小説

クラスメイトのおわり

 暦の上では春になりかけているとはいえ、北風は相変わらず冷たく、太陽が高くに上がっていても未だに冷えのほうが強い。一般入試が終われば、あとは結果待ちだけとなり教室の雰囲気も、受験を控えたクラスメイトから己に向けて刃物で刺してくるような鋭い緊張感があったころよりは随分と居心地は良くなったと思う。後ろから刺されるような緊張感はなくなったとはいえ、合格発表を前にした、別の緊張の色のほうが濃くなっているので、学年上がりたてのころよりは矢張り、ずっと緊張感に支配されているように思う。しかしながら、卒業も近いこともあるせいか、その中でもまだ残り少ない時間を惜しみなく過ごそうとするクラスメイトたちが、それなりに楽しくやろうとしているので、緊張感の中にあっても和気藹々とした雰囲気ではあった。高校の制服を着るのも後一か月も無いのかと思えばほんのすこし寂しく思う。もう、学生服を着る機会はこれからきっと、無いのだろう。進学する先次第で、若しかしたら制服を着る機会のある人はクラスにひとりやふたりは居るかもしれぬが、一般的な大学に進学する場合であれば制服を着ることは無いだろう。もう二度と着ることのない制服を思えばすこしくらいは寂しくなるものである。
 結局、なまえとは高校三年間同じクラスだったうえに、入学式どころか、卒業式でまで隣に座ることが確定してしまった。この三年間、四月になれば己の隣の席にはなまえが座るし、当然なまえの隣には己が座ることとなった。二年の時には「今年も一緒か」「嫌かよ」「気軽に教科書忘れられてよかった」「見せねえぞ」「意地悪やめてよ」というくだらない会話をしたが、三年の時には「デジャヴ」「俺も同じこと考えてた」といつかどこかで見た景色を思い出しながら会話をしていたように思う。「諏訪おはよう」「なんだみょうじ気持ち悪ィな」「なんか違和感あるよ、背中がムズムズする」「今更過ぎるだろ」「諏訪くん」「見ろよこの鳥肌」「名前呼んだだけじゃん」クラスが変われば、同じクラスに居たもう一人ずついた諏訪もみょうじも、別のクラスに行ってしまったのだから、下の名前で呼ぶ必要もないのである。それに気づいたなまえが、朝から意気揚々と己に向って己を指して一度も呼んだことのない苗字を呼んだことから、互いにそれをやってみたが結局のところ、現状維持のままとなった。今更「諏訪くん」「みょうじさん」と苗字呼に戻すのも他人行儀で気持ちが悪く、ただ苗字で名前を呼んだだけなのに互いに痒くて難儀するからという理由で、結局三年間、己は「洸太郎」だったし、彼女は「なまえ」だった。

 今日の午前中の授業が終われば、休日を挟んで来週からは自由登校期間となる。後期入試を控えている生徒たちは学校に来て勉強をしたり質問に出かけているのだというが、それらが無い生徒は卒業式まで学校に来ることはあまり無いのだという。例にもれず、己も学校に来るつもりはなかったのであるが、ボーダーの任務都合で何日か欠席している分をその日のいずれかを使って補填するという話が出てしまったため、結局何日かは出なければならなかった。クラスメイトがすがすがしい顔をして教室を出て行くたびに軽口をたたいて消えていく。「じゃあな諏訪お前は学校行けよ」「うるせえ」早く帰れ、と言えば「言われなくとも」と嫌味なくらいいい笑顔を浮かべて消えていくのが憎い。

なまえは、帰宅の準備を終えて鞄を机の上に出したまま、ひとり、ひとりと人が減ってゆく教室を見ていた。「帰らねえのかよ」「……洸太郎は」「課題残ってるからよ」「じゃあ帰れないね」「うるせえ」何もないなら早く帰ればいいだろ、と言ったが、なまえは「用事は、あるんだけど」としどろもどろになりながら言っていた。日ごろから結構、はっきり物事を言うこのおんなが、言葉を濁しているのを珍しいとは思いつつも、目の前の課題に目を落とした。プリントに印字されているのは、教科書で見かけたことのある数式の羅列と、図形が広がっている。何となく解けそうな物から解いていって、分からないものはあとで教科書を見ればよい。

「国語がそこそこできる人って数学が苦手って偏見があったけど、洸太郎ってそうじゃないよね」
「知っているか知らないかの違いだろ、こういうのは。俺だって、知らねえモンがあったら解けねえよ」

目の前に広がるプリントは見事な虫食い状態になっている。簡単な計算問題と証明問題のあたりはそれなりに埋めたつもりであったが、一部計算方法を忘れて手が止まってしまい、計算過程で放棄したものもあれば全く手の付いていないものもそこにあった。

