小説

 なんとなく、苦手だった。このうっすらとした苦手の感覚を説明するのが難しいから、わたしは嵐山が苦手であることを誰にも言えずにひとり胸の中にそっと片付けていた。しっかりと胸の中に片づけて蓋を閉じてしまえば、自分の思う”なんとなく苦手”という感情を無視して、上部だけの上手い付き合いくらいは出来た。嵐山と話をしているときに、この”うっすらとした苦手”がそっと顔をのぞかせてくるときがある。嵐山がわたしの気に触ることを言ったというわけでもないのに、この”うっすらとした苦手”は、わたしが丁寧に閉じた蓋をそっとこじ開けてぬっと顔を出してくる。わたしは毎度、顔を覗かせる”それ”に対してこちらを向いてくれるなと思うのであるが、わたしの気持ちを無視して、そいつは顔を出し、舌までだしてくる。その度に、わたしは目の前で話している、わたしに対して何も悪いことをしていない、落ち度が一つもない男に対して負の感情を抱かなければならなくなってしまうのであった。嵐山がわたしに対して気の障ることを言ったり、嫌な行動をしてくれているのであれば、わたしの心の奥から顔をのぞかせてくるこの感情のすべてを肯定できたから良かったのにと思ってしまうこともあった。しかしながら、嵐山がわたしに気の障ることを言うこともなければ、嵐山がわたしが嫌に思う行為を行うことも一切なかった。嵐山准という男は、わたしの思うこの感情を肯定してくれそうなそぶりを一切しないのである。わたしのなかに存在する、”イイ奴”というぼんやりとした枠組みの中に、嵐山准という男はぴったりと当てはまっていた。だから、嵐山に対してその感情を抱くこと自体が間違いのように思わせてくる。なんの落ち度もない嵐山准という男に対して、この男がもっと嫌な奴であればよかったのにと願わずにはいられなくなってしまうことが、一番嫌だった。このうっすらとした”苦手”の感覚は、それを自覚すればするほど、強まっていくから不思議だ。病は気から、とは違うかもしれないけれども、そういう、気持ちから先行して発生する負の感情のようなものはあるんじゃないのかと、なんとなく思うようになった。嵐山は気さくで、学校ですれ違う時は友達と喋っている時でも挨拶をしてくれるし、ボーダーで会った時も声をかけてくれる。わたしは毎度、嵐山のすがたを見かけるたびに、声に出すことはできないが、心の中では「げえ」と言ってしまっている。わたしのそんな心の中で考えていることと関係なしに、嵐山はわたしに気さくに挨拶をして、そのまま去っていく。どこからどうみても、嵐山という男はイイ奴だったし、彼のそういうところが人に好かれるのか、嵐山という男は人によく慕われていた。

大学で一日を過ごした後で、ボーダー本部へと足を運ぶ。今日の夕方からの防衛シフトを眺めて、嵐山隊が同じシフトに入っていることに気づいてため息をついてしまった。わたしの担当するエリアが、嵐山隊とそう近い場所でないことを確認して、少しだけ喜んでしまったが、その気持ちはすぐに沈んでしまった。そういう、なんの落ち度のない人に対して悪いことを考えている自分がいることに、ほんのり嫌な気持ちになってしまったからだった。わたしのそんな気持ちを少しも知らない嵐山が、わたしに「今日はよろしく」と声をかけてくるのに、「よろしく」と返したのであるが、その時の声が上ずってしまった。嵐山は気にしていないのか、それだけを言うと自分の隊の面々を連れて持ち場へと行ってしまった。嵐山の背を見送って、わたしも自分の持ち場へと向かう。今考えることは嵐山のことなんかではなくて、これからやらなければならない自分の仕事のことだけだと思い直した。自分のトリガーの確認をして、持ち場へとつけば、もう余計なことを考えずに済んだので良かった。

今日は一日、トリオン兵が出てくることもなくただ持ち場についているだけでよかったので楽な日だった。「お疲れ様でした」と言うオペレーターに、今日は何もなかったと言うことを伝えて、交代の夜当番の人たちと交代をして本部に戻った。戻った後で、なんとなく訓練室に立ち寄った。わたしはあまり、訓練室で模擬戦をしない。そもそも、部隊を組んでもいない野良隊員であるから、訓練室にくるときといえば、数少ないボーダーにいる知り合いの模擬戦に付き合うときくらいなものだった。訓練室に立ち寄ると、見知った後ろ姿があったので、思わず声をかけた。「あれ、迅だ」見知った後ろ姿が振り返り、「みょうじちゃんだ、珍しいね」と言った。わたしからしてみれば、支部に所属している迅が、本部の訓練室にいることのほうが珍しく思えてしまう。「どうしたの、今日」そうわたしが問うと、迅はモニターされている訓練室の一部を指差して、「見に来た」と言った。「玉狛支部の人?」そうわたしが問えば、彼は首肯した。

