小説

別離

#年齢操作があります
#捏造が含まれます

 日曜日の昼下がり、雲一つない青空ははるか遠くまで広がり、今日も穏やかな風が吹いていた。アカツキワイナリー、その屋敷の部屋掃除は、メイドの仕事のうちのひとつであった。この屋敷の奥さまの部屋の掃除は、新米メイドであるわたしに割り当てられた主な仕事だった。箒とモップを持ったわたしが奥さまの部屋の前へと向かった時、奥さまの部屋の扉の前に白髪交じりの赤毛の男性が立っていた。この屋敷の主人でもある旦那さまの姿だった。旦那さまは仕事で忙しくしていることが多く、自室に篭っていることが多いので、こうして外に出てくるところを見るのは、食事の時間に部屋から出てくる時に見かける程度で、実のところ、わたしはあまり旦那さまの姿を見ることもなければお話をしたことも無かった。「旦那さま、こんにちは」そう、わたしが旦那さまに挨拶をすると、旦那さまはわたしの方を向いて、「ああ……」と言った後で、挨拶を返してくれた。

「今から掃除を?」
「はい」
「この部屋の掃除は僕がやるから、君はやらなくていい」

旦那さまは掃除道具を持ったわたしを見て、そう言った。わたしは自分の仕事を、雇い主でもある旦那さまにやらせるわけにはいかないと思い、「いえ!わたしがやりますから、旦那さまは休んでください」と旦那さまに口を出してしまったあとで、自分のあやまちに気づいてしまった。主人の言うことに逆らってはならないと、メイド長に口酸っぱく言われていたのにもかかわらず、わたしはこうして主人に生意気な口をきいてしまったのだ。わたしが慌てて自分の手を口で覆い、旦那さまに謝罪の言葉を述べたのであるが、旦那さまはわたしの言葉に対して、穏やかな口調で「きみの仕事なのは承知している。でもこれは、僕がやりたい」と言った。「申し訳ありません」そう、もう一度旦那さまに謝罪すると、旦那さまは「気にしないでくれ」と言った。途方に暮れたわたしが部屋の扉の前で立ち尽くしているのを横目に、旦那さまは奥さまの部屋の扉を開けた。奥さまの部屋の中に足を踏み入れた旦那さまが、わたしの方を振り返り「君が良ければ、僕の話し相手になってくれないか」と言った。「はい」そう、元気よく返事をすると、旦那さまは「ありがとう」と言った。カーテンが閉めきられた部屋は、真昼だというのに真っ暗だった。「暗いな」そう旦那さまが言うのを聞いて、わたしは部屋のカーテンを開けようとしたのであるが、この部屋の掃除をしたいと旦那さまが言ったことを思い出して、思いとどまった。窓際に向かってゆったりとした足どりで歩いた旦那さまが、豪快にカーテンを開けた。急に差し込んできた陽光に、わたしは目を細めてしまった。光に目が慣れたころ、窓の外には、青々とした葡萄畑が広がり、太陽の光が燦燦と降り注いでいるのが見える。暗かった部屋は、窓から差し込む太陽の光のおかげで、すっかり明るくなった。

「今日もいいお天気ですね」
「ああ」
「こんな日は気持ちよくお昼寝が出来そうですね」
「僕もそう思うよ。きっと、なまえも同じことを言っただろうな」
「……すみません」
「構わない。僕がなまえの話をしたかっただけだ。君が僕に気を遣うことはないよ」

 奥さまが空の果てへ旅立ったのは、つい一週間ほど前のことだった。その日も、今日のような雲一つないよく晴れた、太陽の光が気持ちよい日のことだった。その日の朝、旦那さまと一緒に朝食をとったのちに、奥さまは「今日もおいしかったです」と丁寧にお礼の言葉を述べて、旦那さまとふたり連れ立って、奥さまの自室へと戻る姿を見たのが、わたしが見た生前の奥さまの最後の姿になってしまった。部屋の窓からワイナリーの外を飛ぶ蝶々のすがたを眺め、小鳥のさえずりに耳を傾けたのちに、窓から差し込む暖かい光を浴びた奥さまは、「今日のような日はゆっくりお昼寝がしたくなりますね」と穏やかな笑みを浮かべて旦那さまにそう言い、旦那さまは「今日は休みの日だからゆっくり休もう」と言って奥様をベッドに寝かせたのだという。横になった奥さまは、窓から差し込む暖かい太陽の光を目を細めて眺めたのちに、「ほんの少しだけ、眠らせてください」と旦那さまに伝え、旦那さまの手を握り、おやすみなさいの挨拶をした後でしずかに眠りについた。ほんの少しの昼寝をするように、ベッドの中で瞳を閉じた奥さまの目が開くことは二度となかった。毎日の些細なおはようございますと、おやすみなさいの挨拶をするように、奥様は旦那さまに挨拶をして長い長い眠りについたのだという。

