小説

なまえ

 なまえちゃんと話すようになったのは、この学校に入学した年、なまえちゃんと同じクラスになった年の夏、着られているという方が正しかった制服が、だんだん馴染むようになってきたころのことだった。テスト期間に差し掛かり、部活の朝練が無くなった日の朝のことである。いつもより遅くまで寝て、ゆっくり学校に行こうと思っていたのであるが、その日は日直の仕事があったので、少しだけ早く学校に来なければならなかった。朝練で学校に行く時間よりは少し遅い時間ではあるけれども、朝早いことには変わりない。眠い目を擦りながら、己のクラスの下駄箱の中段にある、自分の靴箱の前に来て、上履きを取ろうと手を伸ばしたのであるが、己の手は空をつかんだ。「およ」と思わず喉から声が出てしまった。空を掴んだ靴箱の中を覗き込む。いつもであれば一足、上履きのスリッパが揃って入っているはずなのに、それは忽然と姿を消していた。昨日の帰りに、上履きを持って帰った記憶は無い。週末ならまだしも、今日は週の半ばである。上履きを持って帰る理由が己にはなかった。空っぽの靴箱を眺め、もう一度目をこすって、上履きが入っているはずの靴箱の中身を眺めるけれども、状況は変わらなかった。靴箱は大きく口を開けて、空っぽの中身を己に見せるだけである。姿を消してしまった、今年の春に買ったばかりのまだ新しかった上履きのことを考える。昨日靴箱に入れてから今日の朝までの間に足が生えてどこかへ行ってしまったのか、そう思って近くの靴箱を見たけれども、自分の上履きの姿はどこにも無かった。まさか、治が持って行ってしまったのかと思い、今家を出たばかりだろう治の携帯電話に電話をかけた。「俺の上履き知らんか」そう捲し立てるように治に問うたのであるが、眠そうな声をした治からは「知らんわ」と適当な返事をされたのちに、バスに乗ると言われて電話を一方的に切られてしまった。こうなったらもう治の上履きでも履いてやれと思い、自分のクラスの靴箱の隣にある、治のクラスの下駄箱を眺めた。アイツの靴箱どこやねん、そう思いながら治の上履きを探していると急に声を掛けられた。「宮くん」どこかで聞いたことのある声に、誰や、と思い声のする方を向くと、同じクラスのなまえちゃんが立っていた。朝礼が始まる三十分以上前であるのにも関わらずもうすでに学校に来ているなまえちゃんに、朝練があるわけでもないのにいつもこんな朝早く来とるんかいなと思ったけれども、よくよく考えてみれば、己の今日の日直の相方はなまえちゃんだった。なまえちゃんに「おはよう」と挨拶をすると、なまえちゃんは「おはよう、宮くん」と挨拶を返してくれた。彼女は訝しげな顔をして、じっと己のことを見ていた。「宮くんうちのクラスの靴箱はあっちだよ」と自分のクラスの下駄箱の方を指さすなまえちゃんに、何や、やかましい奴やなと思ったけれども、なまえちゃんの目に映る今の己は、他のクラスの下駄箱を物色している人にしか見えないのだから、彼女がそういう目で己のことを見るのは当たり前のことである。なまえちゃんに上履きが無いという話をしたら、自分がやろうとしていることを察したのか、なまえちゃんに「治くんが困っちゃうよ」と言われてしまった。ごもっともである。「ええねん、あの薄情モン困ればええんや」そうなまえちゃんに言うと、なまえちゃんは呆れたような顔をしてため息をついていた。 「上履き、他の靴箱に入ってないか探してみたら?」 「無かった」 「ご愁傷様」 なまえちゃんは、外履きから上履きに履き替えた後に、教室とは反対側の職員玄関のある方に消えて行ってしまった。時計を見ると、日直の仕事をするまで十分を切っていた。そろそろ自分も教室に行かなければならないことは分かっていたけれども、上履きが無くて困っていると言っている己をここに一人残して先に教室に行ってしまったなまえちゃんのことを、なんや冷たい奴やな、と思ったけれども、なまえちゃんは己のいる下駄箱へと戻ってきた。 「もう朝間に合わんからコレ履いて我慢し」 「おお、ありがとう」 なまえちゃんは来客用の茶色いスリッパを床の上に丁寧に置いた。