小説

うまくいかない話#7

「好きやって、口に出して言えん奴に言われたない」となまえにハッキリ言われてしまえば、黙ってそのままやり過ごすことなど出来るわけもなかった。なまえに対して邪な恋心を自覚してからずっと暖めていた「好き」という言葉を、なまえに促されるがままに言うのはどうも恰好がつかないとも思ったが、この期に及んで「好き」の一言も言えないのは、余計に恰好が付かない。自分の中にある小さなプライドを天秤にかけるも、どちらにせよみっともないことには変わりなかった。なまえの視線は、己とは反対側の下の方を向いている。なまえがこちらを見ていないのをいいことに、なまえの手を握り直した。己の手の中で、なまえの手が跳ねた。なまえの小さな手が、恐る恐る己の手を握り返してくる。なまえのほっそりとした指の感触を、高校生のころからずっと知っているはずなのに、まるで知らない手を握っているような気がした。なまえと一緒に帰らなくなって、もう結構な月日が経とうとしている。己の恋心も、なまえの手の感触のように忘れてしまえれば楽だったのにと思ってしまった。それは、こうしてみっともない目に遭うくらいであれば忘れてしまった方が良かったと思っているからでしかない。なまえの視線が、己となまえの手の方に注がれている間に、「好きや」と言った。なまえの顔をまっすぐに見て言うのは、照れくさかった。だから、なまえの方を向きはしたけれども、なまえがこちらを向いていなくて本当に良かった。顔を上げたなまえは「……そか」とだけ言った。なまえからの告白の、明確な返事は無かった。暫く、嫌な沈黙が流れた後になまえが立ち上がる。「もう帰らんと」気が付いてみれば、時刻は二十二時を回ろうとしていた。今までの告白すらもなかったかのように、自分のカバンを持って立ち上がったなまえを横目で見た後、玄関先で靴を履いているなまえの後を追った。己の告白をうやむやにされたくなかったから、この家から最寄り駅までなまえを送って、なまえと長く一緒に居ようと思ったが、そのもくろみは打ち砕かれた。なまえが「侑はええよ」と言って己が靴を履こうとするのを邪魔してきたからだった。

「暗いやろ」
「この辺明るいから送ってくれなくてもええ」
「いつも送っとるやろ。今日はええって、俺とおるのは気まずいんか」

そうなまえに言うと、なまえは「ちゃうよ」と目を逸らしながら言った。こちらと目を合わせてモノを話さないなまえを見ていれば、なまえが嘘をついていることくらいすぐにわかる。なまえとの付き合いが長すぎるせいで、なまえがそうやって下手に隠そうとしているのはなまえの顔をみただけですぐにわかった。思わず顔を顰めてなまえの方を見ると、なまえは己から目を逸らし、斜め下の方をじっと見た後で急にこちらを向いた。意を決したようななまえの目に思わずたじろいでしまう。そうして、なまえの両腕が、急に己の首元に回された。なまえの体が己の体の方に倒れ込んできて、なまえの付けているやさしい香水の匂いがほんのり香った。急ななまえの行動に驚いたけれども、体は自然となまえの背を抱きしめていた。背伸びをしたなまえの顔が、己の顔に近づいてきて、自分の唇に生暖かいものが触れた。生暖かいなまえの唇の上についていたリップのしっとりとしたものが、自分の唇に触れている。なまえの唇に噛みついてやろうと思い、口を開いた瞬間、なまえの唇はさっと離れて行ってしまった。ほんの一瞬の出来事であったが、永遠にあの時間が続いてしまうのではないかと思うくらいには、緊張していた。なまえが己から離れたというのに、未だ心臓は音を立てていて、なまえの顔を直視することが出来なかった。己から身を離したなまえは、玄関扉の方に後ずさって、「じゃあ、わたし帰るから。ばいばい」と早口で言って、玄関から飛び出して行ってしまった。「待ちや」そう、なまえに向かって叫んだけれども、なまえがこちらを振り返ることはなかった。靴を履いてすぐに追いかけてやろうと思ったけれども、靴を履いて玄関から外に出るころには、なまえの背中はもうすでに見えなくなってしまっていた。なまえからキスをされたことが夢かもしれないと思い、先ほどなまえの唇が触れていた、自分の唇に指先で触れた。指先にしっとりとしたリップの感触がして、触れた指先を見ればほんの少しだけなまえの塗っていたリップの色が付いていた。なまえとのキスは夢ではなかった。

