小説

ひとの都合

 二宮匡貴という男が案外やさしいことを、わたしは知っている。深夜に差し掛かる時間に電話を掛けたというのに、数コールもしないうちに電話はつながった。「二宮です」その声音にはどこか面倒くさそうな様子が滲み出ていたけれども、それに対して文句をつけるつもりはなかった。夜分遅くに電話を掛ける女以上に面倒くさい生き物を、わたしは知らないからだ。二宮くんが何かを言う前に、わたしは「三丁目のところ、今すぐ来て」とだけ言った。二宮くんは嫌そうな様子を隠そうともせずに、「なぜですか」と問うてきたけれども、わたしは彼に理由を言わずに電話を切ってしまった。”三丁目のところ”というのは、三門市立大学の正門を出て東に向かって歩いた所にある、三門市立大学のある町の三丁目にある、学生の財布におそろしく優しい居酒屋のことを指す。平日であれば一杯百五十円で何杯でも酒が飲めるこの店は、財布の中身に余裕がない大学生や、家の人に財布を握られているサラリーマンたちでいつでも溢れかえっている。三丁目のところ、と言えば三門市立大学に通う学生にはこの店であることが間違いなく伝わる。一方的に二宮くんに電話をかけて、一方的に電話を切って数分──店員さんがわたしのテーブルの上に、ハイボールのジョッキを持ってくるまでの、そう長くない時間である──が経ったころ、二宮くんからメッセージが送られてきた。彼から「行かない」という言葉が出てこないということを、わたしは確信していた。わたしは二宮くんより年が五つ上であるということと、二宮くん曰く、”ボーダーで世話になっている東先輩”と、それなりに仲良くしているわたしの誘いを彼が断ることが出来ないということを知っているからだった。わたしはそれを都合よく利用して、二宮くんを付き合わせている。わたしはずるい女だ。彼がわたしのことをぞんざいに扱えないことを知って、なおかつ、彼に付け込むようなずるいことをしている自覚がありながら、今日もこうして彼を使おうとしている。これをずるいという言葉以外で表現することは出来ないだろう。「あと二十分ほど掛かります」とメッセージが送られてきた。ほら、やっぱり来てくれるじゃん、とさえ思わなかった。それが当然のことだと思っていたからだ。彼がくることを確信していたわたしは「ほらね」と心の中で呟いた。二宮くんから送られてきたメッセージに、かわいくない動物のスタンプを送り返して既読の代わりとした。わたしの贈ったスタンプに、既読を示すマークがすぐについたのを見たけれども、二宮くんからはそれ以降メッセージが送られてくることはなかった。



 女に指定された店に着いた頃には、居酒屋は随分閑散としていた。明日の午前に予定がなさそうな、このあたりに住んでいるだろう学生たちが店の一角を埋めているだけである。己が店に着いたとき、学生で賑わう一角の反対側のテーブル席で、見知った女がひとりジョッキを握りしめたままテーブルの上に突っ伏していた。女が突っ伏しているテーブルのそばに寄り、「みょうじさん」と女の名前を呼んだけれども女は顔を上げようともしなかった。テーブルの上に置かれた空のジョッキの数と、この女の悪酔いぶりを眺めながら、この女が一体何時からこの店てどれだけ飲んだのかを考えたけれども、それも馬鹿らしくなったのですぐに止めてしまった。空いたグラスおさげしますね、と言って中身が空になったジョッキを下げる店員にジンジャーエールを頼んだとき、テーブルの上に突っ伏していた女が急に顔をあげて「ハイボール」と短く言った。店員は、元気よく返事をしたあとに、朗らかな笑顔を浮かべながら、空になったジョッキを持って厨房の方へと姿を消してしまった。女の向かいの席に腰を下ろすと、女は「二宮くん」と己の名前を呼んだ。アルコールのせいで紅潮した女の顔を眺めながら、「はい」と返事をすると、女は「二宮くんも何か飲みなよ」と言った。つい今しがた頼んだばかりであることにすらこの女は気づいていないのかもしれない。女がメニューを見せてくるのを断りつつ、長居するつもりもなかったのですぐに本題に入る。「今日は何ですか」そう問うたけれども、女はヘラヘラ笑うばかりで本題を切り出そうとしなかった。今日は早くに帰るつもりであったのだが、この女はそれすら許してくれないのだろうと心のどこかで思う。

