小説

あの花

 「どうして教えてくれなかったんです」そう彼女はほんの少しだけ残念そうな顔をしていた。机の上に詰みあがった仕事が七割程片付いた頃──太陽がうっすらと西に傾き始め、窓の外から差し込んでくる西日が眩しい──休憩をしようと椅子の上で伸びをしたあとで、彼女はわたしにそう問い詰めるように言った。私が彼女に話していないことは沢山ある。麒麟の血が流れていること、それから、まだ私が子どもだったころの少しだけ恥ずかしい話──心当たりのあることを考えれば考えるほどキリが無く、彼女が今、私にその言葉を言った意味を聞こうとして、彼女に言ったことのない自分の少しだけ打ち明けるのが恥ずかしい話を言ってしまい墓穴を掘るのはもっと嫌だったので黙り込むことしかできなかった。「……私が、あなたに?」ほんのわずかな時間、無難な言葉をひねり出そうとしてようやく出せた言葉がそれだった。彼女はあからさまに機嫌が悪そうな態度をとった。彼女が私に対してあからさまに機嫌が悪そうな態度を取るのは、彼女がわざとそう振る舞っているだけである。だから、彼女の機嫌を本当に損ねているわけではないということを私はよく知っているので焦ることは無い。彼女が目に見えて口先をとがらせているのを、こちらもあえて困ったような表情を作って見ていると、「……別に怒ってはいません」と彼女はそっぽを向いて言った。

「甘雨さまは肝心なことをいつも教えてくれないんです」
「そんなことは……」
「この間だって、わたしにだって手伝える仕事があったのにすべてひとりで抱え込んでいたではないですか」
「……それは、あなたの子の誕生日だったから、早く家に帰ってもらいたくて」
「今日だってそうです」

彼女は人の話を少しも聞かずに続けた。

「甘雨さまのお誕生日だったのに、甘雨さまは誰にも教えてくれなかったんです」

誕生日。その言葉を反芻するように口に出した。彼女は「ええ、そうです。甘雨さまのお誕生日です」そう、復唱するように彼女は言った。私の誕生日の話をされたのは、璃月という街で璃月七星の秘書として仕事をし始めてから百年ほどが過ぎた年の自分の誕生日──つまり、今日が初めてのことだった。確かに、私は自分の誕生日の話を誰かに打ち明けたことは無かったし、その必要もないと思っていた。だから、彼女の口から誕生日という単語が出てきたことに拍子抜けしてしまった。目の前の彼女が何故、どこで私の誕生日を知ったのかは分からなかった。「どうしてそれを」そう彼女に問えば、彼女は「そんなこと、どうだっていいんです」と跳ね除けるように言った。真相は闇の中、彼女の口ぶりからは、私の誕生日を知った理由は教えてもらえないだろう。二人そろって黙り込んでしまえば、居心地の悪い沈黙が流れる。その沈黙に耐えられず、目の前の書類に手を出した時、彼女の方から小さなため息が聞こえた。



 仕事がひと段落する頃には、太陽はすっかり西の彼方に沈み、璃月の街には灯がともり、賑やかな夜が始まりかけていた。帰り支度をすっかり終えた彼女は、「甘雨さま、お時間よろしいですか」と言った。「はい」そう答えると、彼女は少しだけほっとしたような顔をして、「それでは行きましょう」と言った。

「どこへ?」
「教えられません」
「はあ……」

賑わう璃月の街を二人で歩く。飲食店で飲み食いをする街のひとびとや、講談を聞くひとびとの姿、誰もかれもが皆楽しそうに過ごしている。璃月という街は平和だった。「少し急ぎます」そう言って早足で歩く彼女の後を追いかけた先に見えたのは、花売りの店だった。「まだやっていますか」そう彼女が言うと、花売りは「もうすぐ閉めるところだよ」と言った。「間に合って良かった」そう彼女は言った。

「誕生日プレゼントを選びに来たんです。でもわたし、花のことをあまりよく知りません」

店頭に並ぶ花を一通り眺めた後で、彼女はそう言った。彼女の口から花の話を聞いたことは、今まで一度たりとも無い。花について書かれた本を、さして興味がなさそうな顔をして眺めているのを見た時に、彼女は多分花に興味が無いのだろうと思い少しだけ驚いてしまったことを思い出した。彼女にとって花は食べるものではなく、見るものだからあまり興味が無いのだろうということに気づいたのは、少し後になってからのことだった。「花についてよく知らない人が選んだ花でも喜ばれると思いますか?」そう、彼女は花屋に聞いた。誕生日プレゼントに花を贈る、そう彼女は言った。花のことをよく知らないから、私を誘ってこの場所に連れてきたのだろう。花屋は「喜ばれますよ、きっと」と言ったし、「もちろんです」と私も同じことを言った。「そうですか。ならよかったです」そう言って、彼女は花を上から下まで眺めた。すべての花を指さして、花のことを聞かれるのかと思っていたがそんなことは無かったので拍子抜けしてしまった。暫く花を眺めていた彼女の視線が一輪の花の前で止まった。冬の碓氷で花びらを染めたような花だった。この花は見た目はとても甘い味がしそうであるにも関わらず、口に入れると苦みが一気に広がる花だった。彼女の視線の先にある花を見た花屋が、「この花は山の方でひっそりとひとりで咲いていた花なんです。最近は街中でも栽培できるようになったんですよ。花束に入れると花を良く引き立ててくれるんです」と言った。彼女はその話をさして興味がなさそうな顔をして聞いていた。「この花を一輪で買うことはありませんか?」「あまり見ませんね」そのような会話をした後で、彼女は少しだけ考え込むようなそぶりを見せた。「決めました。この花を一輪ください。プレゼント用で」そう彼女はきっぱりと言い切ってしまった。花屋はそれを聞いて困惑していたけれども、客の注文に対して何も言わずに一輪の花を丁寧に包んだ。花屋にお金を払った後で、彼女は「甘雨さま」とわたしの名前を呼んで、包まれたばかりの一輪の花を渡した。