「へえ、新しい人入ったんだ……あっ、今の取り方上手い、強いねえ、彼」
「そう。ウチの期待の新人」
「玉狛は元々強いじゃん、これ以上強くなっちゃうの?」
「ははは。みょうじちゃんは訓練室にきてどうしたの、模擬戦するわけじゃないんでしょ?」
「うん、模擬戦はしないよ」

なんとなく来ただけ、そうわたしが言うと、迅は「へえ、珍しいこともあるもんだ」と言った。迅の目に映るわたしには一体何が見えているのかは想像がつかない。変なものが見えているのであれば、彼は多分教えてくれるだろうけれども、彼が何も言わないと言うことは特になにもないのだろうと思った。迅の隣で、迅の言う新人の模擬戦が終わった。しかしながら、迅が変える素振りは少しも見せなかった。迅は、模擬戦が終わって部屋から出てきた玉狛の例の新人に挨拶をしていたが、彼が友達たちに連れられて再び訓練室に連れて行かれているのを見送った後でも帰る素振りは見せなかった。「帰らないの?」そう、思わずわたしが迅に話しかけると、彼は「おれ、人待ってるの」と言った。迅が待つ人といえば、彼の仲の良い人だろうと考えて、ふと思い至った可能性に、帰るのはわたしのほうだと分かった時に、後ろから声をかけられてしまった。「迅!あれ、みょうじもいたのか」そう、聞き知った声に恐る恐る振り返ると、そこには先ほどまで同じ防衛シフトが組まれていた嵐山その人が立っていた。やはりか、と思った時にはもう遅かった。完全に帰るタイミングを逃してしまったのだ。迅と、自分がうっすらと苦手に思っている嵐山とわたし、その三人が訓練室の一角に立っている。嵐山は、わたしの姿を見て「みょうじがここにいるのは珍しいな」と言った。つい今しがた、迅に言われたのと全く同じことを、嵐山にも言われてしまった。

「模擬戦でもしにきたのか?」
「ううん」

そうわたしが手短に答えると、迅が吹き出した。何もおかしなことを言っていないはずなのに、迅がそうやってわたしのことを笑うので、わたしの心の中で考えていることが迅に伝わってしまったような気がしてバツが悪くなってしまった。

「東側はどうだった?」
「わたしのいた方は特に何も。嵐山の方はどうだったの?」
「俺のところも特に異常は無かったな」
「じゃあ、嵐山も結構ヒマだったんだ」
「ああ」

ヒマでいた方がいいんだけどな、そう嵐山が言うのを聞いて、なんとなく自分の言葉選びが失敗だったと思ってしまった。この言葉ではトリオン兵がきて欲しいと言っているようなものではないかと思った時にはもう遅かった。嵐山と話す時はいつもこうだ、余計なことを言ってしまったような気がして、悪いことを言ったはずではないのにもかかわらず、うっすらとした罪悪感がそっとついて回る。そうしたわたしの失言から、なんとなくわたしの人間性を見透かされているような気がして居心地が悪くなる。ただ、人と話をしているだけであるというのに、肩肘を張って、うまいことを言わなければならないような気がしてしまう。模範的な態度を求められているような気がして、ほんの少しだけ居心地が悪い。わたしが黙り込んだ後で、誰も口を開かなかったのでほんの少しだけ居心地が悪い沈黙が流れた。この場で「じゃあ、わたしはここで」と言って立ち去る勇気も、わたしには無かった。わたしが居心地が悪く思っているのが伝わったのかは知らないが、迅が「まあ、何もなくて良かったじゃん」と言った。「ああ、そうだな」嵐山が相槌を打つのを聞いていて、迅はよく嵐山と話しているのをよく見るけれども、嵐山に対してうっすらとした罪悪感のようなものや、イイところを見せなければならないと思って会話をしたことがないのかと思ってしまう。わたしだけがこうして肩肘張って話しているのか、と思ったけれども自分も仲の良い友達に対しては肩肘張って喋ったりしないことを思って、迅はあまりそういうことを考えたりしないのかもしれないと思ってしまった。

