小説

うまくいかない話#5

 高校卒業後、己らきょうだいとなまえは、それぞれ別の道へと歩いていくことになった。治はめしの仕事をするための学校に進学することが決まり、己は大学に行きながらバレーボールを続けることになった。なまえは、放課後真面目に居残りをして勉強をしていたおかげか、志望していた大学への進学が無事に決まった。己らきょうだいも、なまえも関西近辺で生活することには変わりなく、会おうと思えばいつでも会える場所に居ることには変わらないが、次の進学先には治も、なまえもいない。中学も高校も、また三人一緒かとうんざりしていた時期もあったけれども、いざいなくなると思うとほんの少しだけ寂しくなる。己らはいずれ違う道を歩くことになることくらいわかっていたはずだった。彼らと離れることをほんの少しだけ寂しく思うあたり、それをはっきりと自覚ができていなかったのかもしれない。
 春高が終わり、部活の送り出し会が終わってしまえば、もう放課後遅くまで残る理由がなくなってしまった。毎日、夜遅い時間だからと言い訳をしてなまえの手を引いて一緒に帰っていたのに、その言い訳が必要なくなってしまった。なまえも、受験が終わってしまったので、勉強のため学校で遅くまで居残りをすることが無くなった。己もなまえも、ショートホームルームが終わったあと、教室からすぐに出て、下駄箱に降りて家に帰るようになってしまった。もう、なまえと一緒に帰ることはないのだろうと思っていたその日の放課後、己のクラスよりも早くショートホームルームが終わったはずのなまえが、下駄箱で携帯電話を操作して突っ立っているのが見えた。携帯電話の画面をじっと見ているなまえに声をかけると、携帯電話の画面に夢中になっていたなまえが顔を上げて、「侑、やっと来た」と待ちくたびれたと言いたげな様子でそう言った。なまえは家に帰らずに、どうやら己が降りてくるのを待っていたようだった。もう一緒に帰ることがないと思っていたなまえが待っていたことが嬉しかったのにもかかわらず、口から出たのは「どないしたん?」というなまえを突っぱねるような言葉だった。なまえはキョトンとした顔をしたあとに、「いつも侑と帰っとったから、待ってもうた。……早う帰ればよかったわ」とあからさまに拗ねてしまった。ツンとそっぽを向いてしまったなまえの機嫌を取らなければならないというのに、胸の奥がじわじわと暖かくなるのがむず痒く、うまく言葉が出てこなかった。なまえが自分のことを待っていたと言うことが彼女の口から語られたことが嬉しくてたまらないのに、それを口に出しては格好がつかないのでそれを言わないように口を固く結んでしまったので、なまえに対して何も言えなかった、と言うのが正しい。なまえの前で頬が緩むのを隠すために無理やり表情を固くしていたせいで、なまえは己が迷惑そうにしているのだと勘違いしたのか、「……帰るわ」と言ってひとりで帰ろうとしていた。「ちょ、待ちい」帰ろうとするなまえを慌てて引き止めると、そっぽを向いていたなまえがようやく、こっちを向いた。

「なん?」
「俺と帰るんやろ」
「一人で帰るわ」
「帰んな」
「なんやねん、迷惑そうにしよった癖に」
「迷惑ちゃうわ。……俺が靴持ってくるまで帰んな」
「待つから早う靴履きや」

下駄箱でため息をついて待つなまえを横目で盗み見た後で、なまえが己と一緒に帰ろうとして待っていることについて、心の中で喜んだ。鼻歌でも歌いたい気分だったが、そうまでしてしまえばなまえに対する自分の恋心が人に知られてしまうと思ったのでそれはしなかった。すれ違いざまに帰りの挨拶をしてくる同級生に上機嫌で挨拶を返しながらスリッパを靴箱に片付け外履きを持ってなまえの待つところに戻れば、なまえは「なんや侑、さっきまでエライ機嫌悪そうやつたのに、上機嫌やんか」と言ってきた。なまえが待っていたことが嬉しくて機嫌が良くなっていることなど、口が裂けても言えなかったので「なんもない」と嘯くことしかできなかった。
 放課後、なまえと一緒に帰る約束をしていたわけではないが、なまえが下駄箱で己のことを待っていることもあれば、逆に、己がなまえのことを待つこともあった。しかしながら、そのような日は長くは続かなかった。己らは高校三年生で、いずれこの学校を卒業する。春高が終わり、部活を引退したあとただ時間を消費するためだけに学校に行く時間はそう長くは続かなかった。だらだらと時間を過ごしているうちに、自分の教室の黒板に貼られた卒業式までのカウントダウンの数字がいよいよ残り一日になっていた。卒業式の当日は式の後、それぞれのクラス会がある。だから、なまえと一緒に学校から帰るのは、今日が最後だった。教室を出て下駄箱に向かう時に通りかかったなまえのクラスは、まだショートホームルームが終わっていないようだった。遠目に見える黒板に書かれた卒業式の持ち物をぼんやり眺めながら、なまえの教室を通り過ぎて下駄箱に向かう。今日は己がなまえのことを待つ番だった。下駄箱の隅で携帯電話を触りながら時間をつぶしていると、十分くらい経った頃に「侑」と声を掛けられた。携帯電話の画面から顔を上げると、そこにはなまえの姿があった。彼女は、なまえのクラスメイトの友人と一緒に歩いてきたのか、友人と二言ほど言葉を交わしたのちに、友人とそこで別れて己の方にやってきた。