 なまえがキスをして出て行った次の日、なまえからの連絡は無かった。さらにその翌日も、なまえからの連絡はない。このままだとなまえがだんまりを決め込んでしまいそうだったので、こちらからなまえに対してメッセージを送って連絡を取ってみた。しかし、なまえから既読のマークは付くけれども、なまえから返事が来ることは無かった。このまま無視され続けるのも嫌だったので、なまえの家に行くことにした。ここから数駅と離れていなかったはずだ、となまえが喋っていたことを思い出していたけれども、詳しいなまえの家の場所を知らないことに気づいた。治ならば何か知っているだろうと思い、双子のきょうだいに連絡を取った。なまえとの仲を取り持ってくれた治のことだ、きっとなんとかしてくれるだろうという思いがどこかにあった。しかし、これ以上治に借りを作るのも嫌だと思っている自分がいるのも確かだった。けれども、逃げるなまえを捕まえるためには背に腹を変えることもできなかったので、そうも言っていられなかった。電話口で治になまえの住所を聞いた時、治が含みを持った言い方で、「なまえの住所なあ」と言うのが、治の得意げな顔が浮かんでくるようで少しだけ腹が立ってしまった。治は特に交換条件を出してくるでもなく、すんなりとなまえの住所を教えてくれた。「なんで知っとるん」そう治に問うと、「何でやろなあ」と嘯いた。こちらが何も言わずに黙っていると、治は「なまえの引っ越し手伝ったからな」と言った。引っ越しの手伝いがいるなら俺に言わんかい、と思ったけれどもこういう時に自分ではなく治の方が頼られる理由に何となく心当たりがあったので、それは言わずに黙っていた。
 なまえの住所を聞いたその日、バレーの練習を終えた後になまえの住むアパートに出かけることにした。善は急げである。日はとっくに暮れて西の果てに沈み、外は街灯が灯り始めている。なまえの住むアパートのある最寄り駅まで、己の住む家から数駅程度の場所にあったので、散歩がてら歩いて行くことにした。線路沿いに歩いてなまえの住むアパートのある最寄り駅まで行って、駅前の通りを歩く。街灯のあかりと、飲食店のあかりで夜遅い時間だというのに、通りは明るかった。大きな通りを抜けて、すぐのところになまえの住むアパートはあった。治から聞いたなまえの部屋番号の前で立ち止まり、表札になまえの苗字が書かれているのを眺めたあとで、ふ、と息を吐いた。部屋の明かりは付いているからきっと、なまえは部屋にいるだろう。なまえには今日、なまえの家に行くということを連絡していないので、なまえがどんな顔をするかと想像すると可笑しくなってしまった。緩む頬を叩いて顔を引き締めたあとで、なまえの部屋のインターホンを押した。ベルの音が鳴ると同時に、なまえの「はい」という声が聞こえてきた。

「こんばんは〜」
「えっ、侑」

目を丸くしたなまえが、部屋のドアを閉めようとするので慌ててドアの隙間に自分の足をねじ込んだ。「彼氏に対して何なん、その態度」そうなまえに言えば、なまえは申し訳なさそうな顔をしていた。「冗談や」そう言うと、なまえは「なんで来たん」と言った。「用事が無かったら来たらアカンのか」そう言えば、なまえは黙り込んでしまった。己のことを無視していたことが後ろめたいのかもしれない。暫く黙り込んでいたなまえが、ようやく口を開いた。「……ごめん」そうぽつりと呟かれた言葉に「ええよ、そんなん」と言った。

「でもドア開ける前はちゃんと外見い」
「……気を付ける」
「ほんま心配なるわ」
「それで、どないしたん」

なまえに促されて、自分のポケットの中からキーケースを取り出した。なまえはそれを訝しげな顔をして眺めている。キーケースの中から、己の部屋のスペアキーを取り出して、なまえに手渡した。なまえは、鍵と、己の顔とを交互に眺めた後で、「何?」と言った。「部屋の鍵」そうなまえに言えば、なまえは「なんでわたしに渡したん」と問うてきた。部屋の鍵を渡されるということの意味は一つしかないだろう、と思ったけれども、なまえには口に出して言わなければならないのだろう。なまえが己の意図を知っていたとしても、己の口から言葉に出して聞きたいというのは、告白の時と同じだった。

「待ちあわせ、もうせんでええやろて思って」

なまえは部屋に来る時、毎度己に連絡をして己が家にいる時に来る。こうして、なまえに鍵を渡していればその煩わしい連絡もいらなくなるからなまえに鍵を渡しておこうと思った。なまえにそれを告げると、納得したような顔をして、己の部屋の鍵をなまえのキーケースの中に片づけていた。

「今日はこのためにウチまで来たん?」
「まあ、そうやな」
「今度行った時でも良かったやんか」
「このままやったらなまえ逃げ続けるやろな、思て」
「逃げんわ」
「人にキスして尻尾巻いて逃げ帰って人のことを無視したのは誰やったっけな」
「さあ……わたしは知らん」

なまえはそう言ってそっぽを向いてしまった。

「侑の家行くときは連絡するわ」
「ええよ、そんなん」
「侑やって、急に来られたないときくらいあるやろ」
「あるか?」
「そうなったときに言えんくなるやんか。だから連絡する」
「お、おう……」

なまえにそう押し切られてしまえば何も言えなくなってしまった。なまえは多分、これからも己の部屋に来るときは必ず連絡を寄越してくるだろう。「ほな、今日は帰るわ」そう言って、なまえの体を抱き寄せて、唇にキスを落とした。この間、なまえがやったことと同じことを、なまえの部屋の玄関先でやってやった。なまえが目を丸くして、彼女の唇に指先で触れているのを見て、その行動までこの間の自分と同じやんか、と思いながら、「ほな」と言ってなまえの部屋から出た。キスをした瞬間のなまえのことを思い出したら、何杯でも飯が食えそうやな、と思いながら飲食店街のひしめく大通りの中を歩いて自分の家に歩いて帰った。

2021-09-20