小説

あらゆる

 昼休みを通り過ぎた後のカフェテリアは、随分と人がまばらになる。昼頃であれば席が足りないほどにごった返しているのに、十四時を回ってしまえば、人の大波が去った後の静けさか、座席の空きがちらほらと見えるようになる。急いで次の講義に向うひとたちが、早足で歩いてゆくのとすれ違った。マフラーとコートを着なおしたばかりなのか、コートはボタンが留まっていないし、マフラーからはすこしばかり首もとが見え隠れしていた。カフェテリアのドアを開けた時にはすでに、己が勝手にいつもの場所だと思っている場所の座席に人の姿はなかった。入り口から直線上の窓際の円卓の席は、入り口からやってくる人との待ち合わせをするのに都合が良かった。三つの椅子が置かれている場所をどっかりと陣取って、見知った背格好のおんなのすがたを探す。まだ、なまえは授業を受けているはずなのだから、今この場になまえが来るはずがないのであるが、どうしてもカフェテリアの壁掛けの時計の針と、入り口を交互に見ることをやめられずに居る。時計の秒針がひとつ、ひとつ時を刻むことすら煩わしく思うあたり、これほど落ち着きがないのも考え物だろうと思うが、会いたいと思っているのだから待ち遠しくなるのも仕方のないことだと考えるのをやめた。

 寝ている最中だろうなまえに「時間あるか」とメッセージを投げた。どうしようもない理由で最下位に転落してからというもの、そこから上手く巻き返せることもなくゲームが終了し、解散となった後、家に帰ることもしないでそのまま、作戦室のベッドの上に横になった。麻雀の最中に少しずつ蓄積していた眠気は、ゲーム終了とともに魔物となって襲い掛かってきた。妨害するものが誰もいなかったせいか、なまえからの返事を待てずに己は見事に負けた。次に、作戦室のベッドの上で目を覚ましたのは十二時を回ったころであった。作戦室は静かだった。己と堤以外の二人は今の時間であれば高校に出かけている頃だし、もし来ているとしたら堤なのだろうが、堤は今日、午前中から講義があるので不在だろう。作戦室に窓はないが、今頃太陽は天高くに上っているのだろうとぼんやり思いながら、ベッドから起き上がり、思わず髪を掻いた。枕元に置きっぱなしの端末を拾い上げ、画面を確認した。ほどよく眠ったせいか、すがすがしいほどにすっきりとした目覚めであった。六時間以上前のチャットアプリのポップアップ通知が、ロック画面に表示されている。それ以外のメッセージは未だ無かった。あの時まだ寝ていると思ったなまえはとっくに起きていたようで、「十五時以降なら。今日は早いね、麻雀?」と寝落ちして数分も経っていないだろう時間に返事が来ていた。起こしたのか、起きていたのかは分からないが、無性に会いたくなって人を起こす男は最悪だろうとか、なまえが朝から授業にしては起きる時間が早すぎるだろうとか、そういったことが脳裏によぎる。「起こして悪かった。十五時にカフェに居る」麻雀のことには触れずに簡潔なメッセージを返信した。向こうが昼休みのせいか、既読の通知がこちらに表示されるのが早かった。「おはよう、起きてたから大丈夫。また後で」起こしたわけではなかったことに少し安心した。

 十四時五十分、なまえが受ける最後の講義が終わる時間が過ぎたころに、端末にメッセージの通知ポップアップが表示された。「いま行く」要点だけの簡素な文字が並んでいる。これは、今に始まったことではないが、己もなまえも、メッセンジャーでのやりとりはひどく簡素なものになることが多い。良く言えば要点だけが簡潔にまとめられているだけとも言うが、ただ単純に、小さな端末で文字を打つのが面倒になるという理由であった。メッセンジャーでメッセージを三、四往復したあたりで、打つのが面倒になったどちらかが通話に切り替えることが多い。それは、己から電話を掛ける時もあれば、なまえから掛けてくるときもある。「もう居る」とだけ返事を送り、カフェテリアの中に入っている有名なコーヒーショップの列に並び、コーヒーと紅茶を一つずつ頼んだ。なまえは、コーヒーショップで提供される紅茶をいたく気に入っている。「コーヒーじゃないのかよ」「ここは紅茶がおいしいんだよ」下から二番目の大きさの紙カップに注がれた熱い紅茶とコーヒーをカウンターで受け取った後に、そのような会話をしたことを思い出す。なまえは紅茶にミルクを入れることをしないから(紅茶にミルクを入れる気分であれば、最初からカウンターでミルクティを頼むからである)、スティックシュガーを一本持っていれば良い。なまえというおんなは気分屋のきらいがある。同じショップである日コーヒーを飲んでいたと思ったら、次はカフェオレを飲んでいることだけでなく、サブメニューで置かれている柑橘類の果物がふんだんにつかわれたジュースを飲んでいることもある。こうして、紅茶が長く続いていることの方が珍しいのかも知れぬ。同じ紅茶であっても、期間限定のフルーツティがあればそれを飲んでいることもあるし、ミルクティを飲んでいることもあるので、カテゴリの中での嗜好はすでにその日の気分によって決まるらしい。そもそも、人から出されたものに関しては、自分が飲めないと先に言っていたものでもない限りはうるさく言わないので、紅茶であれば問題はないだろう。