「二宮くん明日朝イチの授業無いでしょ」

女は得意げな顔をして言った。己のスケジュールが知られていることを今更どうこう言うつもりはないし、この女の言う通り、明日は一日空きの日だったので、予定は無かった。強いて言うのであれば、夕方過ぎにボーダー本部へ行く用事がある程度であった。

「……俺は長居するつもりはありませんよ」
「いいじゃん、ちょっとくらい付き合ってくれたって」
「東さんを呼んだらいいじゃないですか」
「アイツ、付き合い悪いんだよね。わたしの話が長いから嫌だって言う」
「俺も同感です」

己はこの女のことを、あまりよく知らない。東さんの同級生で、東さんと同じ研究室に所属しているということと、女の名前くらいは知っているものの、それ以外のことはさっぱりだった。それなのに、何故かこの女に気に入られていて、時々こうして己のことを急に呼び出しては酒を飲む女に付き合うことがある程度だった。この女に付き合う義理は少しも無いのであるが、東さんのことを考えるとこの女をぞんざいに突き放すこともできずに、こうしてずるずるとこの女のペースに乗せられて付き合ってしまっている。東さんはこの女によく世話になっていると言うが、己はこの女の世話をしたことしかないので、東さんが世話になっているというのも少しばかり疑わしいものである。

「『俺とお前が三十になったときに相手が居なかったら結婚しよう』って言った癖に」

店員が持ってきたハイボールの入ったジョッキを一気に飲み干した後で、女はそうぼやいた。前回こうして呼び出された時は、論文を書くために実験をしているけれども思うように成果が出ないという愚痴を吐いていたので、今回もまた進まない研究の愚痴でも聞かされると思っていたのであるが、どうやら違うらしい。女の口から出てきた結婚という言葉を反芻する。結婚。夫婦となること、婚姻。「……」赤い顔をした女は、どこか遠くを見るような目をして店の天井を仰いだ後に、再びハイボールの入ったジョッキを煽った。女の、いい飲みっぷりに関心すらしてしまうほどだった。

「わたしを置いて結婚しやがって」

悪態をついている女の事情を、己は知らなかった。結婚する予定のある恋人がいるという話を、この女から聞いたことは一度もなかった。今日の己は恋人と破局した愚痴に付き合わされるのか、そう思うとうんざりしてしまった。恋愛について、己が目の前の女にかけることが出来る言葉は全くと言っていいほど思いつかなかった。そういう、人の感情に関して共感するようなそぶりを見せて相手のことを気持ちよくするのは、己の得意なことではない。こうなるのであれば、進まない研究の愚痴でも聞いている方が随分マシだっただろう。

