小説

うまくいかない話#3

なまえは無いわ」

なまえはそういうんちゃうし、と言ったのは自分と同じ顔をしたきょうだいだった。二限目の後、少し長い休憩時間に、治が前の授業で使った現代文の教科書を返しに己の教室にやってきた。己の前の席の、そこそこよく話すクラスメイト(以前、教室で漫画の話をした後になまえのことを話した奴のうちのひとりである)の面倒な話に付き合っている最中のことだった。治は、現代文の教科書を返したあと、すぐに教室に戻るかと思いきや、空席になっていた己の隣の席にどっかりと腰を下ろした。「何話しとるん」そう治が言ってきたときに、治も変な面倒ごとに首突っ込むなあ、と思ったけれども首を突っ込んできたのは治だし、自分の面倒ごとが少し減るのであれば、治も巻き込んでやれと思った。なまえの苗字を出したソイツに、治はあからさまに面倒くさそうな顔をして、「なんや、なまえのハナシしとったんかい」と言った。「幼馴染なんやろ」「おう」「ええなあ」「なまえの何がええのか俺には分からん」「侑はありがたみっちゅうもんを忘れてしもうたんや、薄情モンやな」「俺も分からんわ」「治もかい」ソイツはあからさまにがっかりしたような顔をしていたが、どこか安心しているような表情をしているようにも見えた。ソイツは、治の方を見て、「みょうじさん、どうなん」と問うた。「どうって」「好きなんか?」「ハァ?」その話の流れから、冒頭に戻る。治が「なまえは無いわ」そう、仏頂面で言う治を見て「ほれ見い」と思った。「なまえは俺からしてみれば侑とおんなじや」そう治は言った。治がなまえのことを、異性の女ではなくきょうだいとして見ていると、そう言ったのだ。己ら双子となまえは正しくきょうだいではないが、似たようなものだ。クラスの女の子や、今話しているソイツよりは気を使って話すことはなく(そもそも、人と関わる上であまり気を使うことはないのであるが)、話す時も家族と会話をする時のような感覚だった。なまえに対して、遠慮をするということが、己らには全くと言っていいほど無かった。遠慮というものがないから、ぐっすり眠っている最中のなまえを叩き起こすことについても、悪いという気持ちがあまり無い。もし相手がクラスメイトの女の子であれば、できる限り優しく肩を叩いて起こしてやろうとするだろうし、自分の好きな女の子であるならば、気を遣って起こさないでおいて、ぐっすり眠っているところを眺めているかもしれないが、相手がなまえであるならばそんなことはしない。しょうもない用事であれ、遠慮なく治を起こすときと同じように叩き起こす。布団を剥がした後に思い切り体をゆするか、足先で小突いたりすることがあるかもしれない。起きた後のなまえが、「なんなん」と言って嫌そうな顔をしても、痛くも痒くも無い。己にとってなまえというのはそういう関係の相手だった。異性の相手、もっと突っ込んで言えば、恋愛対象の相手として見るには、なまえとの距離はあまりにも近すぎた。恋愛対象としてなまえのことをほんの少しだけ考えてみたが、きょうだいのように接しているなまえのことを今更異性の女だと考えるのは、じぶんのきょうだいをそういう目で見ているような気がして、嫌悪感にも近しい感情が湧いた。治が「オエー」とでも言いたそうな顔をしているのを見るに、少なくとも治はなまえのことをそういう相手として見ることはできないのだろう。己らになまえのことを聞いてきたソイツは、己らそれぞれのリアクションを見て、ほっとしたような顔をしているように見えた。己がなまえと幼馴染であるということを知ってからというもの、ソイツはなまえのことを突っ込んで聞いてくるようになった。そんなになまえのことが知りたいならなまえ本人に聞けや、と思うのであるが、なまえと親しくないからそれも出来ないと言われ、泣き付かれている。そろそろコイツもうっといな、と思いはするけれども、そいつがなまえに気があるのは明白だったのでついつい構ってしまう。ほぼ身内の恋愛事情なんてものは気持ち悪いにも程があるが、下世話な話は嫌いではなかったので面白がって見ているところはあった。治も面倒くさがっているくせに自分の教室に戻らず話しに付き合っているあたり、多分自分と似たようなことを考えているのだろう。実に、きょうだいの濃い血のつながりをよく感じる出来事だった。なまえと己らの関係性がただの幼馴染で、それ以上もそれ以下もないことを確認したソイツは、自分の恋愛における一つの障害がなくなったことに安心しているようだった。そいつから見てみれば、なまえと一番親しいだろう異性といえば己らになってしまうのだから、恋愛事情において気が気でない気持ちも、分からなくはなかった。

