小説

ひとり

 雲一つない、綺麗に晴れた日だった。青々とした空が、遠くの果てまで広がるのを、わたしはただ眺めている。展望デッキの上、転落防止のために引かれたワイヤー越しに見える青空と、眼下に広がる滑走路。並んだ飛行機の群れ、そうして、それらをワイヤーを隔てて眺めている人々の背中がそこにはあった。三門市から市境どころか、県境も越えた先にある空港にわたしと犬飼くんは、ふたりで来ていた。旅行に行くわけでもないのに、特に理由もなく空港に行くのは初めてだった。犬飼くんの後を追うようにして、わたしは空港の展望デッキに設置されたベンチに並んで座る。頭上には屋根がなく、ただただ広い青空が広がっていた。夏が通り過ぎ、冬の匂いを少しだけ漂わせた心地の良い風が吹いている。天気が良くてよかったと犬飼くんが言うのに、わたしも頷いた。わたしと犬飼くんは、二人で並んで座って、ワイヤーの向こう側の景色を眺める。展望デッキには、色々な人がいる。大きなキャリーを持った人もいれば、荷物を何一つ持たない人もいる。小さい子どもを連れた親子から、カメラを構えた中年の男性のすがたまで、さまざまな人が展望デッキにやってきては、空港ビルの中に消え、また別の誰かがやってくるのを繰り返している。眼下に広がる広い滑走路の上を、ジャンボジェット機がゆっくりと走ってきた。今から空に飛んでいくだろう飛行機が、直線のコースに入ると、展望デッキにいる人々は現れた飛行機の姿に釘付けになっていた。小さい子供が、白いジャンボジェット機を指差して、母親に一生懸命に何かを言っている。子どもの言葉は外の音に掻き消されてしまっているせいで何を言っているのかまでは、よく聞こえなかった。スマートフォンのカメラを構える人や、一眼レフのレンズを飛行機に向ける人たちの背中を眺めながら、わたしはため息を吐きそうになった。この後、あの飛行機は轟音を立てて加速し、空高くに向かってとんでゆく。今日だけで飽きるほどに見た光景だった。
 飛行機が離陸する瞬間を眺めた人たちが、ぞろぞろと空港のビル内へと戻ってゆく。展望デッキに残っているのは、カメラを構えた中年男性と、犬飼くんとわたしの三人だけになり、出て行った人と入れ違いで若い男女のカップルが展望デッキにやってきた。出ていく人の後ろ姿を目で追った後に、わたしの隣に座る犬飼くんの方を見た。犬飼くんは相変わらず、ワイヤーの向こう側の景色を眺めていて、わたしが犬飼くんのことを見ていることにすら彼は気づいていないようだった。何も言わずに、ただ滑走路の方に視線を奪われている犬飼くんを眺めながら、わたしは心の中で「つまらない」と呟いた。この言葉が犬飼くんに届いてくれないかと少しだけ願ってしまうけれども、犬飼くんに直接それを言うことはできなかった。
もう一機の飛行機が、滑走路を走る。先ほど見た真っ白なジャンボジェット機とは違い、カラーペイントが施されている。少し前にニュースでそのような飛行機が出たようなことを言っていたのを思い出した。ニュースで言っていた飛行機はあれのことだったのかと思って眺めていると、その飛行機は轟音を立てて加速して、空に向かって飛んでいってしまった。わたしが今日一日で見た飛行機の動きというものは、その繰り返しだった。何の代わり映えのしない飛行機の離陸のタイミングを、大きなレンズをつけたカメラを担いでいる人が写真に撮っている。あのレンズの中に映るのは、きっとわたしが今しがた見た光景そのものだろう。わたしには違いがさっぱりわからない飛行機をひたすらに撮り続けていて何が面白いのか、わたしにはさっぱり分からなかった。もっとわからないのは、犬飼くんだった。犬飼くんは、わたしの隣のベンチに座ったまま、真面目な顔をして眼下の光景を何もせずにただぼうっと眺めている。写真を撮るでもなく、本当にただぼうっと、滑走路と飛行機を眺め続けているのだ。以前犬飼くんの部屋に上がったときに、彼の部屋に飛行機のプラモデルが飾ってあったのを見たことがある。彼の口からは語られずとも、犬飼くんが飛行機が好きなことは知っていた。しかし、眼下に広がる景色を眺め続けていて何が面白いのか、わたしにはさっぱりわからなかった。以前犬飼くんに飛行機のよさというものを聞いてみたけれども、要領を得ない回答が帰ってきたのでそれ以上の話を聞こうともしなかった。あの時、もっと詳しく聞いていたら、目の前に広がる光景の何が面白いのかを少しくらいは分かったかもしれないと思ったけれども、今となっては後の祭りである。景色を眺めることにとっくに飽きてしまったわたしは、目の前の飛行機を眺めるのをやめて、スマートフォンをつついていた。SNSを眺めて、最近流行っている洋服を眺めたあとで、彼のほうを盗み見る。そうして、わたしは「犬飼くん」と彼の名前を呼んだ。犬飼くんは視線だけをわたしの方に寄越したけれども、わたしが何も喋らないのを見てそのまま、ワイヤーの向こう側に視線を戻してしまった。今の犬飼くんは、なんとなく、わたしが隣に居ることを忘れていそうだと思った。好きな人のことが沢山知りたくて、こうして好きな人の後をついて来たはずなのに、わたしは結局何も分からずにいる。

