小説

うまくいかない話#6

 高校を卒業したあと、大学入学を機に実家を出た。通う予定の大学は実家から通える範囲にあったため、わざわざ兵庫の実家を出て一人暮らしをする必要など無かったのであるが、両親にひとり暮らしの経験だなんだと理由をつけられて実家を追い出されてしまった。アパートの家賃の支払いや生活費の仕送りは実家からの援助があるとはいえ、自分の生活の面倒は自分でみなければならなくなってしまった。家族と暮らしていた家から出て、ひとりきりの生活になってすぐのうちは家で口やかましく言ってくる人間が誰一人いないことを快適に思っていたけれども、行ってきますの挨拶やただいまの挨拶をしたところで返事が帰ってこないことに少しだけ家が恋しくなることもあった。平日はアパートから学校に通っているけれども、週末の休みの日はなんだかんだ理由をつけて結局のところ実家に帰っているのだから、両親の言うひとり暮らしの経験というものが彼らの期待通りの物になっているかどうかはわからない。
 毎日大学に行き、授業を受けた後にバレーボールの練習をしてアパートに帰る頃にはすっかり空は暗くなっていて、街灯の薄青い灯のもとを歩きながら帰る。学校の目と鼻の先にある古いアパートの自分の部屋に着いたら、夕食の準備をして食事をとったあと、家事をやったらじわじわと眠気がやってくるので風呂に入ってそのまま寝るというような生活を送っていた。週末の練習のない日、そう遠くない実家に帰ったときに家事を自分でやらずに済むことに解放感を覚える。自分で何もしなくとも勝手にご飯が出てきて、洗濯が終わっていることを思えばありがたみというものが身に染みるし、生活のことで母に口うるさく言われる程度のことと、家事の面倒くささを天秤にかけると、小言を言われるくらいであれば十分におつりがくると思った。新生活にようやく慣れてきた頃には、桜の花はすっかり散り、夏の足音が聞こえ始めていた。桃色の花を散らした後の桜の木が、青々とした葉をつけて空に向かって枝を伸ばしているのを見ながら学校に通うようになり、日差しは春の柔らかなものから夏の肌を刺すようなものに変わりつつあった。そろそろ夜眠るときに部屋の冷房を入れようか悩み始めたころのことである。朝早くにアパートの古いインターホンのベル音が鳴った。一度、インターホンが鳴った時に無視してしまえばいいと思ったけれども、インターホンは何度も鳴った。何度もやかましく鳴らされてはたまらないと、慌てて布団から飛び出して、「はい〜」と返事をした後に、やかましいわと思いながら玄関先に向かう。バレーボールの練習のないオフの日だから昼まで寝て夕方に実家にでも行こうかと思った日に限って、こうして朝から客がやってくる。宅配の荷物か、それとも先日家に招いた大学の同級生でも来たか、と思いながら玄関扉を開けると、そこには女がひとり立っていた。学友でもなんでもない、知らぬ女のすがたがそこにはあった。女の頭からつま先までを眺めたけれども、その女に心当たりはなかった。知らぬ女は、ニコニコ笑って玄関先に立っている。残る心当たりは、己の熱心なファンくらいだった。自分の家のことを誰にも伝えていないというのに、ファンという生き物は己の私生活にまで食いこんでくるのかと、この良く知らない女のせいでたたき起こされたことに対する不快感が湧き上がってきて自然と眉間にシワが寄った。「誰や」そう、女に言う前に、女の方が「侑、おはよう」と言った。「侑」そう己の名前を呼んだ声は己のよく聞き知ったものだった。熱心なファンでもなんでもない、よく知った女のものだ。驚いて何も言えなくなっていると、女が「侑、元気しとる?」と言った。「お、おう……」化粧っけのない顔しか知らないなまえが、数ヶ月見ていないだけで綺麗に化粧をして、今まで着ているところを見たことがないような綺麗な洋服を着て己の家の玄関先に立っているなど、少しも想像がつかなかった。自分の知らない格好をしたなまえに対して「誰や」と吐き捨てるように言わなくてよかったと心の底からそう思った。寝巻きのジャージ姿に整っていない頭を見たなまえはくすくすと笑う。好きになった女が目の前にいるのにも関わらず、自分の格好のつかなさがあまりにも決まらなくて嫌だったけれども、幼馴染相手に気ィ張ってどないすんねん、と自分の恰好の付かなさに対して心の中で言い訳をした。

「急にごめんなあ」
「……何で家知っとるん」
「治から『これ侑に渡したって』ってお使い頼まれてん」
「おお……」

治からのお使いとしてなまえから手渡されたのは、一枚の封筒だった。その封筒に見覚えはなかった。なまえから封筒を受け取って、その封を破るように切って開けた。中に入っていたのは一枚の手紙で、それ以外は何も入っていないようだった。なまえに見えないように手紙を開くと、そこには「貸しイチ」とだけ、汚い字で書かれていた。先週末、実家に戻った時に治がうんざりするくらい今のなまえの状況を根掘り葉掘り聞いたのがよく効いたのかもしれない(治は「知らんわ」とうんざりした様子で言っていたけれども、己の情けない恋の話に付き合ってくれていた)。

