ましいわ、と言われることには悪い気がしなかった。調子に乗って、なまえが子どものころからの幼馴染であること、付き合い始めたのは大学生になったころであること、気づいたら七年以上付き合っていてそろそろ結婚も考えたいということまで口を滑らせて言ってしまった。「侑にもったいないええ女やんか」と言われると自分の鼻が何となく高くなるような気がした。

「でもそれ、彼女ちゅうかオカンやない?」

そう言ってきたは、いつのまにか同席していた知らない女だった。ファッション雑誌に載っていてもおかしくないように見える可愛らしい女の子の、オレンジ色の口紅が塗られたかわいげのある口からそのような言葉が出てきた時、冷や水をかけられたような気持ちになった。その女の子の友人らしい女友達は慌てたような顔をして彼女のことを咎めたけれども、彼女の口は止まらなかった。そう咎められたのにも関わらず、彼女はそのまま続けた。

「身の回りのことを全部やってくれる子って、ただの都合のいい人やないですか」

そう言われて、さっと背中が冷えるような気持ちになった。まるで、己のなまえに対する気持ちの全てが否定されてしまったようでもあった。今まで浮かれていた気持ちも、酒が入って良くなっていた気分も、何もかもに水を差されてしまった。その女の口ぶりにこの女はエライ失礼なことを言う奴や、不愉快やなと思う自分自身がいると同時に、彼女の言うことにも一理あると思っている己が、この騒がしい飲み会の場にぽつんと存在していた。しかしながら、なまえは自分の母親とは明確に違っているということは理解していたけれども、彼女が己の身の回りの世話を全てしてくれると言うことに関していえば、己が実家で母親にやってもらっていたこととそう変わりない。それに気づいた時に、なまえという幼馴染であり恋人でもある女について、彼女と言う目で今までの通りそのまま見ていいものか疑問に思ってしまった。己がずっと気づきたくなかった事実に気づいてしまったような、そんな気持ちだった。己がボケることもなければ突っ込むこともなく、ただ無言で黙り込んでしまったのを見た先輩方は「まあまあ、」と言いこの空気を変えようと話を無理やり変えてしまった。その女の子は新しい話題にのってくすくすと上品な笑みを浮かべて話を聞いていた。己は空気を壊さないようにその話題に乗りながらも、なまえを明確に好きだと思ったときのことをふと、思い出していた。誰もしらないなまえのことを暴きたいと思ったことが発端となりそれを恋だと思ってなまえのことを好きになってしまったことを、思い出していた。性欲が根底にあるところからはじまった恋というもの以外の、明確な恋心と言うものを己は知らない。なまえと言うよく知った女のことしか知らない己は、己が抱いた恋心というものが正しく恋であったのかどうかも知らなかったのである。この場にいる人間であるならばあの子がかわええなと思う、この女の子を彼女にして見たいと思うのが恋なんやろか……そのようなことを考えて見たけれども結論は出なかった。結局、己の恋の話というものは無理やり話を変えられてしまったせいでそれっきりになってしまったが、どんなに楽しい話題になったとしても自分の脳裏の中にはそのときに差し込まれた冷水の冷たい感覚だけが脳裏にそっと存在していて、浴びるように酒を飲んだところでどこか冷めている自分がそこにはいた。見知った人間たちの多いこの場所にいるはずなのに、己はどこか知らない場所にひとりだけ放り込まれてしまったかのような気持ちになっていた。
2022-05-21