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「今週末何をするの?ボーダー行くの?」
「ボーダーは休み。暇だし、出かけようかな」
「買い物にでも行くの?」
「随分食いつくね」

 犬飼くんが、ボーダーに行かない日はいつも一緒に帰っている。金曜日の今日、犬飼くんはボーダーに行かない日だった。下駄箱の前で待ち合わせをして、わたしの家がある方向に向かって並んで一緒に歩いて帰るとき、わたしはいつも緊張している。犬飼くんと一緒に帰り始めて、もう何か月も経っているのにも関わらず、緊張せずにいられることはなかった。目の前のすぐそこにある犬飼くんの手に触れたくて手を伸ばしたいと思うけれども、なかなか伸ばせないでいる。校門を出てすぐのところでは、同じ制服を着た学生が多く、知り合いに見られるのが恥ずかしかったから手を繋ぐ勇気が出なかった。犬飼くんは、わたしと違って人の目を少しも気にしていないようだったけど、わたしは結構気にしてしまう。別に、犬飼くんと付き合っていることを隠しているわけではないけれども、それでも照れくさいものは照れくさいのだ。
 学校の校門を出て暫く歩いたところまでくると、同じ制服を着た生徒たちの姿は見えなくなった。こうなってはじめて、わたしは犬飼くんの左手に自分の右手を伸ばした。恐る恐る伸ばすわたしの手に気づいたのか、犬飼くんの手が、伸ばされたわたしの手をぎゅっと握りしめた。犬飼くんの生暖かい手がわたしの手を握ったとき、緊張して心臓が少しだけ跳ねた。手まで跳ねてしまったのか、犬飼くんはくすくすと笑っていた。わたしの右手は、犬飼くんの左手によって指を絡められるようにゆるく握られる。手をつなぐたびに、犬飼くんに「慣れないね」と言われるのがなんだか悔しくて仕方ないのであるが、一向に慣れる気はしなかった。何も言い返せないわたしがそっぽを向いたとき、犬飼くんは「初々しいままでいいよ」と余裕そうな顔で言う。それを聞くたびに、わたしは同じ年の同級生なのにどうしてこうも違うのだろうと思ってしまう。彼はわたしよりもずっと上手だ。わたしがやりたいと思うことを上手に拾って、わたしの欲しいものを何でも与えてくれる。わたしは犬飼くんの欲しいものが未だにさっぱりわからないというのに、どうしてか彼はわたしのすべてを知っているように思えて仕方がなくなることがある。
 余ったわたしの左手は、スマートフォンを触っていた。スケジュール帳のアプリを開いて、今週末の、何も予定の書かれていない、ぽっかりと穴の開いた日を眺めながら、犬飼くんに今週末の予定を聞いた。犬飼くんは人好きの良い笑みを浮かべて、「気になる?」とわたしに冗談めかして言う。好きな人のことであるならば、どんな些細なことでも知りたい。普段だって、わたしとデートしていない日はボーダーに居ることが多い犬飼くんが、ボーダーにいないときに何をしているのか、わたしは良く知らない。ボーダーに行ったり、わたしとデートしているとき以外の、彼がひとりでいるときの時間に何をしているのかを、わたしは知りたかった。何もわからない犬飼くんのことを少しでも知れるかもしれないと思って、わたしは食い気味に「気になる」と答えた。犬飼くんはそんなわたしを目を丸くして見たのちに、可笑しそうに笑っていた。

「買い物ではないけど、出かける」
「どこいくの?」
「空港」
「犬飼くんどこか遠くに行くの?」
「いや?ただ空港に行くだけだよ」
「わたしも行きたい」
「つまらないと思うけど、いいならいいよ」
「やった」

「土曜日と日曜日どっちに行く?」そうわたしが問うと、犬飼くんは「土曜日の昼過ぎかな」と言った。犬飼くんが言う通りに、わたしはスマートフォンのスケジュール帳のアプリに予定を入れていった。予定を入力するわたしに、犬飼くんは「本当に面白くないからね」と念を押すように言った。犬飼くんとデートに出かけた時も、こうして一緒に帰っている時だって、つまらなかったことが今まで一度もなかったのだから、わたしはその話を話し半分に聞いていて、犬飼くんに「大丈夫だよ」と答えた。