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好きな人がいた。その人はわたしの気まぐれによく付き合ってくれる男だった。急に出かけたくなったから一緒に出掛けようと誘った時に、「本当に急だなあ」と言いながらもワガママに付き合ってくれるようなイイ奴だった。わたしが相手に対してそうであるように、相手もわたしに対してそうであった。相手の突発的な「飲みに行こう」の誘いに乗って、この居酒屋に来ることもあった。わたしと彼との間には、わたしの勘違いでなければそういった互いの気まぐれを許しあうことができるような空気が漂っていた。友人というには仲が良すぎるが決して恋人ではない。もし、友達の延長線に恋人が居るのであれば、わたしと彼との関係性は友達と呼ぶにしては近すぎて、恋人と呼ぶにしては遠すぎるところにある、どっちつかずの曖昧な関係だった。友達よりは気が置けて程よくワガママを言うことが出来るこの都合のいい関係のことを、わたしはとてもよく気に入っていた。わたしはたしかに、彼のことを好いていたが、それを彼に言うことはできなかった。想いを告げることが恥ずかしかったからというのもあるが、この、丁度いいところでとどまっている関係というものを壊したくないという思いが強かったせいかもしれない。ある夜、わたしはいつもの気まぐれを起こして彼を誘って居酒屋に行った。潰れない程度に酒を飲んだ後で、「このままだと彼氏もできなければ結婚も難しいかも」という話を切り出した。この男を試すつもりで、わたしは酒に酔ったふりをしてそう言ったのだ。彼は豪快に笑っていた。「みょうじなら大丈夫だろ」そう言ったあと、「俺とお前が三十になったときに相手が居なかったら結婚するよ」と言った。酒の入った場での冗談、よくある軽口だということをわたしはよく知っていたつもりだったけれども、舞い上がってしまうほどに嬉しかった。恋人ではない好いた男から、関係を一つ飛ばして結婚の話をされたことが、まるでプロポーズをされたように嬉しかった。一時の軽口、ただの冗談であって、彼は本気で言っているつもりではないのだと心のそこではよくわかっていたつもりだったのだが、わたしの心は高いところまで舞い上がってしまっていて、冗談であることを都合よく忘れてしまっていた。そうして勝手にその気になっていたのに、あの男は三十の年を迎えるよりもずっと前に、恋人の女性と結婚することになってしまった。いつもの調子で飲みに行こうと誘われて、その誘いに乗って今いるこの店に来た後で、男は結婚の話を打ち明けてきた。まるで、大きな隕石が頭にぶつけられたような気持ちだった。元気よく飲むつもりだったのに、その気すら何処かへ消えて行ってしまうくらいには、わたしにとって衝撃的な出来事であった。あの男に恋人がいる話を聞いたことは今まで一度もなかった。あの男は、好きな人がいながらわたしに対して、気を持たせるようなことを言っていたのだと思うと急に裏切られたような気持ちになってしまった。悲しさよりも先に、怒りの方が湧き出てきたが、それが理不尽な怒りだということをとてもよく知っていたのでその気持ちは心の中に押し込んだ。そうして、「おめでとう」の一言だけを言った。男は照れくさそうに笑いながら、「ありがとう」と言ったあとに、わたしの気すら知らずに恋人の話と、結婚に向けての話をしてくれたけれども、その話のほとんどが頭に入ってこなかった。心の中ではあの男と結婚するのが自分だと、そう勝手に確信していた自分が間違いであるし、「相手が居なかったら結婚する」と言ってくれたけれども、彼は相手が居ないとはわたしには一言も言っていなかったのだから、嘘はついていない。あの男の人のよさを考えれば、恋人が居てもおかしくないだろうにそれについて一切考えたことが無かったのは、わたしが彼の事情を知ろうとしたことが一度もなく、勝手に自分と同じ恋人が居ない人だと勝手に思い込んでいたからに違いない。
二宮くんの前でその話をぶちまけた時、彼は表情一つ変えなかった。ヤケ酒を流し込んでいる、みっともない先輩の姿を見ながら、失望したような表情を浮かべることもなければ、愛想よくわたしの機嫌を取ろうともしなかった。ただ黙って、彼の注文した飲み物を飲んでいるだけだ。「何かないの」そうわたしは二宮くんに問うた。二宮くんは、目を伏せた後で、「慰めの言葉が欲しいんですか」と言った。わたしが慰めの言葉が欲しいと言えば、彼はわたしに慰めの言葉をかけてくれるのだろうか。「うん」わたしは彼に言った。二宮くんは小さいため息を吐いたあとで、「……飲みすぎです。もう帰りましょう」とだけ言った。

「慰めの言葉をかけてくれるんじゃないの」
「生憎、俺は都合の良い男にはなれませんので」

二宮くんは表情一つ変えずにわたしにそう言った。わたしは彼の口から、そんな言葉が出てくるとは思わなかったので、唖然として彼の顔を見てしまった。二宮くんは、「もう帰りましょう」ともう一度言った。彼の飲んでいたグラスの中身はすでに空っぽになっていて、これ以上彼が長居するつもりがないのだということは彼の口ぶりと態度から察することが出来た。わたしは、いままでわたしの都合に文句言わずに付き合ってくれた二宮くんが、わたしのところを離れてどこか遠いところに行ってしまったような気がして「二宮くん」と彼に縋りつくように、彼の名前を呼んだ。二宮くんは相変わらず、表情一つ変えないまま「はい」と返事をした。わたしは、二宮くんから返事が返ってきたことにひどく安心して「……ごめん」と謝罪の言葉を吐いた。それも、二宮くんというわたしにとって都合がよい人があの男のようにどこにも行ってほしくないという自己中心的な思いからきた、上っ面だけの謝罪の言葉だった。

「今度はもっと早い時間にしてください」

二宮くんの言葉を聞いて、わたしは心の底で安堵していた。彼にくぎを刺されたばかりだというのに、わたしは二宮くんがわたしのもとを離れていかないということに安心していた。外に出ようとする二宮くんの背を追いながらそう思った後で、相変わらず都合よく人を使おうとしている自分自身に対して自己嫌悪した。
2022-04-09