小説

うまくいかない話#1

 なまえというのは、己の実家のすぐ隣の家に住んでいる同じ年の女のことで、幼稚園から小中学校だけでなく高校まで同じ学校に通っていた幼馴染だった。親同士がそれなりに仲が良かったせいか、その家の子であるなまえとも、それなりに付き合いがあった。自分の家の両親が居ないときはなまえの家に治と揃って預けられ、なまえの家の両親が居ないときはなまえが己らの家に預けられて、夕食を一緒に食べてそのまま同じ部屋で眠ったりもした。そういう、家族ぐるみの付き合いをしていたせいか、なまえのことを、治ともう一人のきょうだいのように思っている節があった。誰が兄で誰が弟だとか、誰が姉で誰が妹だとか、そういうしょうもない話で盛り上がり、くだらない喧嘩に発展したことだってある。子どもの頃のなまえは、己らきょうだいと一緒にアホばかりやって、一緒に互いの親に叱られていたのに、中学に入ったころから、なまえとの距離は少しずつ離れていった。なまえはもうそういうアホの遊びをしなくなったのだ。己らきょうだいは揃って懲りずになまえをそういうアホの遊びに誘ったこともあったけれども、なまえは「ええよ、侑と治でやり」と言って誘いに乗ってこなくなってしまった。少し離れたところに立とうとしているなまえのことを、その頃はなんや、つまらん奴やなとしか思っていなかったけれども、今思えば、あの頃からなまえは少しずつ、自分らよりも大人になっていっていたのかもしれない。ペタンコで断崖絶壁だったなまえの胸が少しずつ大きくなっていったのも、それくらいの時期だったような気がする。それに気づいてしまえば、なまえが同じアホをしていたクソガキの女として見ることが出来なくなってしまった。目に見えてなまえが異性の女子になっていくことに、少しの気まずさが無かったかと言われればそれは嘘になる。なまえと喧嘩をしたわけでもないのに、彼女と会わない時間が長く続くと、自然と己らとなまえとの距離はゆっくり離れていった。以前であればなまえも含めて三人で喧嘩をすることもあったが、高校に入る頃には、それも、もう無くなってしまった。なまえに用事があれば話すこともあったけれども、以前ほど多くは話さなくなってしまった。学校で口をきいた回数なんて、ほんの数回程度だった。中学の頃であれば、己ら双子となまえは幼馴染であることを知っている人が大半だったけれども、高校の同級生は、己ら双子となまえが幼馴染であることを知らない人が大半だろう。己も、なまえとの関係性を同級生たちに話すこともなかったし、なまえなまえの友人にそういう話をしているそぶりは見せてこなかった。己らとなまえが幼馴染でそれなりに仲良くしている話を周りの人にしたところで、見た目が派手過ぎる己らと、見た目が地味過ぎて人の波の間に埋もれてしまいそうななまえが、仲良くしているところは想像しづらく誰にも信じてもらえないだろうし、下手したらなまえのことをいじめているように見られるかもしれない。
 なまえとの距離が自然に離れてから、なまえとは喧嘩をしなくなったけれども、相変わらずきょうだいの治とはよく喧嘩をしていた。高校二年生の夏頃のことである。発端は、今思えばくだらない話であったが、喧嘩をしたときの己にとっては重要なことだった。昼休みの時間に、治にひとこと言ってやろうと思い、昼ご飯を食べたのちに治の教室に行った。己の主張に、治は至極面倒臭そうな顔をしたのちに、「なんやねんうっさいわ」と言い放った。「侑のそういう細かいところほんま嫌やねん」と言われてカチンと来てしまい、治に掴みかかった。治の教室で突然喧嘩を始めた己ら双子に、教室に居た生徒たちが沸いた。どこからか噂を聞きつけてきた隣のクラスや、さらにその隣のクラスの生徒たちが集まってくる。「宮兄弟の喧嘩や」「昼飯食う前にやってくれや」人の喧嘩を賭けの対象にすんなや、と思うけれどもそれどころではなかったのでそれは言わなかった。苛烈な喧嘩をする己らを一目見ようと、わらわらと人が集まってくる中で、ギャラリーの頭の間から友達と一緒に喋っているなまえの姿が見えた。「なまえ!」なまえの姿が見えた時、己はすぐに彼女の名前を呼んでいた。なまえの友達ははじかれたように背を伸ばし、ギャラリーの中央に居る己らを指さしながら、なまえの方を不安そうな顔をしてみていた。一方呼ばれたなまえは平然としていて、自分の名前を呼んだ己のことを探しているようだった。彼女の友人の指の先──つまり、己らが喧嘩をしている場所である──、教室の中央でギャラリーに囲まれながら、掴み掴まれ、殴り殴られでボロボロになっている己らの姿を見たなまえは、急に名前を呼ばれたことに驚きはしていたけれども、すべてを悟ったのか、面倒臭そうな顔をしていた。なまえの友達は、急になまえが呼ばれたことを不安そうな顔をして彼女を見ていた。喧嘩を見にきていたギャラリーの視線も、一斉になまえに注がれる。どちらかと言えばクラスで目立つタイプの己らと、地味で埋もれてしまいそうななまえは、積極的に互いに関わりそうに見えないだろうし、中学ならまだしも、高校に入学した後では己らが幼馴染であることを知っている人は殆どいない。なまえは慣れたもので急に声をかけられたのにも関わらず、平然として「どうしたの」と言っていた。殺気立った目をする己ら双子の中に放り込まれた地味な女子生徒を見る周りの視線は、なまえのことを憐んでいるように見えた。なまえがギャラリーをかき分けて己らの方に歩いてくる。「みょうじさん巻き込まれてん、あかんのちゃう?」「先生呼んだ方がええんちゃうか」「いいや北先輩やろ」というどよめきが聞こえた。なまえの友人が、「えっ、ちょっと」と慌ててなまえを止めようとしているが、なまえは「大丈夫」と彼女を安心させるように言っていた。

