小説

ままならない

 なまえと関係性に名前を付けることにしたのは、高校を卒業するかしないかの間際の時期だったはずである。ちょうど、己の進学が決まっていた三門の大学の、一般入試の合格発表があった日のあたりの、春にしては寒すぎて、冬にしては暖かい、そんな日だったはずだ。それから、己は大学に入学し気づけば三年と少しが経っているのであるが、ほんの三年と少しという時間しか過ぎていないというのに、付き合い始めた具体的な日付がひどくおぼろげでぼんやりとしている。自分自身も、なまえもあまり、記念日と言うものに頓着するタイプではないのだと思う。記念日の名目でデートをしたこともなければ、祝いをしたこともない。ただ、そういう記念日のようなものにあまり頓着しない性質なのか、それともその日のあたりが、なまえにとっても、自分にとっても苦い思い出のある日だからしていないだけなのかは分からない。ただ、互いにそれに触れないのだから、そこから先の話をすることはお互いに無かった。ただ、それだけの話だ。
 なまえと己との関係性は、関係性に少しばかり特別な名前がついただけで、実際のところ、己となまえとの付き合い方はあまり、変わってはいなかった。まだそういう、特別な名前が着く前のこと、なまえと己の関わり合いは、高校に入学したあたりから始まっている。高校の入学式の日に初めて話した相手、要するに、入学式の日の指定席の隣に座っていたのが、偶然にもみょうじなまえというおんなであったというだけの話である。ただ、それだけのことで何の特別なこともない始まり方であった。なまえも己も、同じ苗字の人間が同じクラスに二人居たせいで、己らだけでなくクラスメイトにも下の名前で呼ばれていた。だから、友達とか、そうじゃないとか、そういう関係性になったとか、ならないとかというところで「なまえ」「洸太郎」という"名前呼び"が特別な意味をもたらす……などということもなかった。仲が良く見えるふたりの距離や、かかわり方から漂う甘い匂いを、まるで隠していた餌を掘り当てた犬猫のように、思春期の子らは嗅ぎ付けるのが得意であるが、彼らの鼻さえもうまくだまくらかすことができたのだから、己となまえの付き合い方というのは恋人のそれよりは随分と淡泊なのだろう。
 たしかに、そういう関係になるまでにはしていなかったがそういう関係になってからやり始めたことはたくさんあるが(具体的に何が、の話をするのは下世話すぎるだろう)、それでも、己となまえとの付き合い方は、異性の友人との付き合いの延長線上にあるように見えても仕方のないことだろうと思う。友達というには親密すぎて、恋人という関係から漂う甘い匂いはあまり強くはない、淡泊と言えば淡泊であるのだろうが、それでも互いにその付き合い方が性に合っていて、うまいところに嵌っているのだから何ら問題はない。

「おれ、この間諏訪さんの彼女と話したんですよ」
「勝手に話してんなよ」
「嵐山にノート貸してた」

 半荘南風戦、南場四局。己の作戦室に何時ものメンツを揃えて卓を囲んでいた。久しぶりにやるかあ、と言って麻雀をする日はだいたい、深夜まで入れ込むか明日非番であれば朝までやることもある。今日はたぶん、そのまま朝までやるのだろう。二時を過ぎたあたりで冬島さんが伸びをしながら「俺もう徹夜ダメかも」と言い出した。「おっさん」「通る道だぞ」「おれは未だ若いんで」メンツの中で最年少の太刀川と互いに軽口をたたきあっているのを東さんが見て笑っていた。なんだかんだ、一番最後のほうまで起きているのは冬島さんで一番最初に寝るのは太刀川である。寝る子は育つと言うが、太刀川はすでに結構デカいので、これ以上大きくなられても困る。
 半荘戦も、終わりが見え始めている。親の東さんが連荘しなければ今回はうまく勝ち逃げできそうだと思い始めた頃に、太刀川が口を開いた。口を開いている太刀川はおしゃべりの方は器用に進むが、手の方はあまりうまく進んでいないらしい。

