小説

水面

 「こんな辺鄙の村に旅をしに来るなんて、物好きですね」そう思わず口に出してしまったのを聞いた旅人はカラカラと笑っていた。テイワット大陸の中でも一年を通して温暖で過ごしやすいと言われているこの国で最も栄えている都市から最も遠く離れた場所に、わたしの住む村はある。この村は、この国の中で最も田舎村だといっても間違いではないはずだ。わたしはこの村から外に出たことはないけれども、この村よりも田舎にある村の存在を、地図の上でも見たことはなかった。この村には、外から人がやってくることは殆どない。外の人間がこの村に入るためには、村の目と鼻の先にある、この国の中で最も高い山を越えてこなければならないし、その山を無理に越えたところで、この村にはめぼしい産業も、宝も何もない。だから、商機を狙った商人が来ることも無ければ、宝盗団の人間が来ることもない。この村に来るのは、山から下りてきてしまった猪か、目の前の山を越えてくる物好きな冒険家の人がごく稀にやってくる程度で、人の数よりも迷い込んでくる動物の数の方が多い。この村は、酷く静かで穏やかだった。武力を持った村人が一人もいないのにも関わらず、この村は村の形を維持出来ている。目の前の山がなければ、きっとこの村は早くに滅びていたもしれないし、もしこの村にめぼしいものがあったのであれば、この山があるとはいえ、宝盗団に攻め入られて廃墟となっていただろう。この村が、村としてうまくやっていけているのは神様の加護があるおかげだと村長は言うけれども、この村での暮らしは決して豊かであるとは言えなかったので、この国の神様というものは、わたしたちに随分質素な生活を望むものだと思っていた。そんな、何もない村に、”外の人”がやってきた。明るい茶髪の、細身の若い男の人だった。彼の涼しげな顔立ちというものが、この国の人間の顔立ちと異なるものだったからなのか、この村の中では随分浮いていた。外からやってくる冒険家というものは皆、この村には全く馴染まないものであったが、彼は今まで見かけた冒険家たちとも一線を画していた。彼が纏うどこか殺伐とした空気の冷たさから来るものなのかは分からないが、やってきた旅人が明らかにわたしたちのような人間とは違う人であることは、素人目にもはっきりと分かった。この村にやって来る冒険家という者は、目の前の大きな山に挑戦するせいか、旅慣れていてそれなりに年を取っている人が多い。だから、今回やってきた”外の人”が、わたしが見たことのある冒険家よりもずっと若い男の人であったことも理由の一つなのかもしれない。彼は、この村を目を細めて眺めた後、家の前に立っていたわたしの方を向いて、声をかけてきた。「泊まれるところを探しているんだけど、君、知らない?」そう話しかけてくる旅人に、「この村に宿はありませんので、村長のところに案内します」とわたしが答えると、彼は不思議そうな顔をしたあとに「ありがとう」と言った。この村にやってくる旅人は皆、この村に宿が無いことを言うといつも驚いたような顔をする。他の村にはもしかしたら、見るところも沢山あって、観光業で生計を立てることが出来るのからそのような産業があるのかもしれない。しかしながら、外からくる人間が殆どいないこの村でそのような産業は立ち行かないので、宿というものを営業しようと思う人はいなかった。誰もが皆、農耕や動物の狩猟で細々と暮らしている。今回の旅人も、かつてこの村を訪れた旅人と同じような反応を見せたことに驚かなかった。

「案内します」
「ありがとう。悪いね」
「いえ」

わたしは旅人を連れてこの村の中で一番大きな家に向かって歩いた。この村の人間たちが、わたしの連れている旅人をちらりと見ては、彼と視線が合いそうになるとそっと目をそらすようなことをしている。村民たちが旅人に向ける視線には、好奇を含むものもあれば、畏怖を含むものもあった。それは、この村の前にある大きな山を越えてやってきたということから、この旅人がただものではないと悟っているのかもしれない。この村の人間が、外の人間に向ける視線というものは、いつもそうだった。それらを横目に見たあとで、わたしは旅人の顔を盗み見た。くらい色をした旅人の目は、この村人たちから向けられる視線というものを気にするどころか、彼らの存在すらもこのあたりに漂っている空気のようにしか思っていないようにも見えた。わたしの見たことのある冒険家の人間たちは、この異質な人々の視線に対してぎょっとしていることが多かったので、彼のように全くといっていいほど気にしていないような顔をされると逆に驚いてしまう。ただ、彼がそれを思っていても表情に出していないだけなのかもしれないが、彼の表情からは何も読み取れなかった。わたしは、この村の人間の視線に晒されて居心地の悪い思いをしないよう、旅人の気を引くために話しかけた。「あの山をひとりで越えて来たんですか?」そうわたしが彼に話しかけると、この村を眺めていた彼の目が、わたしの方を向いて「そうだよ」と答えた。「あの山を越えて来る人はたまにいるんです。でも、あなたのような若い人は初めて見ました」わたしがそう彼に言うと、彼は「へえ」と含みを持ったような声音で相槌を打っていた。