 十五時を数分過ぎたころ、カフェテリアの入り口に荷物を持ったなまえのすがたが見えた。学友とともにここまで歩いてきたのか、カフェテリアの入り口で友人と手を振って別れている。友人はさらに別の方向へと歩いてゆき、なまえだけがカフェテリアのドアを開けたのが見えた。入り口から対角、一番遠くの方をジッと見ているなまえに向って手をあげれば、なまえはこちらに気づいたのか、やたら大きな声で「あ、洸太郎いた!」と言って己のほうに向って早足で歩いてきた。周りの人間が、なまえのほうをちらと見たが、すぐに興味を失ったのか、彼らは元の場所に視線を戻したようであった。外が寒かったのか、白い鼻のあたまをほんのり赤くしている。彼女のまとう空気は未だ外気をほんのり感じさせるほど、少しばかり冷たかった。

「おまたせ」
「おう」
「待った?」
「待った」
「そこ待ってないって言った方がかっこいいよ」
「じゃあもう一回最初からやるか?」
「やりたい。待った?」
「待ってない」
「……なんかしっくりこないからやめる」
「なんだよそれ」
「そのままのほうが洸太郎っぽくて好きってことだよ」

 なまえは恥ずかしげもなくそう言って、己の目の前の席に座った。「照れてる?」「……」「アハハ」楽しそうにわらうなまえに、買った紅茶の紙カップを渡した。「いくら?」「いらねえ」「ありがとう。いただきます」なまえの両手がカップを包むように握った。「暖かい」「さみいもんな」「すごく寒かった」カップを握りなおすたびに、なまえの、左手の中指に光るシルバーの指輪が、少しばかり浮いたり、ずれたりするのを見て思わず顔をしかめてしまった。なまえは己の表情には気づかないまま、カップで手を暖めることに夢中になっている。「ぬるくなるだろ」とそう言えば、なまえは「猫舌だから大丈夫だよ。……結構経ってる?」「十分くらい」「ならまだセーフ」「砂糖入れるなら溶けにくくなるだろ」「そっか」渡したスティックシュガーの封を切った後に、紅茶の紙カップの蓋を開けていないことに気づいたなまえが「あっ」と言って思い切り顔をしかめたため、カップの蓋をあけた。「とても気が利く。飲み物も紅茶だし最高」「俺がいないときは蓋を開けてからな」「気を付ける」さらさらと、白い砂糖が紅茶の中に流れてゆくのが見える。マドラーで攪拌された砂糖は、白い結晶一つ残さぬまま紅茶の中にすがたを消していった。そうして、「今ならもういけそう」と言っておそるおそる、カップに口をつけて飲み始めた。くちびるに触れる紅茶が熱いか、まだなんとか飲めそうかのぎりぎりのラインを歩くときのなまえの顔は眉間にひどい皺が寄っていて、きれいともかわいらしいともいう言葉からは程遠い顔をしているに違いないが、それさえもすきなおんなだからという最もらしい理由でそれすらもひっくるめて可愛いと思うので恋やら愛やらというものはひどく厄介なものだと思う。なまえの、シルバーの上のほうが、指から浮いて見える。彼女の指の先の方から見ればきっと、向こう側の景色さえ見えてしまうんだろうと思うと、いたたまれなくなって、思わず自分のコーヒーに口をつけた。「ちょうどよい」「飲め飲め」口の中に広がるブラックコーヒーの苦味が、何時も飲んでいるコーヒーだというのに今日は一際苦い味がした。

「この後暇なら買い物付き合ってよ」
「何探してんだ」
「昨日壊れたドライヤー買いたい」

クリスマスのセールが終わった後に壊れちゃうからさあ、となまえは困ったように笑って言った。「災難だな」「昨日壊れて自然乾燥させたけどさあ……」そう言ったなまえの髪の毛をジッと見てみるが、あまり普段と大差ないように思う。「……変?」「いつもと違うか?」「お世辞でも可愛いって言ってよ」「いつも可愛い」「タラシ」「自分で言ったくせによく言うわ」「それより聞いてよ。セールまで我慢しようと思ったんだけど、昨日夕方にお風呂入って六時間くらいかけて自然乾燥させたらやっぱりドライヤー要るって思って」話を戻しゲンナリした顔でそう言うので、なまえにとってドライヤーというものは次のセールまでに待つことができないほどのものであるということはとてもよくわかった。今日は非番だし、特にこれから出かけることに不都合は無い。

「隣町のとこ、あそこにデカい家電量販店あるだろ」
「行きたい」
「行くか」
「やったー。朝に洸太郎から連絡来た時に行きたいなって思ったからうれしい」
「おう」

なまえは、カップの中身を一気に飲み干した。己が口をつけているコーヒーもすっかり冷めてしまって、熱かった時よりもずっと味が落ちているように思う。己が、コーヒーを飲み切るのを待っているのか、なまえの指先が、空になったカップで遊んでいる。彼女の指先が動くたびに、ゆらゆらとシルバーが揺れたのを見て、己も彼女と同じように、カップの中身を一気に飲み干した。「行くか」「うん」空になったカップを、なまえのぶんまで持ってごみ箱の中に捨てた。カフェテリアを抜け、外に続くドアを開ければ、つめたい風が音を立てて吹いて、己の首元を冷やした。「さむ」なまえが、首を小さくしてマフラーの中に顔の半分を埋めた。そこまでやると今度は呼吸ができなくなりそうだとか、そういうことを思いながら、なまえの左手を取った。

「はずかしいよ」
「誰も見てねえだろ」
「そうかな」
「そうだろ」

 シルバーの指輪というものは、苦い味がするのだと思う。できればもう二度と、思い出したくないと思うくらい。どうしても忘れることができないのは、おんなの左手を握るたびに、浮いた指輪が己とおんなの手の間でころがるからである。シルバーが、おんなの手と己の手の間でころころと転がるたびにそれは、口の中に苦い味をもたらすのである。
0000-00-00