「お誕生日おめでとうございます」
「これを私に?」
「はい。わたしはこの花が甘雨さまに似合うと思いました」

彼女はそう言った。山でひっそりとひとりで咲いていたという花、苦みの強いこの花がわたしに似合うと言うのは、彼女の目にはわたしがそのように映っているということなのかもしれない。人と麒麟の間で、人の世界にも上手く馴染めていないようなわたしのことを、彼女は見抜いていたのだろうか。そう思うと急に胸が苦しくなってしまった。皮肉にも、この花の味と同じであることが余計に私の胸を苦しめた。贈られた花は、わたしの気持ちなど少しも知らないで、夜空に向かってのびのびと花びらを広げている。この花の碓氷色の花びらは、この世界に馴染めていないわたしの姿を映しているようにも見えた。花を贈られた相手はきっと喜んでくれるだろう、そう心の底から思ったのにも関わらず、そうならなかったことを彼女に言うことなど当然出来るわけも無かった。私は、「ありがとうございます」そう、彼女に向かって作り笑顔を浮かべて言うので精いっぱいだった。「花屋でこの花を見つけた時に、これだって思ったんです」彼女はわたしの考えていることなど全く気づかないまま、話を続けた。

「色合いが甘雨さまに似合うと思ったんです。最初はそれだけだったのですが……どの花束にも似合う花と聞いてわたしは絶対にこの花だと確信しました。どの花束にも無くてはならないのだから、璃月という国に無くてはならない甘雨さまと同じでしょう。今日は甘雨さまのお誕生日だから、この花で花束を作るのは絶対にしたくなかったんです。だって、主役はこの花ですから」

彼女はそう、照れくさそうな顔をして言った。彼女の目には、この花がそのように映っていて、私に似合うと言ったのはそういう意味だったのかと思うと胸がじわじわと熱を持ち始めた。そうして、自分の視界がだんだん涙で濡れて、花の輪郭が溶けていく。「甘雨さま?」わたしがすっかり黙り込んでいると、彼女がそう、私の名前を呼んだ。「なぜ泣いているんです」彼女は焦ったように、わたしにハンカチを差し出した。そうして、彼女は「嫌でしたか」とそう私に問うた。「いえ……いいえ、私はとてもうれしいです」そう、彼女の言葉を否定するように言うと、彼女は心底ほっとしているようだった。



「甘雨さま、一体何を?」
「花の種を植えています」

何千年もの時間が過ぎ、璃月という国は大きな変化を遂げた。時が過ぎ、璃月七星も、秘書たちも世代を変えた。岩神を見送り、新たな時代が始まったが、璃月という街は今日も平和で、人々が思い思いの暮らしをしている。仕事は相変わらず山のようにある仕事だけは昔とあまり変わっていないように思う。私は、自室の窓際に置いた小さな鉢植えに、今年も花の種を植えた。上手くいけば、十二月を迎える頃には一輪だけ花が咲くだろう。私と一緒に仕事をする同僚たちが、私の小さな鉢植えを眺めた後で「何を植えたのですか?」と問うてきた。私が答えるよりも先に、私とこの仕事を長く続けている同僚が「甘雨さまは毎年、この時期になると花を植えていますよね」と言った。「はい、毎年植えています。碓氷色で花びらを染めたような花が咲くんです」そう言うと、何を植えたのかを問うた同僚は考え込むようなそぶりを見せた後で、私が種を植えた花の名前を言った。「はい。その花です」私がそう答えると、同僚は不思議そうな顔をしていた。観賞用の花として植えるのであれば、もっと派手に咲く花を植えるだろうし、食べるために植える花であれば、甘いスイートフラワーを植えた方が良いということをきっと彼女はよく知っているのだろう。それらのことを考えたうえで、彼女は「珍しいですね」と私に言った。

「随分前に贈り物で貰って嬉しかったのが忘れられなくて」

そう私が言うと、彼女たちは揃って顔を見合わせた後で、「甘雨さまはその花が好きなんですね」と言った。わたしは「はい!」と彼女たちの言葉にそう、言い切った。何千年も昔、この花を贈った彼女はその後、私が毎年この花を、自分の誕生日の日に咲くように育てているのを見ては少しだけ照れくさそうにしていたことを思い出しながら、私は今年もこの花が咲くのを待ち遠しく思うのである。
2021-12-19