「……なんで、治に会うたん」

己の口から出たのは、その一言だけだった。久しぶりに会ったのだから、もっと言うことも話すこともあるだろうとは思ったが、ようやく口から出たのはその一言だけだった。なまえはきょとんとした顔をして己のことを見た後に、口を開いた。

「昨日実家帰った時に偶然会うたんよ。『俺は忙しくて侑のところ行かれへんから、家が近いなまえが行ってくれ』て言うとったわ」
なまえどこ住んどるん」
「ここから二駅隣のとこ」
「近いな」

なまえは「せやから、治に頼まれてん」と言った。なまえも己と同じように実家を出て一人暮らしをしているということを知らなかった。もしかしたら、なまえが一人暮らしをしていることを教えてもらえなかったことにショックを受けかけたが、己も実家を出たことをなまえに伝えていなかったのでお互い様だと思った。「侑ここに住んどったんやね」そう言うなまえに、「大学そこやからな」と言えば、玄関から見てすぐのところにある大学の校舎を眺めたなまえが「侑がそこの大学にいることも知らんかったわ」と言った。なまえに進学先を伝えていなかったことに気づいて、「言わんかったか?」と今更のことをなまえに言うと、なまえは「知らん」と言った。関西でバレーボールの強い大学としてこの学校の名前は有名であるはずだが、バレーボールにさして興味があるわけではないなまえが知らないのは当然か。

「治から、どないしたん?」
「……契約書あんねん。保証人のところ書かなアカンとこあって、多分オカンからやな」

治から貰った封筒にそんなものは一枚も入っていなかったのであるが、とっさに嘘を吐いた。なまえは「相変わらず仲良いんやね」とくすくす笑っていた。笑うなまえを見ながら、嘘を誤魔化すように頭を掻いたあと、貰った封筒をジャージのポケットの中に無理やり押し込んで隠してしまった。

「もしかして今起こしてしもた?」

己のすがたをまじまじと見たなまえが今更気づいたような顔をしてそう言った。つい先ほどまで布団の中で惰眠をむさぼっていたのは事実で、とっさに「ちゃう」と嘘を吐けるような見た目もしていなかったので(寝起きでそのまま出てきてしまったので、きっと頭はぐしゃぐしゃのままだろう)口ごもってしまった。察したなまえが「もっと遅い時間に来たらよかったな」と言うので、咄嗟に「ええよ、そんなん」と誤魔化すように言った。

「上がっていき、何も出んけど」
「ええの?お邪魔します」

ぐしゃぐしゃの頭に、寝巻きのジャージ姿のまま、なまえを自分の部屋に入れた。昨日寝る前に部屋の大掃除をやっていて良かったと、昨日の自分の気まぐれに感謝した。ワンルームの狭い部屋に置いている座椅子になまえを座らせたあと、洗面台で慌てて髪の毛を整えて、冷蔵庫の中にあったお茶を持ちなまえのところへと戻った。なまえは、先ほどよりは随分と綺麗になっただろう己の頭を見てくすくすと笑った。「変か?」そう問えば、なまえは「カッコいいよ」と言った。「知っとる」そう答えるとなまえは可笑しそうに笑っていた。なまえにそう言われて照れてしまったのを顔に出さないように一生懸命繕ったつもりだったが、うまく繕えた自信はなかった。部屋をぐるりと見回したなまえが、「部屋綺麗やね」と言った。昨日掃除したことを言うと恰好が付かなくなりそうだったのでそれは言わずに「そうか?」とだけ返して、あたかも常に自分の部屋が綺麗であるかのように振る舞った。なまえが自分の部屋についてどんなものを想像していたのかはわからないが、なまえの口ぶりからするともっと汚い部屋を想像していたのかもしれない。なまえが部屋をぐるりと見回すのを見ると、心臓の音が大きく聞こえるような気がした。実家の自分の部屋の中になまえがいるのを今まで何度も見てきたのにも関わらず、このワンルームの部屋になまえがいることに緊張している自分が、そこにはいた。