「ええなあ、お前ら二人」

そう言うソイツの気持ちは微塵も理解できなかった。そう思ったのは多分己だけではなく治もだろう。ふと外を眺めると、己らが話している教室の前の廊下を、なまえが、彼女のクラスメイトの友人と一緒に歩いている。片手に教科書を持っているあたり、次の授業が移動教室なのだろう。なまえのことを話しているはつゆほども知らないなまえは、己らがなまえのすがたを見ていることにすら気づいていないようだった。そもそも、教室に己らがいることすら知らないのかもしれない。「なまえおるやん」そう、なまえの姿を見ながら言えば、なまえのことを聞いてきたソイツはピンと背筋を伸ばして、廊下の方を向いた。窓際に寄って、なまえが歩いていくのをずっと眺めている。なまえは結局、こちらに気づかないまま、友達と一緒に歩いて行ってしまった。なまえのことをやたら聞きたがったソイツが、なまえの後ろ姿が見えなくなるまで窓から眺めているので、「そんなになまえのこと好きなん?」と今までの会話の流れで聞かずとも分かる恋の話を茶化すように聞けば、ソイツは狼狽えながら「おい」と言ってどついてきた。あれだけ堂々と聞いておきながら、隠してるつもりやったんか。なまえのことがホンマに好きなんか、コイツ。そう思ったのは治も同じだったようで、すべてを察した治は面倒臭そうな顔をしていた。「俺、みょうじさんのこと結構ええと思っとって」そうソイツが既に知っていることを口に出して言った。「なまえなあ……」治は、ソイツの言葉を聞いた後でそうぼやいた。己がそうであるように、治もたぶん、クソガキのようなことをしていた昔のなまえのことを思い出しているのだろう。「みょうじさん、どうなん」そうソイツは問うた。「どうなんて、何が」そう聞き返せば、「普段のみょうじさんのことや、やっぱり面倒見がええの?」そう問われた時に、己が答えるよりも先に治が「面倒見、よかったかいな、アイツ」とぼやいた。「面倒見られたこと無いしな」そう言えば、治は「いいや、侑はなまえに面倒見てもらってたやろ」と言った。あまり身に覚えがなかったので「知らん」と言えば、ソイツは「みょうじさんの恩を忘れよって」と呆れたような顔をして言った。コイツはなまえの何なん、と思うがそれは口に出さなかった。「この間、他の委員会の手伝いしてるの見てん、遅くまで学校残って、えらいええ子やなて思てな、彼女にするならああいう子がええ」そう、なまえのことを言うソイツの話を聞きながら、この間なまえが学校から遅くに帰って来たことを思い出していた。半分カーテンの開けっ放しになったなまえの部屋から見えた、なまえの黒いブラジャー、そして、それに包まれたなまえの豊満な体のことまで思い出した後で、何で今そないなことを考えとるんや、と思い自分の頭から、あの日に見たなまえの女の部分を慌てて追い出した。治は投げやり気味に、「ええんちゃう、悪い奴やないし」と面倒臭さを微塵も隠さずにそう言った。「お前らホンマに何もないんか?」そうしつこく問うソイツに、治が「なんもないわ」と即答した。

「これから先恋愛対象としてみるのもナシやぞ」
「恋愛もクソもあるか、俺はなまえとセックス出来ん」

そう治が言うのを聞いたとき、自分の体温が急に上がったような気がした。まるで、自分が隠していたことが言い当てられて、図星をつかれた時のような気持ちだった。なまえの着替えを見て抜いていたのは誰にも知られていないはずなのに、それが治にバレてしまったかのような気持ちになってしまった。なまえをオカズにしてそういうことをしたのがバレたら、目の前の二人はどんな顔をするのだろう。治は軽蔑するだろうし、目の前で安心しきっているソイツは、己のことを恋のライバルだと思うかもしれない。治はなまえとセックスできないと言ったが、自分はどうだろうか。なまえを自分の好きなように犯すところをオカズにして、ティッシュを取り損なうくらい自慰に夢中になってしまったことを考えれば、己は多分、なまえとセックスすることができるのだと思う。なまえのことを、きょうだいに近しい相手だと思って、なまえの女の部分について気持ち悪いと思っていたけれども、よく考えてみれば、なまえは別にきょうだいではないし、女として見ても何らおかしなことはないはずだった。一度、なまえを女としてみることを正当化してしまえば、後ろめたさがなくなった。抱いていた嫌悪感にも等しい感情は、すっと消えて無くなってしまった。なまえのことを、女だと思わないようにしていたストッパーが消えて無くなってしまった後では、なまえのことを性的な目で見ることに関して悪いと思う理由はどこにもなかった。多分、己はなまえと恋愛することだってできるだろう。「生々しいこと言うなや、教室やぞ」「聞いてきたのはお前やろがい」二人のしている会話が、どこか遠くで話されていることのように聞こえた。自分だけがこの場にひとり、取り残されている。「あんな幼馴染おったらエロい妄想止まらんわ」そう頭に花が咲いたようなことを言うソイツの話を聞いて、治は嫌悪感を隠そうともせずに「お前ホンマキッショイわ」と吐き捨てるように言った。「ホンマにありえへん、なあ侑」そう治が急にこちらに話を振ってきたのであるが、それに対して、なまえで抜いてしまった後ろめたさのせいなのか、治とは違いなまえのことを女として見ることができるせいなのかはわからないが、ハッキリと返事をすることが出来ずに「せやなあ」と曖昧な返事をしてしまった。

2021-07-22