「嵐山一年だろ」
「諏訪さんの彼女去年履修登録忘れたって」
「……言ってたわそんなこと。というか、お前が何で知ってんだよ」
「嵐山が美女とお戯れになっている所を見たらそりゃ話しかけるだろ。そしたら嵐山が『諏訪さんの……』って言葉を濁しながら言ってた」
「嵐山困らせんなよ」

 太刀川が卓上の河を睨み付けたまま手が止まっているあたり、安牌を探しているようであるが、手持ちに安牌はないようだ。何を捨てて博打に出るかを悩んでいるのだろう。リーチを掛けている人間は誰もいないが、壁牌の数が大分少なくなっているのだから、聴牌でアガリ牌待ちが殆どなのだろう。かくいう自身もそうであるが。今日は運がそこそこに良かった。手牌には白撥中が三枚ずつ在る上に、現在の状態で両面待ちの聴牌。そのままうまく誰かが振り込めば、役満逃げ切りの気持ちの良い勝利を収めることも夢ではない。上がれなかったとしても振り込まなければそこそこの位置で終わることができるだろう。せっかくやるからには当然、勝ちたいではある。

「……諏訪に彼女居たのか」
「二年って聞いた。俺と同じ学年」
「なんだ、諏訪の彼女は年下か?」
「諏訪さんと同じ歳」
「おまえなんでなまえのこと詳しいんだよ」
なまえちゃん」
「うるせえよ冬島のおっさん」

 太刀川の口から自分のすきなおんなのことが出てくるのは新鮮だった。太刀川の口から出てくるみょうじなまえというおんなの話は、己の良く知るなまえの話である。人のくちから出てくるおんなの像が、自分の知らぬおんなのさまであれば少しの嫉妬の感情やら、何やらが浮かんできてもおかしくないはずであるが、全くと言っていいほどそのような感情が無かった。逆に、太刀川のくちから知るおんなのことが、己の知るさましか出てこないことが新鮮で仕方がない。
 なまえは、一浪して大学に入学しているため、学年で言うと、彼女は一つ下の二回生である。たしかに、入学年度が同じ太刀川と面識があってもおかしくはない。三門の大学は総合大学の中でも規模はそう大きくはない大学のはずだが、学部学科が違えば棟も当然変わる。そのせいか、なまえと同じ大学に居れど、会う機会があるかと言われれば約束でもしない限りはあまり、無い。己が学食に行くことがあっても、なまえは弁当かコンビニでパンを買って食べているらしく、そういうところでの接点も無かった。三年にもなれば、専門学科が増えて共通学科棟よりも専門棟で講義を受けることが大半になってくるが、一年学年を落として入学しているなまえは、共通学科の授業が結構な数残っているので、専門棟のほうに出てくることはあまり無い。そもそも、専門自体が違うのだから、学年が同じであったとしても会う事は少なかっただろう。

「早く切れよ太刀川、長考しすぎだろ」

太刀川はわざとらしいくらいに考え込むようなそぶりを見せて大真面目な顔をして卓上の面々の顔を見た。「……危険牌しかねえ」「振り込めよ太刀川、笑ってやるからよ」そうして迷いに迷った太刀川は捨牌を決めたらしい。「おれはキメる時はキメるぞ」ドラを捨てた。「ドラ切り一番ありえねえだろ」いくら博打と言えどこのタイミングでドラを捨てるやつがあるか。東さんは「豪快だな」と言って笑っている。たしかに、東さんはこの中でも一番、太刀川のような捨て身の打ち方、言ってしまえば、無謀とも思うほどの博打らしい博打のような牌の切り方をしない。「やるな」と冬島さんも太刀川が河に捨てたドラを見ていた。どうやら、誰のアガリ牌でもなかったらしい。「せっかく博打するならこうじゃなきゃな」と得意げに言う太刀川が少しばかり憎い。

