小説

金袋と一モラ

 家族のいる母国で仕事をしたいと望んだところで、思い通りにはいかないモノである。ファデュイという組織の中で、上からじきじきに命じられてしまえばそれに逆らうことなどできるはずもない。璃月への異動は、愛する家族たちのいるスネージナヤという国を離れて遠くの異国の地に行かなければならないということでもある。異動にかかる時間と、それに一週間ほど足された時間を休暇として与えられた己は、愛する家族たちにはしばらくのお別れと、手紙を必ず書くことを告げて故郷を離れ遠くの異国の地へと出かけた。目的地でもある璃月港にまっすぐ向かっても良かったが、せっかく時間があるのだからと寄り道をすることにした。この国には広大な自然がある。雪で覆われ裸の枝の多い故郷とは違い、木々は緑や橙の葉をつけて山を賑わせている。壁のようにそびえ立つ巨大な岩肌、そしてそこに逞しく咲く瑠璃袋の花を眺めながら、故郷では見ることのできない自然の姿を眺めながら馬車に乗っていた。広大な自然も、初めのうちは物珍しいせいか興味深く眺めていたけれども、あまりにも長く続くと少々退屈になってしまう。璃月という国というのは、こういう景色のある国なのか、そう少しずつこの国のことを分かったつもりになってきたころ、己の視界に広大な水の塊が見えた。水の塊はゆっくりと波打ちながらおだやかに揺れている。スネージナヤと言う国にはあのような広大な流れる水の塊と言うものは存在しない。スネージナヤという国において水というものが非常に貴重なものであることは、己だけではなく、誰もがよく知っているはずだった。その貴重な資源が、大きな塊のすがたをとって目の前に広がっている。「あれは?」御者に話しかけると、彼は馬の手綱を握り、前を向いたまま己の質問に答えた。

「海です」

御者はそう、短く答えた。──海。海と言うものが何かは良く知っている。父の語る冒険譚の中で語られる冒険者が、広大な海のある場所に旅をしていた時の話を、己は知っている。物語の上でしか聞いたことのなかった海と言うものを、己は今こうして目にしている。海というものは、己が想像していたよりもずっと広く、穏やかだった。父の冒険譚で語られる海というものは、強い波しぶきが上がり、人のことを飲み込んでしまうほど獰猛なものであったと聞いている。そのせいか、目の前にある海というものが、本物の海なのか一瞬疑いかけたほどだ。

「目的地変更だ。璃月港ではなくあそこに向かって。料金は璃月港ゆきと同じだけ払うよ」
「海に、ですか?」
「ああ。海から璃月港までは自分で行くから俺のことは待たなくていいよ」
「はあ……」



 眼前には大きな水の塊が広がっている。それが波うち、砂浜に打ち寄せては引いていく。白い砂が波に食われるように連れていかれてしまうのを眺めながら、砂浜を歩いていた。生臭い潮風を肺いっぱいに吸い込んだ後、波打ち際を歩く。寄せては返す波というものは、同じ動作を繰り返しているというのに波の動きが毎回異なっている。あの広大な水の塊が姿を変えるのを眺めているのは、退屈にはならなかった。海鳥が鳴く声、燦燦と照りつける陽光、この場所で見えるものは、己が今まで故郷で一度も見たことのない自然のすがただった。故郷に居る幼いきょうだいたちにもこの様子を見せてやりたいと思いながら、次に送る手紙に書く内容を考えていた。砂浜に転がっている綺麗な貝殻も一緒に送ってやれば、きょうだいたちは喜ぶかもしれない。きょうだいたちの喜ぶ姿を瞼に思い描きながら、砂浜に転がっている岩場に腰をかけた。ベンチのないこの場所で休憩できるのはこのような場所しかないだろう。暫く、座って眼前にひろがる広大な海とどこまでも続く白い砂浜を眺めていると、人の足音が聞こえた。白い砂を蹴る人の足音に、視線が自然と吸い寄せられてしまう。そこを歩いていたのは、みすぼらしい恰好をした少女だった。もしかしたら、己の妹と同じくらいの年のようにも見えた。少女は、己のすがたに気が付いたのか、足早に歩を進めてきた。よく見れば、彼女は背中に大きな籠を背負っている。「果物を売っているんです。夕暮れの実、ひとついかがですか」舌たらずな声でそう、少女が話しかけてくるのを心のどこかで疎んでいる己がいることを自覚しながら、目の前にいるみすぼらしい身なりの果物売りが早く自分の視界から去って欲しいという気持ちで、果物を一つだけ買った。少女にモラを渡すと、己の望んだとおり、彼女は「ありがとうございます」と元気よく己に礼を言うと砂浜を歩いて行ってしまった。この浜辺に人のひとのすがたを見たのは、あのみすぼらしい身なりをした少女くらいだったことを考えると、あの果物売りがこの場でこれ以上小銭を稼ぐのは難しいだろうと思いはしたものの、それを伝える義理も無かったので何も言わなかった。