「この村には何日滞在されるのですか」
「まだ決めてないけど、三日くらいかな。君の村の人が許してくれたら、だけど」

そう彼は言った。彼の口ぶりから、彼自身がこの村の人間からあまり歓迎されていないように受け取ったようだった。「すみません。歓迎していないわけではないんです。外から人が来ることがあまりないので、皆珍しく思っているんです」そうわたしが彼に言うと、彼は「いいよ、慣れてる」と言った。彼がどんなところを今まで旅してきたのかは分からないけれども、この村の閉鎖的な空気に対してそう答えるということは、この村のような場所にも沢山訪れたのだろうか。宿の代わりとして村長の屋敷に彼を連れて行った別れ際、屋敷に入ろうとする彼に「何もない村ですけど、ゆっくり休んで行ってください」と言えば、彼は「ありがとう」と言って屋敷の中に消えて行ってしまった。



 村の喧騒から離れたところに、旅人はいた。村の東の端から西の端に向かって流れる川のほとりで、旅人はひとり川の水の中に釣り糸を垂らしていた。旅人の釣りの邪魔をしないように、足音を出来るだけ立てないように歩いたはずだったのに、彼はわたしの存在に気づいていたらしい。わたしの方を横目で見て、「やあ」と人好きのするような笑みを浮かべてそう挨拶をしてくれた。「こんにちは。昨晩はよく眠れましたか?」そうわたしが問えば、旅人は「ああ」と答えた。わたしが、彼の釣りの様子を眺めていると、旅人は「座りなよ」と言った。「隣、失礼します」彼の隣にある大きな岩を椅子の代わりにして、わたしは腰を下ろした。彼は「どうぞ」と言い、わたしが腰を下ろしたのを眺めたのちにまた、釣り糸の先の方へと視線を戻してしまった。ここから見える川の水は、澄んでいる。透き通った水の中には、川底に小石が転がっているのが見えるばかりで、魚影はひとつも見当たらない。この川の中に、魚は一匹だっていないことをわたしは知っていながら、旅人に問うた。

「何か釣れましたか」
「釣れないよ」

わたしの質問に対して、旅人は間髪入れずにそう答えた。「この川に魚はいないからね」そうして、彼は誰の目にも分かり切っていることを答えた。

「楽しいですか?」
「ああ、悪くないね」

旅人の持っている釣り糸の先に、魚が掛かる気配は全く無いのにも関わらず、旅人はその釣れない釣りのことを悪くないというのであるが、わたしにはさっぱりわからなかった。わたしが怪訝そうな顔をしていたせいか、旅人は可笑しそうに笑っていた。「魚が釣れるかどうかなんて、俺にはどうでもいいんだよ」わたしの疑問に答えるように、旅人はそう言った。「釣り糸を垂らして魚を待っている間に、できることはたくさんある」そう、彼は言った。「できること?」そう聞き返すと彼は「例えば……」と暫く考え込むようなそぶりを見せた後で、口を開いた。

「そうだな、例えば旅の道中で宝盗団に遭ったとするだろ」
「はあ……」
「宝盗団を倒して切り抜けた後で、こうしているときにもっと上手くやれなかったかを考える」
「反省、ですか?」
「そうとも言うね。その間に魚が掛かれば万々歳だけど、別に掛からなくても損はしないだろ」
「魚が釣れていないのに?」
「ああ。宝盗団の切り抜け方だって一つじゃないだろ。戦って切り抜けるのは確かに早いし、戦い方だってもっといい方法があるかもしれない。でも、戦い以外の方法だってあるだろ?宝盗団と上手く交渉することだって出来たかもしれない。武器を使った鍛錬をすることはたしかに、強さに直結するけど、別のやり方を考えて整理することだって鍛錬の一つさ。魚は釣れなくても、自分の鍛錬になっているのだから、魚が釣れなくても俺は少しも損をしていない。むしろ、得をしていると言っても間違いじゃない」
「うーん……」
「なんだかよくわかってない顔をしているね?」
「魚釣りをするなら魚が釣れた方がいいんじゃないかって、わたしはそう思います」
「アハハ。確かに、魚が掛かった方が目に見えて得だね」
「はい。それに、わたしはあまり戦いのことがよくわかりませんから」
「そう?ここに住んでたら強さが必要になることだってあるだろ?」
「目の前の山のおかげで何も来ません。この村にはめぼしいものが無いから、宝盗団が来ることも無いんです。だから、この村の人間は狩猟は出来ても戦うことはできません」

