小説

閑話・4

「ねえ、わたしたちって最近冷えてるって思わない?」
「冷えてるって何?」

休日の昼下がり、一緒にお昼ご飯を食べ終えた後、ソファーに座ってのんびりテレビを観ていた。すると、タブレットを持ったなまえがソファーの方へとやってきて、己の膝に頭を乗せてソファーに横になる。「重いから退けて」と言っても少しも聞き入れてくれないどころか、そのままの姿勢でタブレット端末を器用に操作しはじめてしまったので、膝の上からなまえをどかすことは諦めてしまった。しばらく、タブレットの画面を眺めていたなまえが、タブレット端末から己の方を向きおもむろに口を開いた。「倫太郎」そう、己の名前を呼ぶなまえに生返事を返したとき、なまえは口を開いた。「ねえ、わたしたちって最近冷えてると思わない?」そう、唐突になまえに言われてしまって少しだけ考え込む。冷えている、というのは己となまえの関係のことを指しているのだろうか。今こうしてくっついてきているのはなまえの方で、己からなまえに何かしたかと言われると何もしていないような気がするが、それは付き合い出した頃からそう変わっていないはずだ。だから、なまえの言う"冷えている"という言葉の意味がよくわからなかった。タブレット端末を持つなまえの左手の薬指には、結婚指輪が嵌っている。真新しい結婚指輪は、三か月も経ってしまえばもうなまえの体の一部として彼女のなかにうまく溶け込んでいた。指輪を受け取ってから三か月、考えてみれば、なまえと結婚してからもう半年近くがもう経とうとしている。まだ結婚して一年経っていない新婚であるが、己となまえの生活は、同棲していた頃からそう変わりない生活が続いているので真新しさというものはあまり感じなかった。

「倫太郎と一緒に出掛けたところって、買い物くらいじゃん」
「そうだね」
「結婚したばっかりなのにどこにもデートに出かけないのは寂しいと思わない?」
「冷えてるってそういう意味ね。なまえはどこに行きたいの?」
「デートに倫太郎から誘って欲しい」

そう、甘えるように言うなまえが眺めていたタブレット画面を覗き見るとそこにはドライブスポットが映っていた。己らが住んでいる県内のドライブスポットの特集ページを、なまえは眺めていたようだった。ただ出かけたいだけなら最初からそう言ってくれればいいのに、なまえはこうやって遠まわしに言ってくることがある。しかも、自分がそうしたいということを、己の方から提案するという形で話を持ってきてほしいというワガママまで言ってくるのが少しだけ面倒くさい。でも、そういう面倒くさいところがカワイイと思って好きになってしまったところがあるので、結局なまえのワガママに付き合ってしまう。結局、ドライブに行くことには変わりないのだから、なまえの方から言ってくれたって変わらないと思うのであるが、なまえにとっては己が誘うか、なまえが誘うかでは大きな違いがあるのだろう。その違いというものは、己には全く理解できないものだった。なまえの期待の籠ったふたつのまるい目が、己の方に向けられている。なまえの視線にそのまま答えるのは癪だったけれども、こういうなまえのワガママにめっぽう弱かったので、結局のところなまえの言うことを聞いてしまった。

「……明日どこか行かない?」

そうなまえに言うと、なまえはぱっと顔を輝かせて食い気味に口を開いた。

「行く。明日はわたしが倫太郎をお出かけに連れていってあげる」

なまえがしょうがない、とも言いたげな顔をして己の顔を見た。なまえの表情は明るく、機嫌が良さそうにも見えた。出かけたいと言い出したのはなまえの方だろうというのは、この際言わないでおいた(ここでなまえの機嫌を損ねるのも面倒だったからだ)。なまえはタブレットを器用に操作しながら、自宅から、明日一日の間に行って帰ってこれそうな場所をピックアップして眺めながら、「どこにしようかな」と言っていた。今にも歌いだしそうな様子のなまえに、そんなに出かけたかったんだ、という気持ちと今までなまえをそういう場所に誘ってこなかったことを少しだけ申し訳なく思った。

「海と山どっちがいい?」
「俺は海かな」
「海かあ。倫太郎って結構ロマンチストだったりする?」
「さあ?」

海と山なら海の方がロマンチックだ、というなまえの言っていることはイマイチ良く分からなかった。なまえが山に行きたければそれでも良かった。ただ、己は少し前に合宿で山道をずっとバスで走ったから、山は今回遠慮しておこうと思っただけでそれ以上の理由は無かった。ロマンチストだ、と言うなまえのあげているドライブスポットはどこも日没が綺麗に見える場所で、なまえの方がロマンチストなのではないかと思ってしまう。女の人はああいった綺麗な景色というものに憧れるところがあるらしいから、なまえも例外なくそれに当てはまっているだけかもしれない。なまえは海のドライブスポットを探していくつか目星をつけているようだった。「どちらにしようかな」と言うなまえの上げた候補地は、どれも自宅から結構な距離がある場所であったけれども、日帰りで遊びに行って帰ってくるのは十分できそうだった。「そういえば」そう、思い出したように己が言うと、なまえのふたつのまるい目が、己の方を向いた。

