小説

うまくいかない話#4

 なまえのことを異性のおんなとして見るようになってから、なまえに対して抱く感情は以前のものとすっかり変わってしまった。学校という風景の中に溶け込んでいたはずのなまえが、急に色を持ってしまったかのように、学内でなまえとすれ違うたび、なまえのほうに自然と視線が吸い寄せられてしまうようになった。休み時間にトイレから戻った帰り、なまえが友達と連れ立って廊下を歩いているのが見えた。己が、なまえのことを見ていることなど少しも気づかないまま、なまえが友達とおしゃべりをしながらすれ違い、どこかへ歩き去ってゆくのを目で追いながら、なまえがこちらを見てくれないかと願った。願いはむなしく、なまえがこちらを見ることはなかった。何度廊下ですれ違っても、己の気持ちなぞ少しも知らないなまえがこちらを向くことはなかった。ついに、しびれを切らしてしまった己はすれ違いざま、「なまえ」と彼女の名前を呼んでしまった。名前を呼ばれたなまえは目を丸くしてようやくこちらを向いた。「どうしたん、侑。忘れものでもした?」俺が忘れ物をした前提かい、と思ったけれども、なまえがこちらを見てくれただけで満足してしまったのでそれは言わなかった。なまえと一緒に居る彼女の友達が、少し不安そうな顔をして己となまえを交互に見ていた。別になまえをイジメたりせんわ、と思うがそれも口には出さなかった。「……何もない」特に用事があって話しかけたわけではなかったので、自分から話しかけたくせにそうなまえに答えると、なまえは不思議そうな顔をして「そう」とだけ返事をした。そうして、友達に「行こっか」と話しかけて立ち去ろうとしていた。なまえの友達は、なまえと己を見たあと、少し居心地悪そうな顔をして「宮くん、ええの?」と問うていたけれども、なまえは「ええよ」と即答していた。なまえと一言だけの短い会話ができたということですっかり舞い上がってしまったのであるが、それを表情に出さないようにうまく繕おうとしたせいで表情が硬いものになっていた自覚はあった。なまえの友人からしてみれば、なまえのことを睨んでいるように見える男にしか見えないのだから、なまえの友人が不安そうな顔をするのも仕方のないことだろう。なまえたちとすれ違いざま、なまえの友達がなまえに「宮くん、知っとるん?」と小声でなまえに問うた。なまえは、「侑?」と己の名前を読んだ時、心臓が急に脈を打った。「侑と家隣やし、話すよ」なまえがそう友達に言っているのが聞こえた。なまえの友達は、ちらりとこちらの方を見た後に、「へえ、そうなんや」と言ったときの表情が、先程の不安そうなものではなくどこか安心した様子の柔らかいものになっていたので少しだけ安心した。なまえと友達が連れ立って歩き去るのをなまえの背が見えなくなるまで見つめたあとで、俺は一体何をしとるんや、と思いながらあたりを見回した。幸運なことに、あたりに人影はなかった。なまえに気があるクラスメイトが今の自分の姿を見ていないことにどこか安心している自分が、そこにはいた。
 人のことを好きになるということが、なまえに対して抱く感情であるかはよく分からないでいる。漫画の世界では明確な"好き“と言う形が描かれているけれども、それに比べて己の抱えている感情というものはひどく邪で決して綺麗なものでは無かった。性欲の混在する、薄汚い感情でしか無いと思うが、それを"好き"というのであれば、きっと己はなまえのことが好きなのだと思う。なまえに対する性欲という劣情の入り混じった好意というものを自覚してから、希薄になっていたなまえとの関係性は、昔のように戻りつつあった。正しくは、自分から子どものころのように、なまえに話しかけるようになったからよく話すようになっている、と言うのが正しいのかもしれない。
 部活が終わったあと、委員会で遅くまで残っていたなまえと一緒に帰るようになった。練習が終わった後、なまえが委員会をやっている教室の明かりがついているかどうかをわざわざ校舎が見えるところに行って眺めた後、教室の電気が消えていたらそのまままっすぐに家に帰るが、明かりがついていたらなまえに会えるかもしれないと胸を躍らせていた。自分の靴は体育館に持ってきているからわざわざ下駄箱にいく必要もないというのに、早足で下駄箱に行ってなまえの靴箱を覗き、なまえの靴がまだ残っていたら、なまえが下駄箱にやってくるのをそこでじっと待つ。下駄箱でスマートフォンをいじりながら時間をつぶして、委員会を終えたなまえが下駄箱まで降りて来た時に、偶然を装い「今帰りかい」と話しかけて、なまえと一緒に家に帰る。自分なりに考えた、なまえと一緒に帰るための自然な流れだった。なまえに気があるクラスメイトが時折、なまえを家まで送るそぶりを見せることがあったけれども、それを無視して「俺ら家隣同士やから、もう帰ってええよ」と言ってソイツを帰らせていた。ソイツは、恋心を知っているなら気を遣えという顔をしていたけれども、何度か邪魔に入ってやれば、相手の方が己の気持ちを悟ったか、察したのかは知らないが、それからソイツの姿を見ることはなくなった。最初は少しだけ悪いとは思ったけれども、その感情はだんだん薄れていった。ただの幼馴染の男が少し間に挟まってきただけで身を引くくらいなのだから、ソイツのなまえに対する想いはその程度のものだったのだろうと思うようになった。相手の恋心を知りながら自分の幼馴染としての立場まで上手く使おうとする自分のことを、卑怯だとは思わなかった。なまえは、男と男の間で見苦しい駆け引きが行われていることなど露ほども知らず、「最近侑とよう会うね」と呑気に言って笑っていた。「侑が部活を始める前まではよう一緒に帰っとったなあ」と昔を思い出すように言うなまえに、適当な相槌を打った。意図的になまえに会おうとしているのだから会うのは当然だ、と思うけれどもそれは言わなかった。なまえにそれを知られてしまうと格好がつかなくなるので、なまえには知られたくなかった。