わたしがそう言うと、旅人は「へえ」と言ったあとにほんの少しだけ考え込むような顔をして、「成程。家に武器がないわけだ」と言った。「村長の屋敷ですか?」そうわたしが問えば、彼は「そう」と言った。「旅人さんはこんなところにまで来れるのですから、お強いのですね」そうわたしが彼に言うと、彼はキョトンとした顔をしたあとに「そうだね」と言った。

「旅人さんは明日、出発されるんですよね」
「そうだね。そのつもりだよ」
「次はどちらに旅されるのですか?」
「時間があれば他の国に行っても良かったけど、俺は璃月に戻るよ。長くとった休暇ももう、終わってしまうからね」

「旅人さんは璃月の方だったのですね」そうわたしが言うと、旅人は「生まれはスネージナヤだけど、今は璃月に住んでる」と言った。仕事の都合で、スネージナヤからはるばる璃月の方に出てきて、今回旅に出るということでわたしの住む国の方までやってきたのだと言った。ただでさえ、璃月からこの国の都市部までの距離が遠いだけでなく、この国の都市部からさらに山を越え田舎村であるこの村までひとりでやってきたというこの旅人は、もしかしたらとんでもない人なのかもしれない。「璃月から来られたのですか。随分遠かったでしょう」そうわたしが分かり切ったことを言うと、彼は「近くはないね」と言った。璃月という、このテイワット大陸の中で最も栄えていると言っても過言ではない都市から、国をまたいでこんな田舎村までやってきた彼の考えが、わたしには全く分からなくなってしまった。この旅でこの村に来て彼にとっての収穫があったのかを問おうとしたけれども、それを問うのはやめてしまった。彼の口から旅の価値を教えてもらったところで、彼の釣れない魚釣りと同様、それを理解できる自信が全く無かった。

「俺は昔、父親から冒険の話を聞いてね。俺もどこかに出かけてみたいと思っていたから今回の休暇で旅に出れて本当に良かったよ。璃月に戻ったら仕事が溜まっていると思うとうんざりするけどね」
「璃月では何を?」
「しがないおもちゃの売人さ」
「へえ、おもちゃ売り」
「子どもが焦がれるおもちゃを作るのが俺の仕事さ。夢のある仕事だろ?」
「はい。でも、意外でした」
「そう?」
「ええ。この山を越えてこれるお強い方ですから、璃月で兵士でもやっているのかと思いました」

そう彼に言うと、彼は可笑しそうに笑うだけだった。相変わらず、川の中に釣り糸は垂れたままで、その先端が水中に沈むことはなかった。相変わらず、川の中に魚影は一つも見当たらない。このまま、釣れない魚釣りをこの旅人はいつまでやるのだろうか。この旅人の旅がいずれ終わるように、彼の釣りもいずれ終わるのだろう。しかしながら、この旅人の魚釣りがいつ終わるのかわたしには見当がつかなかった。この旅人の口ぶりを聞くに、彼の魚釣りというものは、彼の瞑想が終わるまでは少なくとも続くだろうと思うし、その終わりが太陽が西の果てに沈む頃まで続くのか、はたまた今から数分と経たないうちに終わるのかの見当はわたしにはつかなかった。旅人は、わたしに彼が今までやってきた旅の話をしてくれた。スネージナヤの雪原を越えて璃月に行くまでの出来事、古代遺跡に出かけたときに巨大な遺跡守衛に襲われた話、それから……彼の口から語られる彼の冒険の話は、まるで彼が主人公の小説を読んでいるような気持ちにさせてくれた。それは、彼の語り口調が上手だからそう思えるのか、彼の今までの濃密な経験がそうさせているのかは分からなかった。太陽が西の方に傾き始め、山の向こう側に顔を隠し、空が茜色に染まる頃、わたしは夕食の用意をするために、家に帰ることにした。「旅人さんはいつまで釣りを?」そうわたしが問えば、彼は曖昧に笑って、「そうだな、気が向いたらかな」と言った。「それでは、また」そうわたしが去り際に旅人にそう言うと、彼は「さようなら」とだけ言った。

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翌朝、旅人は静かに姿を消した。東の空がうっすらと白み始めた頃、旅人はゆっくり起き上がって、早くに起きていた村長にお礼と別れの挨拶を一言、二言述べた後に、わたしがまだ夢の中にいる間にこの村からひっそりと姿を消したのだと言う。彼が、あの山を越えてこの村にやってきたように、帰りもあの山を越えて璃月の方へと向かったのだろう。わたしは、家の窓から目の前にそびえ立つ巨大な山を眺めた。毎日わたしの家から見えるあの山の表情は、普段見る山のすがたとそう変わりない。青々とした木々が山肌を覆い、空に浮かぶ雲の影があの山肌の上に見えている。今日はよく晴れているから、あの山を越えるのに今日ほど都合の良い日は無いだろう。わたしはあの旅人が、何事もなく無事に自分の国に帰れますようにと祈った。
2021-10-31