なまえ、運転できたんだ?」
「できるよ」
「知らなかった」

そう言うと、なまえは「暫く運転してないからね」と言った。己は、なまえが運転しているところを今まで一度も見たことはなかった。一緒に生活をし始めた時だって車を持ってきたのは己で、なまえは車の”く”の字すら言っていなかったはずだ。車を出して何処かに出かけるときにハンドルを持っていたのは専ら己で、なまえに運転させたことは今まで一度もなかった。「免許証見る?」そう胸を張って言うなまえに「いらない」と言えばガッカリしたような顔をしていたのが面白かった。「ゴールド免許なんだけど」そう得意げに言うなまえに「そんなに俺に免許証見てもらいたいの?」と言えば、なまえは「後で見たいって言っても見せないから」と言って少しだけ拗ねてしまった。いらねえよ、と思ったけれどもそれは言わなかった。

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「一度走り出したら案外運転って出来るモンだね。倫太郎見て、海が見えた」
「見てる。前見て安全運転して」
「はあい」

ハンドルを握りしめたなまえが間延びした返事をする。それを聞いて、己は運転席のなまえから目を離して正面を向いた。ゴールド免許だとなまえは言うけれども、蓋を開けてみれば彼女はただのペーパードライバーで教習所を出てから一度も運転したことがなかったので、なまえの運転する車に乗るのは正直のところ、けっこう怖かった。己が運転すると言ったけれどもなまえが自分が運転すると言って聞いてくれなかったので諦めてしまった。自分の車の、乗り慣れない助手席から眼前に広がる海を眺める。地平線の彼方まで続く水の塊がゆっくり波打つのを眺めて、息を吐いた。運転席に座るなまえが、「海がきれい」と言うのを聞いて、再び己の視線は、青々とした海から運転席のなまえの方へと吸い寄せられた。なまえの視線は広がる海の方ではなく、しっかりと正面の道路のほうを向いていたので安心した。ハンドルを握りしめるなまえの腕に妙に力が入っているのが、なまえが運転慣れしていない様でどこか危なっかしく見える。腕が疲れるだろうと思ってなまえに力を抜くように伝えはしたものの、なまえの腕には相変わらず力が入ったままだった。素人の運転ではあるけれども、なまえの運転は己が思ったよりもずっと落ち着いていた。なまえの突拍子のないところのある性格のことを考えると、もう少し運転が荒くてもおかしくないと勝手に思っていたけれども、ハンドルを動かす手の動きや、ブレーキをやさしく踏むところはどこか落ち着いていた。車線を変えるときの動きが時折危なっかしいこともあったけれども、それ以外は特にこれと言って思うところはなかった。自宅を出る頃に表示されていた、カーナビの目的地までの距離を見て、なまえは随分久しぶりに運転するというのに、随分な距離を走ろうとするものだと思っていたし、途中でなまえが疲れるのではないかと思っていたけれども、なまえはこの結構な距離をひといきで走り切ろうとしていた。「疲れない?」そうなまえに問いはしたけれども、なまえは「全然!」と元気よく答えていた。海岸沿いのカーブの多い道路を走る車は、己らの乗る車だけだった。家を出る頃には天辺にいた太陽が、海のある西の方に傾き始めている。陽が西の方に沈み始めているのを眺めながら、己らは海沿いの道路をひた走る。混んでいた街中とは違い、海沿いの道路に差し掛かる頃には前後に車がいなくなったので、随分気楽だった。なまえは少しだけゆっくり車を走らせるから、後続の車がこなくて本当に良かったと思う。少し遅く走っても怒られることが無いというのは良いことだ。自分が車を運転しているわけでもないのに、自分が運転する以上に気が張っている。運転しているのはなまえで、己は助手席に座っているだけだというのに、どうしてここまで己が気を張り詰めているのか。なまえがまっすぐ前を向いて車を走らせているのを眺める。この車の助手席に座っているときのなまえはぼんやりとした顔をして外を見ていることが多いのであるが、そんななまえが少し真面目な顔つきで運転席に収まっているさまは新鮮だった。こんなに真面目な顔をしているなまえのすがたを、己は今まで一度も見たことが無かったかもしれない。カーナビに表示された目的地までの距離が残り三キロを切ったころ、"海浜公園入り口"と書かれた看板が見えるようになった。運転しながら看板を見たなまえが「もうすぐ着くね」と楽しそうに言う。「結構走ったね」そう言うとなまえは「そんなに走った?」と言った。「出発するとき八十キロくらい距離あったよ」「じゃあ結構走ったんだ、わたし」走り切る頃にはなまえが疲れ切ってしまうだろうと思ってはいたけれども、なまえはまだ元気そうだった(運転でナーバスになっているから元気よく見えるだけかもしれないが)。
減速して海浜公園の駐車場に入ったなまえが、駐車場を探してゆっくり車を走らせる。道路を走ってきた時には車の姿が全く無かったというのに、海浜公園の駐車場は、けっこうな数の車で埋まっていた。今まで見えなかった人の姿が急に見えるようになったので思わず驚いてしまった。「止める場所無いねえ」なまえはそう言うけれども、正しくはなまえが安心して車を止められる駐車場が無い、というのがきっと正しい。一つだけ空いた駐車場はぽつぽつと見つけられるのに、そこに車を止めようとしないのはなまえが駐車に慣れていないからだろう。広い駐車場をゆっくり走り、駐車場の入口からも、海浜公園の入口からも随分離れたところにスペースがふたつ空いた駐車場をようやく見つけたなまえが「ここに車を止めます」と言った。「もっと近いところに止めれば?」となまえが車を止められないことをわかりながら意地の悪いことを言うと、なまえは渋い顔をしていた。