「なあ、俺が悪いんか」
「おい侑、なまえを味方にしようとすんな」

なまえは「話が何もわからんよ」と困ったように言って己らふたりを見ていた。何もわかっていないなまえに、持っていた消しゴムを渡す。買ったばかりでまだ真新しい消しゴムは、右側の角と左側の角が1箇所ずつ削れていた。これを見せられたなまえは、キョトンとした顔をしていた。何が起きているのかさっぱりわかっていないなまえに、口を開いた。「さっき治に貸してん」貸した消しゴムの新しい角のところアイツ使うてん、そうなまえに言うと、喧嘩を見ていたギャラリーからため息が漏れた。くだらない喧嘩の理由に周りが心底呆れ返っている中、なまえだけは真面目に話を聞いてくれていた。「右側から使うてたん?」「せや」「左側使ったのは治か」「おう」そういう気の抜けた会話をしていると、「みょうじさんアホがうつるで」と、治のクラスメイトがなまえに話しかけているのが聞こえた。己と治、それからなまえの三人の話に外野が割り込んでくるなと思ってひと睨みすると、外野は静かになった。なまえが治の方を向いたとき、負けじと治も口を開いた。

「最初に手ェ出してきたんは侑や」
「治クンが何もせえへんやったら良かったんちゃいます?」
「ハァ?」

ヒートアップする己ら二人に、なまえは「侑も治も、喧嘩せんといて」と言った。外野から言われたことを無視して喧嘩を続ける己らであるが、なまえの場合は別だ。二人揃って大人しくなった己らに、なまえは口を開いた。

「そら治が悪いわ、侑に謝らなあかん。侑も手を出すのはあかんよ、怪我したらバレー出来んくなるやろ」

なまえにそう言われてしまえば、もう何も言えなくなってしまった。なまえに「おう……」と消え入りそうな声で返事をする。なまえは己らに「侑も治も、もう喧嘩せんといて」と言い残して彼女の友達のところへ行ってしまった。「なまえ大丈夫?」「慣れっこや」そう言いながら去るなまえの後ろ姿をぼうっと眺めていることしかできなかった。
2021-07-18