小説

好きで悪いか

 一日の最後、古典の退屈な授業が終わった後、決して短いとは言えないショートホームルームを終えてようやく帰路につく。下駄箱を通り抜けて外に出た時に、生ぬるい風が吹いた。ニュース番組が、梅雨に入ったと言っていたのを見聞きしたのはほんの数日前のことで、これからうんざりするような雨の時期が始まるのかと思っていたけれども、今年の梅雨はどうやら雨の日があまり多くないらしい。念には念をで母親に持たされた折りたたみ傘を毎日鞄の中に入れているけれども、それが重し以外の役割を果たしたことは記憶の限り、一度も無かった。日差しは柔らかく、白い入道雲が青い空にぽっかりと浮かんでいる。日差しは未だ春の気配を残しているというのに、空模様はすっかり夏になっていた。ほんの数か月前までは、帰路に着く頃にはすっかり陽も落ちていたというのに、今となっては、青々とした空が広がるばかりで、夕暮れの時間はまだ随分と先のようにも見えた。この調子だと明日も折りたたみ傘の出番はなさそうだ、と思いながら校門へと向かう。途中、すれ違う友人らに軽く挨拶をした。彼らは学校からようやく解放されたせいか、どこか開放的な表情を浮かべているように見えた。
 今日は非番だから、家でのんびりしても良いだろうし、寄り道をして帰っても良いかもしれない。別に理由はないけれども、本部に出かけてもいいだろうと思いながら歩いていると、校門の前にウチの学校とは違う、赤いセーラー服を着た女子学生が立っていた。スマートフォンを器用に操作したと思えば、校舎の方をじっと眺めてみたりとけっこう、忙しそうにしている。この学校に居る彼氏でも待っているのかと思いながら目の前を通り過ぎようとしたときに、そのセーラー服の女子学生がよく知った顔だったので思わず声をかけてしまった。

なまえちゃん、どうしたの」

赤いセーラー服を着た女子学生は顔をあげて、あたりをきょろきょろと見回していた。己が、彼女の目と鼻の先に居るのにも関わらず、己の姿が見えていないなまえちゃんに、「こっちこっち」と彼女の方に歩み寄ると、やっと気付いたのか、なまえちゃんは驚いたような顔をして「澄晴くん」と己の名前を呼んだ。「澄晴クンだよ」そう、調子のよい返事をすると、なまえちゃんはほっとしたような顔をしていた。彼女とはボーダーで会うことが多いせいか、制服姿よりも隊服姿の方が見慣れている。見慣れない赤いセーラー服姿のなまえちゃんを上から下まで眺めていると、なまえちゃんが「変なところある?」と問うてきた。

「いや、ほらあんまり制服姿見ないから変な感じするなって」
「そうだっけ?」
「いつも隊服姿しか見ないから」
「なるほど」

なまえちゃんはどこか納得したような顔をしていた。

「この学校、終わるの遅いね」
「誰待ってたの」
「澄晴くん」
「おれ?」
「そう、”おれ”を待ってた」

今日約束してたっけ、そう彼女に問えば、なまえちゃんは首を横に振った。そうだよね、おれが約束忘れてたりしたわけじゃないよね、と思っているとなまえちゃんは己に「澄晴くんは今日暇でしょ」と言った。なまえちゃんの言う通り、非番だし特にやることもなかったので、「うん」と答えると、なまえちゃんは「じゃあ一緒に帰ろ」と言って己の手を取った。「なんで暇だと思ったの?」そうなまえちゃんに問えば、「辻くんに教えてもらった」とあっけらかんとした調子で答えた。なまえちゃんに話しかけられた時に、彼女の勢いに押されてどもりながら返事をしただろう辻ちゃんのことを考えると少しだけ可笑しかった。

「連絡してくれたらよかったのに」
「学校まで行けば会えるからいいかなって」
「おれがなまえちゃんに気づかないで帰ってたらどうするつもりだったの?」
「澄晴くんはわたしに話しかけてくれると思ったから心配してなかった」
「今度は無視してみようかな」
「どうしてそういう意地悪を言うの?」
なまえちゃんをからかうの、面白いから」