「今日こそなまえの部屋を片付けようと思ってね」

旦那さまはそう、奥さまの居なくなった部屋をぐるりと見渡したあとにそう言った。「本当はもっと早くにやろうと思っていたんだが、仕事が……いや、違うな」旦那さまは一度言葉を切って、少し考え込むようなそぶりを見せて再び口を開いた。

「仕事を理由にして、なまえの死と向き合うのを避けていただけだ」
「奥さまとのお別れを?」
「ああ」
「……」
なまえとの別れの始末をつけるのは、残された僕がやらなければならないことだろう。なまえの私物の整理も、僕がやらなければならないことだ」

旦那さまはそう言った。そうして、奥さまの部屋を眺める。奥さまの部屋に置かれている物の数は、随分と少なかった。小さな本棚が、部屋の壁際に一つと、奥さまが使っていたドレッサーの上に、小さな化粧箱とジュエリーボックスが置かれているだけであった。もしかしたら、わたしが間借りしているこの屋敷の私室の方が、荷物が多いかもしれない。旦那さまは壁際の本棚を眺めたのちに、ドレッサーを眺め、「少ないな」と言った。

「女性は荷物が多いと言うだろう」
「はい」
なまえの私物はこれだけなのか」
「お掃除で部屋に入ることはありましたが、奥さまのお部屋は生前から変わっていないはずです」
「……そうだろうな」

なまえはあまり物を持ちたがらなかった、と旦那さまは言った。旦那さまが壁際の本棚のところへと向かう。わたしの背丈の半分もないくらいの、背の低い小さな本棚の中に収められた本の背表紙を上から下まで眺めたあとで、旦那さまはため息を吐いた。「どうかなさいましたか」そう問えば、旦那さまは「……見覚えのある本しか無くてね」と言った。

「これは新婚旅行先で出かけた国で僕が買った本、あれは僕が璃月に出かけた時に買った本、これもそうだ……」
「この本はすべて旦那さまが買われたものなのですか?」
「ああ。なまえが自分で買った本は一冊も入ってないな」

旦那さまが本棚から一冊の本を取り出した。テイワット観光ガイド・モンド編と書かれた本は、随分と年季が入っているように見える。冒険者協会が今も発行しているこの本のことを、読んだことはないけれども存在は知っていた。本が随分とボロボロになっているところから、もしかしたら、奥さまが気に入って読んでいた本なのかもしれない。旦那さまは本をパラパラと捲り、考え込むようなそぶりを見せた後でため息を吐いた。

なまえがまだ君くらい若い頃の話だ」
「奥さまの?」
「ああ……この本を読んだ後に急に冒険に行きたいと言い出して、ピクニックにでも出かけるような荷物を持ってひとりでモンド城から飛び出していってしまった」
「えっ!」

モンド城の外は危険でいっぱいだ。ヒルチャールたちの集落もあるし、スライムだって多く居るというのは、モンドに住む人であれば知っているはずだった。戦う術を持たない非力な人間は、護衛を雇うことがあるくらいである。「奥さまには武術の心得が?」そうわたしが旦那さまに問うと、旦那さまは黙って首を横に振った。

「慌てて連れ戻しに行って見れば、ヒルチャールの集落の目と鼻の先でね。肝が冷えた」

わたしが普段屋敷でみたことのある奥さまは、穏やかな笑みを浮かべて大人しくしていることのほうが多かった。そのため、旦那さまの口から出てくる奥さまの話はにわかに信じがたかった。旦那さまは、過去を懐かしむような表情を浮かべながら「僕も大人げなかったが……『旅に出たいなら僕より強くなってから行け』と言って泣かせたこともある。それくらいやらないと言うことを聞いてくれなくてね」と言った。奥さまに対して感情的になる旦那さまというのも、わたしには想像できなかった。わたしの知る旦那さまは、落ち着いているところしか見たことが無かったからだ。「なまえが若い頃は随分お転婆でね、僕は随分悩まされたよ」君は歳をとったなまえしか知らないだろうから、想像がつかないかもしれないけれど、と旦那さまは続ける。彼の言う通り、わたしにはお転婆な奥さまというのも想像できなければ、旦那さまが気を揉んでいたことも想像できなかった。わたしが「はあ……」と相槌を打つ間にも、旦那さまはテイワット観光ガイドのページをパラパラと捲っていた。すると、本の隙間から一枚の紙が床に滑り落ちた。旦那さまはそれを拾い上げ、眺めたのちに「懐かしいな」と言った。「どうかなさいましたか」そうわたしが問うと、旦那さまは「なんでもないよ」と言った。そうして、紙を隠すように、本の中に片付けようとする。わたしが、彼の手元を見ていたせいか、旦那さまは渋々と言った顔で「……君も見るか」と問うてきた。旦那さまが渋い顔をしている理由が気になって仕方がなかったので、わたしは食い気味に「はい」と答えると、旦那さまが一枚の紙をわたしに渡した。随分年季の入った白い紙を裏返すと、そこには若い赤毛の男性と、若い女性が腕を組んでいる姿があった。仏頂面の男性と対照的に、女性は大きなジョッキを持って満面の笑みを浮かべている。随分年季の入った写真だった。