「二人はこれからどうするの?」

わたしがそう問えば、二人は顔を見合わせた後で、嵐山が「そうだな」と言った。

「おれ、ラーメン行きたい」
「ラーメンか」
「嵐山は気分じゃない?」
「いいや、構わないんだが先に家に連絡しておこうかな。夕食があるかもしれないし」
「電話してきなよ」
「ああ、そうする」

そう言って、嵐山は目の前で電話をかけていた。「夕食いらない」というただそれだけの電話をするというのに、嵐山は家の人相手にも丁寧に「ゴメン」と謝っているのを聞いて、わたしもそうあるべきなのかもしれないと思ってしまう。電話を終えた嵐山が、「悪いな、急に電話して」と言っているのを聞いて、迅が「いいよ」と言うのを聞いていた。迅が、わたしに「みょうじちゃんもくる?」と声をかけてくれたけれども、わたしは嵐山がいるところでご飯を食べることになんとなく抵抗があったので、「わたしはいいや、夕飯もうあるんだよね」と家に夕食があるわけでもないのに、そう嘘をついてしまった。嘘をついてまた一つ、居心地の悪さが増したような気がした。「じゃあ行くか」そう言って迅と嵐山が「それじゃあ」と言って訓練室から去っていく後ろ姿を眺めながら、わたしは安堵からか、ほっと息をついてしまった。

「嵐山だ」

大学で、嵐山の後ろ姿を見た時に、思わず声をかけてしまった。いつもであれば、相手が気づかなければ声すらかけない嵐山という男に対して、自分の口が勝手に動いたのが不思議だった。嵐山のことがうっすら苦手であることを自覚しているのにも関わらず、勝手に動いた自分の口のことを悔やんだところでもう遅かった。通学用のカバンを片手に持った嵐山が振り返って、わたしの方へと歩いてきた。「もう授業は無いのか」そう、嵐山がわたしに問うてきた。今日の授業が全て終わっていたわたしは、「うん」と答えた。嵐山相手に肩肘張って話すことの多いわたしの口から、自然と言葉が出てきたことに自分でも驚いていた。これは、自分が喋っていることに対して落ち度がひとつもない会話をしているから自然に出てきているのかは、わたしにもわからなかった。嵐山は「そうか、俺も今日はもう終わりだよ」と言った。

「これからボーダーに行くの?」
「ああ、今日は広報の仕事があって、その打ち合わせに行くんだ」
「大変だね」
「慣れれば平気だよ」

そう、人当たりのいい笑みを浮かべて言う嵐山に、わたしは逆立ちしても彼のような人にはなれないと思ってしまう。そう思った瞬間、わたしが今少しだけ忘れていた、嵐山に対する苦手意識のようなものが、忘れ去られていたわたしの中にある蓋をこじ開けて、顔を覗かせてきた。それは、顔を覗かせてきただけでなく、舌まで出してくる。嵐山のことをうっすら苦手であることを思い起こさせられたとき、嵐山が「みょうじはボーダーに行くのか?」と問うてきた。今日は、防衛シフトも無かったので、ボーダーに行く予定は無かった。「今日は行かない日だよ」そうわたしが答えると、嵐山は「そうか」と言った。そうして、彼は時計を眺めた後で、「じゃあ、俺は行くよ」と言った。

「いってらっしゃい、今日も頑張って」

そうわたしが言うと、嵐山は目を丸くした後で、「ああ」と言ったのちに、彼は続けて「話しかけてくれてありがとう」と言った。わたしは、嵐山にお礼を言われるようなことをした記憶がなかったので「どうして」と問うてしまった。そう問うたあとで、聞かなければ良かったのに、と思ったのがもしかしたら顔に出ていたかもしれない。しかしながら、それに気づいた時にはもう遅かった。嵐山が「みょうじは俺のことが苦手だと思ってたから、声をかけてくれるとは思わなかった」と言うのを聞いて、心臓に刃を突き立てられてしまったような気持ちになってしまった。トリオンでできていないこの肉体では、この場所から緊急脱出することもできない。わたしは慌てて、「そんなことないよ」と言ったのであるが、声が尻すぼみになってしまい説得力がなくなってしまった上に、嵐山のそういう、自分のことを全て見通しているようなところが最も苦手なのだと言うことを、嵐山本人から突きつけられてしまったような気がして、嵐山が去った後でもわたしの心臓はずっとやかましく鳴っていた。
2021-09-25