「部活終わって自主練したらこんな時間や」
「治は一緒ちゃうの?」
「治は先帰りよった」

本当は、まだ残るから治は先に帰れと言って家に帰しているだけということを、なまえは知らない。己が、なまえとの接点を少しずつふやしていったところで、なまえはそれをあまり気にしていないようだった。なまえの目には相変わらず、幼馴染としての宮侑のすがたが映っているのだろう。高校三年生になる頃には、なまえが学校に残っている理由は委員会ではなく、受験勉強のための居残りになっていった。相変わらずバレーボールを続けていたこともあって、なまえが家に帰るタイミングと、己が家に帰るタイミングは重なっていた。結局、遅くまで残っているなまえを、部活終わりに迎えに行くという状況は変わらず、なまえと一緒に帰る日は続いていた。なまえと一緒に帰る約束をしたわけでもなく、ただ勝手になまえのことを待っていただけなのに、部活終わりのあとスマートフォンを確認した時、なまえから「今日は早く帰ります」というメッセージが残っていたのを見て、なまえの中で己と一緒に家に帰るのが当たり前になりつつあることを喜んだ。なまえは、ただ幼馴染と一緒に家に帰っていると思っているのかもしれないが、その実邪な下心があると言うことを彼女は知らない。なまえと一緒に家に帰ることが長く続くと、今度は外野が勝手に己となまえについて、関係性を好き勝手に想像し始めた。「侑とみょうじさん、付き合っとるん」それを直接的に聞かれたことはなかったけれども、己ら二人を見る他人の視線は、はっきりとそう問うていた。それらに対して見せつけるように、なまえの手をとって家に帰るのであるが、なまえはただ己がじゃれついているように見えているのか、「なんや侑、手ェ握ってきよって」と照れ臭そうに言いはするけれども、拒絶はされなかった。なまえと一緒に家に帰ってきた後、自分の部屋に荷物を置いたときに、先に家に帰ってきて部屋でゲームをしていた治が、「なあ侑、なまえと付き合うとるのってホンマなん」と聞いてきた。それに対して肯定も否定もせずに「どうなんやろな」と言ったときに、治は信じられないようなものを見る目で己のことを見ていた。なまえのことを恋愛対象としてみることができないとはっきり言っていた治のことだから、なまえに対して少しでも気があることに引いてしまうのは無理もない話か。
2021-07-24