「これは……」
「僕となまえ、結婚式前日の写真だな」
「旦那さまと奥さまですか」
「ああ。こんな形で残るなら、もっとマシな写り方をしておけばよかった」

まさか僕がなまえと結婚するとは夢にも思わなかった、そう旦那さまは言った。「もし結婚するなら、聡明な女性が良いと思っていた」そう、旦那さまは続けていった。「でも僕が結婚したいと思ったのはなまえだった」そう、過去を思い出すように、遠くを見るような顔をして、旦那さまはわたしの持っている写真を見ながら言った。

「僕は取柄は元気くらいで考えなしに突っ込んでいくような鉄砲玉みたいな女性が好みと言うわけではない」
「……」
「でも僕が愛した人はそういう女だった。人生何が起きるか分からないものだな」

わたしが旦那さまに写真を返すと、旦那さまは写真を本の中に挟んで本棚の中に片づけてしまった。「この本棚は僕の部屋にそのまま持って行こう」そう旦那さまは言った。小さいとは言え、本が入っている本棚は随分重いだろうと思い、「差し出がましいかもしれませんが、お手伝いします」と手伝いを申し出た。旦那さまは「気持ちだけ受け取っておく」と言い、本棚を抱えて奥さまの部屋から出て旦那さまの部屋へと行ってしまった。旦那さまが重そうな本棚を、軽いものを持つように持ち上げて行ってしまうとは思わなかったので呆気に取られてしまったが、旦那さまが若いころは重い大剣を振り回していたという話を以前聞いたことを思い出して、今の旦那さまからはにわかに想像しがたいが、本当の話だったのかもしれないと思った。この場面で納得することになるとは思わなかった。わたしが呆気に取られているうちに、本棚を自室に持って行った旦那さまが奥様の部屋へと戻ってきた。「それを借りてもいいかな」旦那さまは、わたしが持っていたモップを指さして言った。「どうぞ」「ありがとう」わたしからモップを受け取った旦那さまは、本棚が置かれていた場所の綿埃を掃除した。本来であれば、わたしの仕事でもある部屋の掃除をする旦那さまの姿というものを初めて見る。わたしの仕事をする旦那さまをただ見ているだけというのは、ひどく落ち着かないものであったけれども、旦那さまがやると言うことに対して横から口を挟むわけもいかずに黙って見ていることしかできなかった。旦那さまは床を掃除した後、奥さまの最後の私物でもあるドレッサーの前に立った。鏡に映る旦那さまの表情はひどく穏やかだった。ドレッサーの上に置かれた細かい化粧品がいくつかと、ジュエリーボックスの中に、丁寧に片づけられた一組のアクセサリーだけがあった。「これだけですか」そう、思わずわたしがそう言うと、旦那さまは「そうみたいだな」と言った。「どれも見覚えのあるものしかない」そう、旦那さまは言った。旦那さまはジュエリーボックスの中身を眺めたのちにため息を吐いた。

なまえはあまりアクセサリーを好まなくてね」
「そうだったのですか」
「これはなまえと結婚する三年前、彼女の誕生日に贈ったものだ」

奥さまのジュエリーボックスの中に片づけられていたアクセサリーは、随分年季の入ったものであるのにも関わらず、まるで新品のように輝いていた。随分丁寧に手入れをしていたということは、わたしのような素人の目から見ても明らかだった。

「僕は彼女がアクセサリーを好きだと思っていたんだ」
「どうしてそう思ったのですか?」
「モンドのジュエリーショップを眺めているときのなまえの表情を見れば、きっと好きだろうと」
「成程。奥さまは喜ばれなかったのですか?」
「貰ってすぐは嬉しそうにしていたよ。でも身に着けているところを見たことが無くてね。なくしてしまうのが怖いからと言って、箱の中に片づけてそれっきりだ」