「で、諏訪さんの彼女だけど」
「その話まだ続くのかよ」

カン捲りしない限り、海底牌を拾うのは東さんかと、そうぼんやりと思った。時計を見れば、四時にほど近い唐牛で三時台、深夜のほど良い時間から、殆ど朝と言っても過言ではないくらいの時間になりつつあった。自分の順序が回ってくるまでに、河のものと手元の牌とを見比べる。河に三枚出切っている索子を見ていた。これを捨てれば東さんが自摸アガリをしない限りは点数が削られることは無いだろう。冬島さんは、先ほど太刀川が捨てたドラを捨てていた。「太刀川のお陰だな」「うわズル」「さすが攻撃手ナンバーワンの切り込み隊長。卓の切り込みもナンバーワンか」「それ関係ねえだろ」己の順が来た。来た牌で自摸アガリができれば良いとは思ったが、そこまでの豪運はなかったらしい。壁牌から拾って手に持ったのは、風牌の東、河の中に風牌の東は残念ながら一枚もない。安牌が手元になかったら第二の太刀川になっていたのは己だった可能性すらある。

「諏訪さんに勿体ないイイ女って言ったら『洸太郎が超イイ男なんだから釣り合うわたしは当然超イイ女ね』って。あの日はさすがにお腹いっぱいって思った」
「……なまえにそんなこと言われたことねえぞ」
「諏訪さん照れてる?」
「うるせえ」

照れ隠しも良いところ、手に持った牌をそのまま捨てた。「あ」と言ったときにはもう遅い。卓を囲む嫌な大人たちの嫌な笑みが、己に向けられている。手牌の中に、緑色の竹が見える。己が、安牌として取っていた索子はたしかに、河ではなく手牌の中に居た。

「ロン」
「悪いな諏訪、俺もロン」
「うわ、ダブルはキツい」

大三元とかどうとか、勝ち逃げとかそうでないとか、それ以前の問題である。しかも、二人とも満貫で八千点と一万二千点。合計二万点も持っていかれてしまえば、トップから最下位へ転落も夢ではない。しかも、博打で振り込んだならまだマシであるが、そもそも振り込む予定でないものを振り込んでしまったというのも、そんなミスをした原因というものがそういう、好きなおんなにまつわる話で動揺したからという理由であることが、なによりも恥ずかしかった。

「超イイ男は違うな」
「勘弁してください」
「悪い悪い。しかし惜しかったなあ、あそこで振り込まなければ逃げ切れただろ」
「彼女のことで自摸切り自爆するとこ、風間さんにも見せたかった」
「俺怒られる奴じゃねえかそれ」
「ははは。それじゃ、もう一回やろう」

じゃらじゃらと牌が並べられる音がする。その間にも、己の知らぬ顔をしたなまえが「洸太郎が超イイ男なんだから釣り合うわたしは当然超イイ女ね」と言っているさまを思い浮かべた。得意げな顔をして、少しばかり胸を張って言っていても、少し照れながら言っていても良い。「超イイ男の諏訪さん早く」気づいたら準備が終わっていて、オーラスが始まっていた。まさか、あんなに恥ずかしい目に遭っておきながら、さらに好きなおんなのことを考えて卓のことを放り出す形で自爆しようとしていたことを馬鹿と言わずなんと言えば良いのか。少なくとも、超イイ男は好きなおんなのことで動揺して危険牌を自摸切りしたりはしないだろう。そう、ぼんやり考えながら手牌を切った。

「頑張れよ、諏訪。一位を狙うなら最低でも三倍満ロン上がりだな」
「超イイ男の諏訪さん超イイとこ見せて」
「うるせえ」

 この一局が終わったら何をしよう。とりあえず、先に仮眠をとることは決まっている。問題は、そのあとのことだ。仮眠から起きたら、十五時まで学内で講義を受けているなまえを捕まえて、どこかに行くのも良いだろう。どこかに行かずとも、学内で会う事がそう無いのだから、学内のカフェテリアで会うのも良いかもしれない。特段、なまえと会う約束をしているわけではないが、やはりそういう話をしたせいか、なんとなく会いたいと思う。
 時刻はすでに、四時を回っている。新弓手町駅の始発の時刻もちょうど、今頃だろう。朝にしては早すぎる時間、夜にしては遅すぎる時間の今頃、アイツはまだ、布団の中でやさしい寝息を立てて眠っているのだろうか。こうして、夜の延長をして卓を囲んで騒がしくしている己らにも、布団の中で優しい寝息を立てているおんなにも、朝はひとしく訪れるのである。
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