「うーん、そうかなあ。勉強しても点数が取れないときもあるよ」
「点数が取れるかどうかと得意か不得意かは別だろ」
「そういうものかな?」
「そういうモンだろ。だいたい、テストなんざテストに出た範囲のものが出来ているか出来ていないかくらいしか分からねえんだからよ。それに、計算間違いでバツがついた奴と何も手がつかなくてバツがついた奴、同じバツでも度合いが違うって言っても点数の上では一緒だしよ」
「たしかに」

設問を解き進めてゆき、空欄になっている問題を解くために教科書を開くころには教室に居る人間は己となまえだけになっていた。「帰らなくていいのかよ」「……帰るよ、たぶん」「曖昧だな」なまえは、意を決したような顔をして、己の名を呼んだ。

「お願いがあって」
「なんだよ、いきなり改まるなよ」
「合格発表、一緒に見に行ってほしい」

なんでだよ、と問えばなまえは少しばかり思案顔をして、蚊の鳴くような声で言った。「落ちてたら、立ち直れなさそうだから」己はボーダーに所属しているせいもあり、ありがたいことに推薦でとうに進学が決まっており、結果が公表されるのはなまえのみである。「自己採点で合格圏内だったろ」「それと実際に受かるかどうかは別だよ。わたし、緊張すると慌てちゃっていつも失敗しちゃうから、ダメかもしれない……」なまえは、落ち着かない様子でそう言った。

「お前が落ちてたら俺が気まずいだろ」
「だから友達は呼ばなかった。わたしだけ落ちてたら友達がつらいかなって思って」
「俺はいいのかよ」
「洸太郎だったら、大丈夫かなって」
「なんだよそれ」
「お願い。落ちてたら笑ってもいいから」

そこまで言われてしまえば、断ることは出来なかった。「洸太郎進学決まってるんでしょ」「おう」「いいなあ。わたしも洸太郎と一緒に大学行きたいよ」行けるだろ、と確約の無い言葉は言えなかった。かといって、"受かってたら"という余計な言葉をつけることもできなかった。

「だってさあ、入学式から卒業式まで一緒なのに大学は別ってちょっと寂しいじゃん」
「そうかあ?」
「そう思ってたのわたしだけかよ」
「さみしいさみしい」
「むかつく」

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 合格発表当日、三門の大学の合格発表掲示の前は、人でごった返していた。合格を知った人たちが、笑顔で折り返してくるのを見るたびに、なまえの顔が曇ってゆく。門を通り抜けたあたり、掲示板が遠くに見えたあたりで、なまえの足が止まってしまった。「どうした」「……こわい」縋るものを探しているのか、空を泳いだなまえの手が、己の手に触れた。なまえのほそい指先が小刻みに震えている。顔を見れば、緊張と様々な感情とが入り混じって蒼白になってしまっており、見ている方がかわいそうになってくる始末である。たしかに、これだと一人で結果を見に行くのは難しかっただろう。なまえを勇気づけるためにかける言葉は、生憎思いつかなかった。多少、気が利けば良かったのだろうが、無責任な言葉なぞ掛けることもできず、できたことは震えるおんなの手を握ることだけである。「洸太郎」己に手を握られたせいで驚いたなまえの手が、大げさすぎるほどに震えた。「こわいからそのまま、握ってて」なまえの指先が、己の手を恐る恐る握った。なまえの指先は、随分冷たかった。外気に触れたせいで冷たくなっているのか、それとも緊張でそうなっているのかは分からないが、今であればその両方であってもなんらおかしくはなかった。

 なまえの受験番号は知っている。なまえが、自分の番号のありそうな列を上から順に下に向って、恐る恐る確認してゆく。なまえの受験番号の一つ前、その次が抜けてなまえの受験番号の次の番号が、連続して書かれている。なまえの番号は、そこにはなかった。なまえは上から下まで見た後に、再度、下から上へと見たのちに、みるみる落胆した表情を作っていった。ダメ元で確認した補欠合格の欄にも、彼女の番号はなかった。周囲に居る受験生の、自らの合格に喜ぶ声が、響くたびに、なまえの耳をふさいでしまいたかった。それらすべてが、自分にとってはひどく耳障りに聞こえてしまうほど、今の己らに他人の合格を共に喜ぼうとする心の余裕はなかった。