「友達、ええの?」
「彼氏と帰るんやて」
「ほおん」

短い会話をしたあとで、外履きに履き替えたなまえが「寒い」と言った。季節は春先とはいえ、未だ冬の冷たい空気があたりには漂っている。鼻先を凍らせるような空気に、なまえが肩を窄めているのを眺めていると、なまえは「侑は寒くないん?」と問うてきた。「寒い」そうなまえに言うと、「侑は寒そうに見えんから」と言った。なまえは制服の上からコートまでしっかり着こんだ上にマフラーまで巻いているが、己は制服の上からマフラーを巻いているだけだった。なまえから見ればたしかに、寒そうに見えるのかもしれない。

「……帰ろか」
「うん。待たせてごめんね」
「ええよ」

そう言って、なまえの手を取った。まだ同級生たちの多く残っている学校の下駄箱からなまえの手を握るのは、初めてだった。なまえは握られた手を不思議そうな顔をして眺めながら、くすくすと笑っていた。「なん」そう思わずなまえに言えば、なまえは笑いながら「侑クンは甘えんぼやなて思って」と言っていた。そう言いながらも、己の握った手を、なまえの小さな手は握り返してくれた。外が寒いせいか、なまえの掌は暖かいというのに、指先は随分と冷えていた。なまえの指先を暖めるようにぎゅっと握ると、なまえは無邪気に「侑の手はあったかいな」と言うのであるが、己がこうしてなまえの手を握るのは、彼女に対する下心を一生懸命に恋心で塗りたくって隠した願望があるからということには微塵も気づいていないようだった。なまえの手指の先は少し冷たかった。もう、この手を握れるのは今日くらいしかないだろうと思うと、なまえの手を握る己の手に自然と力が入った。なまえは握られた手を見ながら「どうしたん」と不思議そうな顔をしていた。しかしながら、それを無視して握り続けていれば、もう何も言わなかった。ふたり、手を繋いで歩きながら些細な会話を二言、三言交わした。なまえがもう着なくなる制服を近所の中学生にあげる話をしたときに、己が今着ている制服も後輩にあげることになっていることを思い出した。それをなまえに言うと、「後輩にあげるなら、侑のボタンは誰も貰えんなあ」と冗談めかして笑って言うので、心臓に悪いことを言わないで欲しいと思った。なまえが自分のボタンを欲しがっているように聴こえたので舞い上がりそうになってしまった。脈打つ心臓の音がなまえに伝わりませんようにと思いながら、「……なんや、ボタン欲しいんか」と至って冷静な調子で(これは、己がそう思っているだけである)問えば、なまえは「わたしやない。侑のファンおるやんか、沢山」とハッキリ言ったので、少しだけなまえとの脈があるかもしれないと思ったのに、それがすっかり無くなってしまったような気がして勝手に落ち込んでしまった。

「制服着とる間にユニバ行きたかったわ〜」
「行けばええやんか」
「明日卒業やで、卒業した後に制服きたらコスプレになるやんか」
「バレへんバレへん」
「ちゃうくて、彼氏と行くやつやりたいやんか」
「そら残念やな」
「今彼氏できたら今からでもユニバ行くんやけどな」

そう夢物語を語るなまえに、自分の想いを告げることすらできず適当な相槌を打つことしかできなかった。一緒にユニバに行こうやと誘ったら、なまえは一緒に行ってくれるのだろうか。「侑は彼氏ちゃうやろ」と言って笑われてしまうかもしれない。なまえに誘いの言葉ひとつかける勇気もなく、ただ相槌を打つだけの自分について格好つかんなと思いながら、自宅に向かうバスに二人で乗った。二人がけの狭い座席の奥、窓際の座席になまえを押し込んで隣に座る。携帯電話を隣で弄っているなまえを横目に見ながら、自分の携帯電話を触った。明日の卒業式の後の打ち上げの連絡が来ていたけれども、今はそれに返事をする気にはなれなかった。

「侑のクラスは明日なんかやるん?」
「焼肉」
「うちはボウリングの後バイキングやて」
「ほーん」

自宅最寄りのバス停でバスを降りて、なまえと自分の家の前までの帰路を歩く。なまえの手をもう一度取ると、なまえは「ほんま好きやなあ」と困ったように笑いながら手を繋ぐことを許してくれた。「こうしてると、ちいちゃいころ思い出すわ」そう無邪気に笑うなまえを眺めながら、彼女に自分の恋心を伝えるのであれば今しかないだろうと思っていた。なまえは相変わらず己の下心どころか、恋心にすら気づいていないようだった。ここまであからさまに好意を示しているというのに、好意に微塵も気付かないのか、はたまた気づいているくせに気づいていないふりをしているのかはわからないが、なまえがあまりにも平然としているので心が折れそうになってしまった。家の前に着いた時、別れ際になまえから先に手を離されてしまった。その手をもう一度掴もうとしたけれども、己の手は虚しく空を掴むだけだった。「またね、侑」そう言って、なまえは自宅の玄関のドアを開けて家の中へと消えて行った。なまえに想いを伝える間もなく、己は消えて行ったなまえの後ろ姿を、ただ呆然と見ることしかできなかった。
2021-08-09