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 海と言うものは何日見ていても飽きないものである。璃月の山々はすぐに見飽きてしまったというのに、この広大な水の塊が己を引き寄せる力と言うものはおそろしいもので、璃月港に到着しなければならない日まで、この場でゆっくりしたいと思うくらいには、己はこの水の塊の虜になっていた。早朝から、夕方、夜とこの海を眺めてみたけれども、時間帯で表情を変えるこの景色は全くと言っていいほど見飽きないのだから不思議だ。いつもの通り、砂浜を歩いて休憩地点にしている岩場に腰を掛け、空を見上げる。太陽は燦燦と照り、その暖かさと穏やかに吹く潮風が心地よかった。昼下がりごろの時間になると、この場所にはあのみすぼらしい身なりをした果物売りが現れる。毎度ここで夕暮れの実を一つ買っているせいか、あの少女は毎度己の姿を見つけては、果物を売りつけてくるのだ。それを煩わしいと思いはするものの、この場所を離れるつもりはさらさらなかった。カモにされているということを自覚しはしているものの、小銭程度のモラでこの場を去ってくれるのだから、さしたる問題はなかった。今日もまた一つ、夕暮れの実を買ったあと、去る少女の背中に声をかけたのはほんの気まぐれだった。すぐにでも去って欲しい、このうつくしい景観を汚すあの少女に早く去ってもらいたいという気持であったのにも関わらず、己は声をかけていたのだ。「きみはいつもここで果物を売っているの?」そう聞くと、少女は振り返った後で「はい」と答えた。「商売繁盛してる?」そう問うたのは意地悪のつもりだった。この数日このあたりを歩いているものの、人の姿を見たことはない。時折、観光目的の人間がちらほら歩いているのを見ることはあれど、彼らはすぐに去って行ってしまう。それに、その観光客たちだって、あのみすぼらしい身なりの少女から果物を買おうなどとは思わないだろう。

「昨日も、一昨日も、一つは買ってもらえています」
「それ、俺が買ったやつだよね」
「はい、いつもありがとうございます」

己が居なければ少女はあの果物の入った重い籠を持ったまま、帰るのだろう。「璃月港の方がまだ売れるんじゃない?」そう少女に言うと、彼女は首を横に振った。「港にはわたしのような者は入れませんよ」それは、彼女のみすぼらしい身なりのことをさして言っているのだろう。たしかに、彼女の身なりで街に入るとすぐに追い出されてしまうかもしれないとも思う。

「どうして君はここで果物を売っているの?」
「弟や妹たちがまだ小さいんです。わたしはお金を稼がなければいけませんから」

そう、少女は困ったように笑ってそう言った。彼女も己の目から見れば随分と幼く見えるけれども、彼女からしてみれば家にいる彼女よりも小さなきょうだいを食わせなければならないのだろう。己のきょうだいたちとそう年が変わらなさそうな子が、自分のきょうだいたちのためにみすぼらしい身なりで果物売りをしなければならないことを思うと胸が痛んだ。ただの同情だった。自分のきょうだいたちが彼女のような目に遭っていることを想像するとそのまま彼女を帰すつもりにはならなかった。「それでは」そう言って去ろうとする少女を呼び止めて、自分の財布の中に入っているモラを半分ほど、持っていた金袋に分けて少女に渡した。彼女は目を丸くして、己の顔を見ている。

「……これは」
「いいよ、はした金だから返さなくていい。三か月はこれで生活出来るよね。足りないならまだ出すけど」
「……こんなにもらえません」
「俺にもきょうだいがいてね。君を見ていると故郷にいるきょうだいたちのことを思い出したよ。おしゃべりに付き合ってくれたお駄賃だと思って」
「でも」
「背に腹は変えられないでしょ」

少女は渋々己から金を受け取った。今まで彼女に渡していたモラの何百倍もある金額のモラを受け取った彼女は、頭を下げた。

「……ありがとうございます。お名前をお聞きしてもよろしいでしょうか」
「タルタリヤだよ」
「ありがとうございます、タルタリヤさん」



 次の日、あのみすぼらしい身なりをした少女は砂浜に現れなかった。彼女がむこう三か月は生活できるほどの金額を渡したのだから、もう彼女が暫く果物売りをする必要がないのだから来ないのも当然だと思っていたが、彼女が来ないことをどこか寂しく思っている己がいることに驚いてしまった。このうつくしい景観の邪魔になるあの少女を疎んでいたはずであるのにもかかわらず、彼女が自分のきょうだいの姿と重なってしまったあとではこの気の変わりようである。いつもの岩場で休憩をし、陽が沈みかけたころ、砂浜を歩いた。近場の宿に一泊したあと、己は璃月港に向けて出発しなければならない。もし彼女が今日この場所に来たのであれば、あの少女に別れの挨拶でもしようと思っていたのであるが、その機会は訪れなかった。砂浜を歩き、街へと向かう最中、砂浜の上にみすぼらしい靴が転がっているのが見えた。片方だけ転がっている靴の向こう側に、果物の入った籠が転がっている。籠の中に、白い砂にまみれて少し痛んだ果物が入っている。己がモラを入れて渡した金袋の外側だけが、もう少し歩いた先に転がっているのが見えた。更に砂浜を歩くと、少女が着ていたみすぼらしい洋服が砂浜の上に転がっているのが見えた。昨日の去り際、少女の身に何かがあったのは明白であった。大金を渡しているところを誰かに見られていて襲われたのか、それとも彼女に運が無かったのかは知る由もない。彼女が無事かどうかも、彼女の家族がどうしているかも、今となってはそれを確かめるすべもない。見ず知らずの少女であったのにも関わらず、どこか自分のきょうだいと重なる少女のことを考えた後、白い砂の中に彼女のみすぼらしい靴を埋めた。
2022-04-23