「……なかったよ、洸太郎」

なまえの手は震えていた。握る前から震えていたが、今目の前にいるなまえは、もう限界であった。彼女のか細いこえが、歓声の間にぽつり、ぽつりと己の鼓膜を揺らした。この場に居るなまえは孤独に違いない。自分の番号がみつからない中、周りの歓声の中に放り込まれているのだ。今この場に、なまえの不合格を知るものは、彼女が辛そうな表情をしていることに気づいたものだけであろうが、自分の喜びを体現している人間らにほかの人の様子を見る余裕など、あるはずもない。「向こう、行くか」「……うん」人混みの間をかき分けて、合格発表の掲示板から一歩、一歩と距離が出来るたびに、肩が小刻みにふるえ、なまえから嗚咽が聞こえるようになった。もう、人の群れの声が一切聞こえなくなったあたりで、なまえは堰を切ったように泣き出してしまった。よく知らぬ大学の敷地内を歩いて、ちょど校舎と校舎の間の影になっている細道のあたりに、なまえを押し込んだ。どこからもこのおんなの泣いているさまはきっと、見えないだろう。「わたし、ダメだった」その言葉の中に、何の感情が込められているのかは分からない。来年頑張ろうとか、そういう言葉をやすやす掛けられる訳もない。今のなまえが出来るのは、己よりもずっとちいさな体で、このかなしみに耐えることのみで、今の己にできるのは、目の前で泣くおんなの涙をそっと、人差し指で拭うことくらいであった。

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 浪人して来年また、受験することに決めたのだとなまえが己に言ったのは、翌日のことである。学校に行く予定の無かった己は、昼頃に掛かってきたなまえからの電話でそれを聞いたのであるが、一度直接会いたいと言われ、結局、学校へ来てしまった。なまえは合否の結果を学校に報告するために登校したのだという。昨日の死にそうななまえの顔を思い出して、落ちたことまで学校側に報告させんなよ、と思ったが、学校で会った時のなまえはすでに、昨日の死にそうなほど青ざめていたときの姿はどこにもなく、どこか吹っ切れたようにも見えた。ただそれが、なまえが強がってそうしているだけなのか、本当にもう吹っ切れてしまったのかは分からない。

「両親に相談したら、来年また受けて良いって言われたから頑張るよ」
「おう、頑張れよ」
「洸太郎、お願いがあるんだけど」
「なんだよ」
「来年の合格発表も来てくれる?」

なまえはそう、己に向って言った。己が答えずにいると、なまえはわざとらしくむっとした顔を作って、「洸太郎はさ」と言った。

「クラスメイトじゃなくなったら、いやなの?」
「何言ってんだ」
「ねえ、洸太郎」
「行かねえとは言ってないだろ」
「行くとも言ってないじゃん」
「屁理屈ごねてんじゃねえ」

そう言えば、なまえはもう、己が合格発表にまた着いてきてくれるものだと判断して両手をあげて喜んでいた。わかった、行くからと言えばなまえは「絶対に約束守ってよ、わたしのこと着拒したら家に行くからね」「しねえし怖ェからやめろ」「……洸太郎の家しらないけど」「じゃあお前なんで言ったんだよ」大袈裟にため息をついたら、なまえはくすくすと笑った。

「次は泣くんじゃねえぞ」
「受かったら泣いちゃうかも」
「どうせ泣くならそっちにしてくれや」
「そうする」

 卒業式の日は、案外すぐにやってきた。自由登校で顔を見なかったクラスメイト達が、久しく一つの教室に収まっているのも今日で見納めと思えば、少しばかり寂しくなるものだと思う。卒業式が終わったのちに、特に学生生活に思い入れのある奴らはワンワン泣いていた。今生の別れという訳でもないのにも関わらず、彼らは良く泣くもんだとぼんやりと思った。隣の席のなまえは、卒業アルバムの寄せ書きを埋めるだけ埋めるのに一生懸命になっているようであった。その時に、なまえが泣いている様子はなかった。

「洸太郎のやつ寄せ書き書いてもらった?」
「見た通り」
「うわ、幅ギッチギチじゃん。もう書く人いないの?」
「いねえだろ」
「じゃあ書いていい?」
「おう」
「じゃあ書くね。家に帰ってから見てよ。絶対だよ」
「いいから書けや」

なまえは一生懸命書くことを悩んでいるようで、アルバムを前にしながら、ペンはあまり上手く動いていなかったようであった。あれだけクラスメイトの寄せ書きをサラサラと書いていたのに何を悩むことがあるんだとは思うが、何を書いたかなぞ後で見れるのだから問題ないだろうと思い、今は気にしないことにした。暫く、止まっていたなまえのペンが動いて、インクが乾いたのを確認したのか、なまえはアルバムを閉じて己に返却してきた。もう、寄せ書きを誰も書きそうにないアルバムを鞄の中に片づけて、解散までのそう長くはない時間をクラスメイトと適当な会話をして潰した。
 うすら開いた窓から、暖かい日差しと、風が吹き込んでくる。冷たかった北風はすっかりなりを潜め、今はもう、さまざまな花の香りさえも溶かしたやわらかな風が吹くばかりである。春はもう、たしかにそこにあった。
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