「隣の車にぶつけて弁償しないといけなくなるのは倫太郎も嫌でしょ?」
なまえだけで弁償してくれるならそれでいいよ」
「全然良くはない」

車庫入れをするなまえの危なっかしいハンドルさばきを、ただ見ている。「次は右にハンドルを切る」と言った後で「うそ、左だった」と言って慌ててハンドルを動かしてパニックになっているなまえを眺めるのが面白かったので暫く眺めていたけれども、なまえが車を止められる気配は全くと言っていいほどなかった。十分程度、助手席に座ったままなまえが車庫入れをするのを眺めていたけれども、なまえが車をとめられる気配が無かったので口を出してしまった。「運転かわって」そう彼女に言ったけれども、なまえは黙って首を横に振った。さらにそれから五分後、ようやく車が駐車場に収まったと思って車を降りてみると、車は駐車場の白線を大幅に乗り越えていたので流石にこれはダメだなと思った。車を降りたなまえが渋い顔をしているのを見た後、なまえに「俺やるね」と言えば、今度こそなまえは何も言わなかった。空っぽになった、乗り慣れた運転席に座り、駐車場に車を入れる。車の外、駐車場の邪魔にならないところで己の車庫入れを眺めていたなまえが、どこか申し訳なさそうな顔をしているのを車の中から眺めていた。車から降りてなまえのところに行くと、なまえは「ありがとう」と申し訳なさそうに言ったあとで、「何で車ちゃんと入るの」とぼやいた。わたしのときは全然車入らなかったのに、というなまえに「これはもう慣れかな」と言えば、なまえは「そう」とだけ言った。そうして、思い切り背中を伸ばしたあとで、「腕が痛い」と言った。「あれだけ力入れてハンドル握ってたら痛くもなるだろ」そう言うと、なまえは「握ってたら勝手に力が入るんだよ」とぼやいていた。なまえと海浜公園の白い砂浜を眺め、西の際に太陽が沈むのを眺めながらふたり手をつないで海岸沿いを散歩した後で、己らは自分の車に戻った。駐車場にとまっていた車は随分と数が減っていて、夕暮れの橙色と相まってほんの少しだけ寂しい。いつもの癖で運転席に座ってシートベルトを締めてしまったあとで、そういえば、今日はなまえが運転する日だったと思ったけれども、助手席に座ったなまえが何も言わなかったのでそのまま車を走らせた。つい先ほど、己らが車を走らせて来た海沿いの道を逆向きに走る。橙色の西日が、海を燃やしているのがひどく眩しかった。「そういえば俺、帰り運転しちゃってるけどいいの?」そう、しばらく車を走らせた後で、助手席のなまえに向かってそう話しかけたけれども、なまえからは何も返事が帰ってこなかった。「なまえ」そう、彼女の名前を呼んでも返事が来なかったので、ちらりと助手席の方を盗み見ると、なまえは助手席でゆっくりと寝息を立てていた。これだけの距離を運転したら疲れもするだろうと助手席で眠るなまえを見てそう思った。「おやすみ」そう助手席のなまえに向けて言ったところで、彼女からはしずかな寝息が零れるばかりで、返事は何も無かった。
2021-09-05