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 犬飼くんが「そろそろ行こうかな」と言い出したのは、展望デッキのベンチに座って三時間以上が経ったころだった。空高くに上がっていた太陽は、西の方へと傾いていて、青々とした空は橙色に染まっている。ベンチから立ち上がった犬飼くんが手を差し出してくれたので、素直にその手を取って立ち上がる。長い時間ベンチに座りっぱなしだったせいでお尻が四角くなってしまいそうだった。空港のビルの中に戻ったときに、犬飼くんが「つまらなかったでしょ」と言った。わたしは彼のように飛行機に興味があるわけではないし、犬飼くんが外を眺めているのをただ見ていただけで、犬飼くんと楽しくおしゃべりをしていたというわけでもない。三時間のうちの殆どの時間を無言で過ごしていたのだから、正直なところ暇で仕方がなかった。犬飼くんと一緒にいて暇になることが今まで一度もなかったので、彼の言う通り”つまらない”ことになるとは思っていなかった。今日のわたしは、犬飼くんと一緒に居たけれども、犬飼くんとデートに出かけたのではなく、犬飼くんのひとりの休日にお邪魔しただけだった。だから、彼の言う言葉に対して素直に「つまらない」と言うことはできなかったけれども、決して楽しかったとも言えなかったので、「楽しかった」とは口が裂けても言えなかった。わたしが答えあぐねていると、犬飼くんは人好きのする笑みを浮かべて、「付き合わせてごめん」と言った。わたしが口にせずとも、犬飼くんはわたしの心の動きを丁寧に拾ってくれていた。そう思うと、途端に申し訳なくなってしまった。勝手についてきたのはわたしなのだから、と彼の言葉をフォローすることすら出来なかった自分のことが少しだけ嫌になってしまった。

「犬飼くんっていつもひとりのときはこうしてるの?」
「そうだね、こういうことをしているときも多いかな」
「ふうん」
「つまらないでしょ」

犬飼くんはそう笑いながら言った。わたしが、彼の言葉に素直に頷いていいものか分からずに黙り込んでいると、犬飼くんは「おれは結構つまらない奴だからさ」と言った。わたしはそれに対して、どう返していいのかわからなかった。肯定をするのも、否定をするのもなんだか可笑しいと思ってしまった。今日の出来事がなければ、わたしは「つまらなくないよ」とすぐに答えていたけれども、今日はそうではなかった。彼の言葉を否定したい気持ちと、事実としてつまらなかったことの両方が絡み合った結果、わたしは閉口することを選んだ。犬飼くんが普段ひとりでいる時の顔が見たくて出かけたはずなのに、わたしは犬飼くんの顔が見たいというところを飛び越えて、ひとりでいる時の犬飼くんに対して"彼女に接する時の犬飼くん"の顔を、知らず知らずのうちに求めていた。そうして、普段の彼がわたしの知るいつもの彼では無いことを知った時に、勝手につまらないと思ってしまっただけだった。勝手に期待して勝手に失望している、どうしようもない女だった。しかしながら、そう思っていることを犬飼くんに知られたくは無かった。彼に対して気遣いを求めていたくせに、彼に期待しすぎていることを彼に知られると幻滅されてしまうと思ったから、それだけは避けたかった。
空港ビルの構内を、犬飼くんと並んで歩く。犬飼くんは何も言わなかった。わたしも、揃って黙っていたせいで妙に心地の悪い沈黙が流れている。犬飼くんの、おれはつまらない奴だから、という言葉の中に含まれる彼の言葉の意味を知ろうとして、考えるのをやめてしまった。わたしに対して気を使って接している、ということを確信したくなかったからかもしれない。「今日は帰ろうか」そう言う犬飼くんに「うん」と答えた。
帰りの電車の出る駅に向かって歩きはじめたころ、犬飼くんがわたしの手を取った。生暖かい犬飼くんの左手が、わたしの右手の指を絡めて緩く握った。その時初めて、わたしは今日一日ずっと一緒に居たのにも関わらず、今まで一度も手をつないでいなかったことに気づいた。「三門に着く頃にはもう暗いかも」そう、わたしのよく知る、犬飼くんが話しかけてきた。「……うん、そうだね」わたしがそう答えると、犬飼くんは家に連絡入れた方がいいかも、と言いながら、空いた手でスマートフォンを器用に操作していた。きっと、彼の自宅に連絡しているのだろう。「犬飼くん」わたしはそう、彼の名前を呼んだ。スマートフォンの方に注がれていた視線が外れて、犬飼くんはわたしの方を向いて「なに、どうしたの」と人好きのする笑みを浮かべてそう返事をした。犬飼くんは、確かにわたしのよく知っている犬飼くんだった。「ううん、なんでもない」そう犬飼くんに言うと、犬飼くんはキョトンとした顔をして「なにそれ」と笑っていた。
2021-09-11