「仕事の都合でパーティーに出かけなければならないときがあるだろう。なまえに同行を頼むたびに毎回アクセサリーを付けるようにと当時のメイド長と僕とで毎回長い時間説得したな」そう語る旦那さまの口ぶりから、奥さまに困らされていたのだろうということは想像出来たけれども、それすら愛おしいことのように語るところから、旦那さまは奥さまのそういうところも好んでいたのだろうということは想像に易かった。「なくしたらまた買えばいいと言っても無駄だった。『あの年の誕生日プレゼントにディルックから貰ったアクセサリーはこれしかないから』と言って聞いてくれなかったし、別の年の誕生日に新しいアクセサリーを贈ろうとしたけれども、もう持っているから要らないと言って買わせてすらくれなかった。どんなに説得しても無駄だったから、僕が折れてしまった」旦那さまはそう続けてわたしに言った。

なまえの私物がどうしてこんなに少ないと思う?」
「……なくしてしまうから物を買わなかったから、ですか?」
「いや。死んだあとに全部持っていけないから要らない、と」

そう、旦那さまは持ち主のいなくなったジュエリーボックスを眺めてそう言った。たしかに、奥さまの言うことは正しい。死んでしまった後に、貰ったものを使うことは出来ないし、持って空の世界へと旅立つこともできない。「僕は欲しいものがあったら言ってくれと言ったんだが、彼女は結局何も欲しがらなかった。あまりに物を欲しがらないから彼女に聞いたら、そう言われてしまった」旦那さまは、奥さまにそう言われてしまってから、彼女に言うのを止めてしまったのだという。「なまえは頑固なところがあるから、一度言い出したらなかなか曲げないからね。説得するのも骨が折れるよ」そう、旦那さまはほとほと困り果てたような口調でそう言いはしているけれども、その口ぶりがどこか嬉しそうにも聞こえた。しかしながら、流石にそれは余計なことだと思ったので何も言わなかった。旦那さまは、「これも僕の部屋に持って行こう」と言ってジュエリーボックスと化粧品の入った瓶を持った。「それとも君が使うか?」そう、わたしに旦那さまは言ってくれたけれども、恐れ多すぎたので遠慮してしまった。旦那さまはそんなわたしの様子を見て「そうか」とだけ言った。旦那さまは少ない奥さまの私物を持ち、再び窓際へと歩いた。窓の外には、変わらない葡萄畑が広がり、蝶々が優雅に飛んでいる姿が見え、青々とした空が果てまで広がっている。「本当にいい天気ですね」わたしがそう言うと、旦那さまは頷いた。

「……僕となまえは結婚するときに、死ぬときに二度と顔を見たくなくなるくらい一緒に居ようという話をした」

旦那さまは神の目を持っている。神になる資格を持ち、死後、天空の島へと昇る資格をもっている。しかしながら、奥さまは神の目を持たなかった。神の言い伝えが本当のことであるのであれば、死が二人を分かつとき、それがふたりの永遠の別れとなってしまうということを、ふたりはきっと知っていたのだろう。もう二度と会いたくなくなるように、今世きりで最後で良いと思うくらい悔いのないように一緒に居ようと旦那さまと奥さまの二人が話していたというのは、なんとなく彼ららしいと思ってしまった。わたしは、自分の主人のことをあまりよく知らないけれども、旦那さまの語る奥さまの話を聞くほどに旦那さまは奥さまのことを愛していたと思うし、旦那さまの口ぶりで語られる奥さまの話だけでも、奥さまも旦那さまのことをきっと愛していたのだろうと思う。

なまえが死んだ今、僕は彼女が死んで清々したと思えないし、もっと長く一緒に居れればと思うくらいだ」
「……」
「これをなまえに言ったら叱られるかもしれないな。『約束が違う』と怒りだすところまで想像できる」
「はい」
「これは、君と僕だけの内緒の話にしてくれないか。これは、なまえにも言えないことだ」
「……分かりました」

旦那さまはそう言って、黙ってしまった。部屋の主が居なくなってしまったこの部屋で、口を開く人間が一人もいなくなってしまえば沈黙だけが流れる。暫く黙っていた旦那さまが、口を開いた。

「静かだな」
「……はい」
「僕はなまえがこの屋敷に来る前、ここが静かであることを知っていたはずなのに、この何十年の間にそれをすっかり忘れてしまっていたみたいだ」

旦那さまはそう言って、奥さまの部屋を後にした。「付き合ってくれてありがとう」そう言って、旦那さまはひとりゆったりとした足取りで私室へと戻って行ってしまった。わたしは、すっかり静かになってしまった奥さまの部屋でひとり、窓から外の景色を眺めながら旦那さまとの話を思い出していた。青々とした空は変わらず遠くまで広がり、穏やかな風が吹いている。ほんの少しだけ西の方に傾いた太陽が、眼下に広がる葡萄畑を燦燦と照らしている。奥さまのみた最後の景色のことを想いながら、わたしはひとり窓の外を眺めていた。
2021-11-28