なまえちゃんは己を見捨てたのではなく職員玄関から来客用のスリッパを持ってきてくれたのだ。前言撤回、なまえちゃんはええ奴やった。普段履いている上履きと違うせいか、気がそぞろになってしまう。このような状況で試験を受けなければならなかったのは少し嫌だったけれども、そもそも勉強を普段からあまりしていなかったせいもあり、試験に集中できようができまいが、試験の結果はあまり変わらないだろうと思った。若干集中しづらい試験時間を三時間ほど過ごせば、その日の試験日程はすべて終わった。明日の試験までに残った時間を有意義に使うためか、クラスメイトたちは帰りのショートホームルームが終わったあと、すぐに帰って行ってしまった。日直のゴミ捨ての仕事をし終えて戻ってきたころには、教室に居たのは教室のカギを締めようとしているなまえちゃんだけだった。日誌と教室のカギを持って職員室になまえちゃんと一緒に向かった後に、下駄箱へと向かう。なまえちゃんは、「宮くん先に帰ってもいいのに」と言っていたけれども、なまえちゃんひとりに日直のことをやらせるのは悪いと思ったのでなまえちゃんに付き添った。下駄箱に向かう途中で、なまえちゃんが「上履き探すん?」と問うてきた。「せやなあ、もうちと探そかな」と答えるとなまえちゃんは「手伝うよ」と言った。「ええの?」そうなまえちゃんに言うと、なまえちゃんは「宮くんかわいそうやしな」と哀れみの目で見られてしまった。なまえちゃんと今まで教室で話したことはあまり無く、彼女のことは何も知らなかったけれども、なまえちゃんはけっこう、イイ奴かもしれない。明日もテストがあるというのに、なまえちゃんは放課後の遅い時間まで上履きを探しを手伝ってくれた。遠く、下校のチャイムを聞きながら、「無いなあ」上級生の下駄箱の下段を眺めながらそう言うなまえちゃんに、下駄箱の上段をなまえちゃんと同じように探しながら、「せやなあ」と答えた。「スリッパ、名前書いとったん?」そう言うなまえちゃんに「書かんかった」と答えると、なまえちゃんは「そらなくなるわ」と言った。「名前書くのダサイやん」そう言えば、なまえちゃんは渋い顔をして己の顔を見ていた。なまえちゃんの履いている上履きの甲表の部分には、今日の学級日誌に書かれていた文字と同じ字で「みょうじ」と名前が書かれていた。目立った癖のない、なまえちゃんの字だ。すべての学年の靴箱を二人で手分けして探したけれども、結局自分の上履きは見つからなかった。「買ったばっかやぞ!」見つからない上履きに対して悪態をつくと、なまえちゃんは「宮くん恨み買うことやったん?」と問うてきた。「無い」そう即答すると、なまえちゃんは「なんや、無自覚か」とまるで人でなしを見るような顔をして己の顔を見ていた。「なまえちゃん、結構言うやん」そうなまえちゃんに言うと、彼女は「冗談や、宮くんの上履き盗む物好きもいるんやな思て」と言った。「怖ァ、でも俺人気者やしなあ」そうぼやくと、なまえちゃんはカラカラと笑った。 「諦めて新しい上履き買い」 「オカンに買ってもらうわ」 「見つからんで残念やったな」 「ほんまや。なまえちゃんも遅い時間までありがとうな」 「いいよ。明日もテスト頑張ろうね」 「後一日あったな、早よバレーしたいわ」 「ほんま好きやねえ」 :  好きな女の子がいる。ほんの少しだけ優しくしてもらっただけで好きになってしまうのはあまりに単純すぎるとは思うけれども、好きになってしまったものはしょうがない。己のことをかわいそうに思ったからかもしれないが、放課後の遅い時間まで上履きを探してくれたなまえちゃんのことを、かわいいと思うようになってしまった。なまえちゃんに上履き探しを手伝ってもらうまで、なまえちゃんのことを少しも気に留めたことがなかったのに、一度気になってしまえばずっと気にしてしまう。休み時間に、教室で友達と喋っているなまえちゃんのことを目で自然と追っていることを自覚するまでそう時間が掛からなかった。授業中に、窓際の席でぼうっと授業を聞くなまえちゃんの横顔を、黒板を見るふりをしながら盗み見たときに、初夏のさんさんとした陽光に照らされるなまえちゃんが綺麗だと思った。