「治と一緒に住まないんやね」
「……いつまでも一緒にはおらんやろ」
「侑と治はいつでも一緒やったやんか」
「キッショ」

その日以来、なまえは定期的に部屋に来るようになった。なんだかんだ理由をつけて、部屋に入れるようになった、と言うのが正しかった。治に頭を下げて頼み込んで、なまえを自分の部屋にくるように仕向けて欲しいと頼んだこともあった。なまえをデートにでも誘って遊びに行けばいいのに、それが素直にできない自分の情けなさにうんざりすることもあった。これがただの同級生であれば気軽に映画に行こうと誘うことだってできたのに、なぜかなまえ相手だとそれができなかった。それをしようと思うと小っ恥ずかしくなってしまって、うまくいかなかった。自分で料理を作ることだってできるのに、なまえにめしの作り方を教えてくれと頼み込んでなまえを自分の部屋に入れたとき、自分にはこれしかないと思った。できないふりをしていれば、なまえは丁寧に教えてくれた。なまえが料理をする己の手先を見ながら手取足取り教えてくれるときに、いつぞやの同級生が、なまえのことを面倒見がいいと言っていたのを思い出した。確かに、アイツの言う通りなまえは面倒見が良いのかもしれない。もうよく知っている料理の手順をゆっくりなぞるように教えてくれるなまえの話を聴いているふりをしながら、まじめに喋っているなまえの横顔ばかりを眺めていて、なまえの話をあまりしっかり聴いていなかった。出来の悪いふりをしていることも気づかずに、なまえは己がただ不器用なのだと思っているのか、文句も言わずに丁寧に料理の手順を教えてくれた。
 なまえに料理を教えてもらうようになってから一か月が経った。料理もそれなりに形になってきたと満足げに言うなまえを見たときに、もう少し下手なフリでもした方がええんちゃうか、とずる賢いことを考えていた。己の部屋でなまえと作ったご飯をふたりで狭いテーブルを囲んで食べ終えたあと、なまえと並んで座ってテレビを見ていた。世界バレーが盛り上がったせいか、バラエティ番組のゲストにはバレーボール選手が映っていた。雑誌の特集やプレーを見たことのある選手たちが、司会やお笑い芸人たちに促されながら喋っているのをなまえと一緒に眺めていた。「一流のバレーボールプレイヤーはトークもおもろいんやな」そう言った時になまえは笑っていた。

「侑もいつかこういうこと、するんやろか」
「できるとええな」
「でも侑、よう滑りよるから心配や、わたし」

なにがよう滑るや、と思ったけれども大学の歓迎会の時に滑ったばかりだったことを思い出してしまったのであまり強く言い返せなかった。番組が終わり、エンドロールが流れるのを眺めていると、隣に座っていたなまえが動いた。大方、家に帰る準備でもするのだろう。自分の意思とは裏腹に、己の手は勝手に動いていた。立ち上がろうとしたなまえの手をとっさに握って止めてしまっていたのだ。なまえは驚いたような顔をして己の顔を見ていた。立ち上がりかけたなまえが、座ったままの己を見下ろしてくるときの彼女の表情を直視することができなくて、少し視線を逸らしてしまう。「……どうしたん?」そう、沈黙の中でなまえがそう問うてきた。なまえの質問に答えることができないまま、己はなまえの手を握り直した。なまえの手を開いて、指と指を絡めるように手を繋ぐと、なまえはようやく悟ったか、呆気に取られたような顔をして己の顔を見ていた。帰りの準備をしようとしていたなまえは、また己の隣に座り込んだ。なまえが隣に座ったのを良いことに、彼女の身体にもたれ掛かった。「侑、重い」そう言うなまえのことを無視した。自分が今まで心の底に隠していた恋心を伝えるのは、今しかなかった。ここまできては、引き返すことができないと言うのが正しいかもしれない。己が、今までずっとなまえのことが好きだったことをなまえは今の今まで知らなかったのか、それとも知らないふりをしているのかはわからない。こうして、なまえの手を恋人の手でも握るようにやさしく握れば、なまえもただ己が手が寂しくてなまえの手を繋いでいたというわけではないことくらい気づくだろう。

「侑、恥ずかしい」

沈黙に耐えられなくなったなまえがそう口を開いた。一番この場所で恥ずかしさに耐えられないのは、どう考えても己のほうだろうと思うがそれは言わなかった。なまえが「侑、どないしてん、ほんまに」と言った時に「悪いんか」と逆ギレでもするようにそう言った。なまえは「悪くないけど、こういうのやったことないやんか」そう言うなまえに、「高校の時毎日手ェ握っとったやろ」と言えば、なまえは押し黙ってしまった。高校の頃、一緒に家に帰る時に手を繋いでいたことを今更思い出したようにハッとしたような顔をしたあと、なまえは俯いてしまった。

「なんなん、侑クンはわたしのことが好きなん?」
「……好きやったら悪いんか」
「す、好きやったんか……」
「ちゃうかったら家に入れんわ」
「そか……」

なまえは顔を赤くして俯いてしまった。なまえの横顔を盗み見ながら、己はなまえから目をそらして、明後日の方を向いた。告白というよりは限りなく逆切れに近い自分の態度にかっこ悪ゥ、と心の底でそう思った。なまえが「侑は、わたしのことが好きなんや」と呟くのを聞きながら、「何回も言うなや」と吐き捨てるように言うと、なまえが「好きやって、口に出して言えん奴に言われたない」と言われてしまったので押し黙ることしかできなかった。
2021-08-16