今までなまえちゃんの顔がカワイイとか綺麗とか、少しも考えたことが無かったのに一度カワイイと思ってしまえばずっと前からカワイイと思っていたような気持ちになるのだから不思議だ。日直の仕事をきっちり真面目に終わらせていたなまえちゃんのことだから、授業も真面目に受けていると思っていたけれども、授業中になまえちゃんが時々、口に手を当ててこっそりあくびをかみ殺すの見てなまえちゃんも自分らと同じように眠くなるのだろうし、常にきっちりしているわけでもないのだろうと思った。なまえちゃんのことをぼうっと見ていたときに、先生に自分が当てられていることに気づかなかったときは少しばかり恥ずかしかったけれども、なまえちゃんが可笑しそうにくすくすと笑っていたのがかわいかったから、それはそれで良かった。  新しい上履きを買った。しばらく、職員玄関のスリッパを拝借していたけれども、スリッパを履き続けていたことを先生に指摘されてしまった。いい加減に上履きを買えと部活の顧問に指摘されてしまえば、上履きを買わざるを得ない。まだ上履き買ってなかったんか、と治が呆れたような顔をして己のことを見ていた時に、治も上履きを盗まれて困れ!と思ったけれども、それは口に出さなかった。新しい上履きを買ってすぐに上履きが無くしてしまったことを母親に言うのは憚られるものがあったけれども、無くなったものはしょうがないと腹を括って母親に言うと、「買ったばかりなのに」と悪態をつかれてしまった。しばらく、職員玄関のスリッパを借りていたことを言うと、もっと早く言えと叱られてしまった。新しい上履きを買うように頼んだ次の日、母親が新しい上履きを買ってくれた。新しい上履きを買った話をなまえちゃんにすると、「よかったな、来客用スリッパ長かったもんなあ」と言ったのちに、なまえちゃんは、己の履いている真新しい上履きの甲表を見た。そうして、名前が相変わらず書かれていないのを見て、「名前ちゃんと書いとき」と言った。上履きに名前を書くのはダサくて嫌だったけれども、上履きが一度盗まれた後ではそうも言ってられなくなってしまったので、なまえちゃんの言う通りにするべきだと思った。「なまえちゃん書いて」そうなまえちゃんに甘えるように言えば、なまえちゃんは面倒臭そうな顔をして己の顔を見ていた。「お願い」そう手を合わせて、黒いマジックを差し出すと、なまえちゃんは「わたし、字汚いよ」と言った。以前なまえちゃんと一緒に日直をやったときに、なまえちゃんがどんな字を書くかは知っている。なまえちゃんは字が汚いと言っていたけれども、少なくとも己が書くよりは随分字がきれいだった。なにより、好きな女の子に、自分の名前を書いてもらいたいと思ってしまった。マジックを受け取ったなまえちゃんは、観念したのか己の足元を指さして「脱いで」と言った。本当になまえちゃんに名前を書いてもらえると思わなかったので、ダメ元で言ってみて良かったと思った。なまえちゃんに言われた通りに上履きを脱いで、なまえちゃんに渡すと、なまえちゃんは「ここにかくね」と上履きの甲表を指さした。それに首肯すると、なまえちゃんはマジックのキャップを開けて、そこそこの大きさの字で「宮侑」と書いた。まさかフルネームで名前を書かれると思わなかったので、思わず「フルネームかい」と言ってしまったのであるが、なまえちゃんが「宮くんは治くんもおるやろ」と言った。 「漢字間違えてないよね」 「合うてるよ」 宮侑、となまえちゃんの字で書かれた上履きを眺める。「まだ乾いてないからマジックのところ触らんといて」そうなまえちゃんが言うので、なまえちゃんに書いてもらった名前のあたりを触らないように気をつけながら上履きを履く。自分の上履きの甲表に、好きな女の子が書いてくれた自分の名前があると思うと、なんだか足が軽くなるような気がした。毎日、なまえちゃんが名前を書いてくれた新しい上履きを履いて授業を受けられると思えば、退屈な授業もなんだか楽しくなるような気がした。
2021-06-27