なまえちゃんに手を引かれ、校門から学校の最寄り駅の方へと歩く。なまえちゃんの家も、己の家もこちら側の方向ではない。どちらかといえば、正反対の方向へと歩いている。なまえちゃんに「おれの家もなまえちゃんの家も逆じゃない?」と問うたけれども、なまえちゃんはそれを綺麗に無視して歩いていた。なまえちゃんの後ろから、彼女が器用にスマートフォンのロックを開けるのを眺める。なまえちゃんのスマートフォンのホーム画面に設定されている写真は、いつぞやになまえちゃんに送り付けたおれの、そこそこ綺麗に取れた自撮り写真で、ロック番号はおれの生まれ年の下二桁に、誕生日四桁だった。スマートフォンで地図を出しながら歩くなまえちゃんに引っ張られるように歩きながら、己も自分のスマートフォンを操作する。ホーム画面に映るなまえちゃんの自撮り写真は写真詐欺と言っても過言では無いくらいに別人のように綺麗に映っていて、目の前にいる本物と並べてみた時に「顔違うよねこれ」と言って怒らせてしまったことをふと思い出した。なまえちゃんの生まれ年の下二桁となまえちゃんの誕生日を入力して、スマートフォンのロックを解除したあとで、メッセージの通知を眺める。校門で己を待ち伏せしていたなまえちゃんからのメッセージは一通も届いていなかった。唯一着ていたメッセージは辻ちゃんからで、「みょうじさんに会えましたか?」というメッセージが届いていた。「校門で会ったよ」と辻ちゃんに返すと、「良かったです」という簡素な返事だけが帰ってきた。なまえちゃんに手を引かれたまま、彼女の一歩後ろをついていきながら、「どこにいくの?」そうなまえちゃんに問うたけれども、なまえちゃんは教えてくれなかった。「適当に歩いていれば、いつか着くから」そうなまえちゃんが言うときは決まって、彼女持ち前の方向音痴を発揮して目的地へたどり着く自信がなくなっているときだった。「おれ、いつまで歩けばいいの」そう彼女に意地の悪い質問をすると、なまえちゃんは「目的地にたどり着くまでだよ」と当たり前のように言った。なまえちゃんはスマートフォンを上下左右に持ち方を変えてみたり、目の前の道路や建物を眺めながら、ああでもないこうでもないと言った後に、己に助けを求めるような顔をしてこちらを見てきたけれども、「今日は澄晴くんに頼らない」と言ってまた地図とにらめっこを始めてしまった。そう言われてしまえばこちらから手を出すことは出来ない。目に見えて困っている彼女の背中を、今日の己はただただ眺めることしかできない。そういえば、なまえちゃんは地図を見るのが苦手でランク戦のマップを覚えるのにも随分苦労していたはずだ。今となっては随分慣れたものだけれども、建物が多いところは覚えづらかったようで、地図を覚えるために何度も仮想空間を歩き回ったようなことを言っていたっけ。地図が苦手ななまえちゃんが、「地図覚えるのに時間がかかるから、新天地なんかわたしには無理だね。遠征は夢のまた夢になりそう」と遠征部隊が出発するのを眺めながら、彼女がそうぼやいていたことをふと思い出していた。

「あっ、こっちだ」

なまえちゃんがそう自信満々に言って己の手を引いて走り出した。なまえちゃんに「早い早い」と言ったけれども、一度走り出したなまえちゃんは止まらなかった。ようやく彼女の見知った場所まで出てきたのか、「この通りを行けば大丈夫」と言って己の手を引っ張った。まるで、散歩の時に犬に振り回されている飼い主みたいになってるだろうなと思いながら、なまえちゃんの足に合わせて己も少しだけ走る。なまえちゃんが己を連れてきたのは、古びた喫茶店の前だった。駅前の大通りに面した場所にあるようなオシャレなカフェとは違い、少し入り組んだ細道にある店は、この地に随分昔からありそうな、ずいぶん古びた店だった。この場所であれば確かになまえちゃんが迷うのも無理はないと思う。喫茶店に行くにしても、己はあまり立ち寄らなさそうな店だなと思いながら店の外観を眺めていると、なまえちゃんが元気よく喫茶店に入り、「お姉さんこんにちは、二人でお願いします」と言った。ウェイトレスのお姉さんは「なまえちゃんいらっしゃい」と言った。なまえちゃんはずいぶんこのお店に来ているのか、ウェイトレスのお姉さんと親しげに話している。なまえちゃんに引っ張られるがまま、案内された一番奥の席に座る。店内に客はひとりもおらず、カウンターの前に、決して愛想がいいとは言えないマスターがひとり立っているだけだった。「一緒に帰るんじゃなかったの」そうなまえちゃんに問えば、なまえちゃんは「今日は暇なんでしょ」と言った。暇だとは言ったけれどもまさか急に喫茶店に出かけることになるとは思っていなかったので、財布の中身が少しばかり心配になった。なまえちゃんはこちらの都合などお構いなしで、メニューを広げて見せてきた。メニューに書かれている金額は、高校生の己らには決して優しいとは言い難い金額が書かれている。そういえば、なまえちゃんは市内のお嬢様学校に通う、そこそこ実家が太い家の子であることを今更思い出してしまった。彼女らはこういう、少し値が張るお店に平然と入るのだろうか、と考えたけれどもすぐに考えるのをやめた。なまえちゃんの目の前で堂々と財布を広げるわけにもいかず、テーブルの下で自分の財布の中身を確認した後で、多くを頼みすぎさえしなければ大丈夫そうであることに少しだけ安堵した。

「決めたら教えて」
なまえちゃんは決まってるの?」
「うん。ケーキセットのメロンクリームソーダにする」
「じゃあおれも同じやつにしようかな。ケーキは何がおすすめ?」
「この店のケーキはどれもおすすめだよ」
「へえ」

メニューに乗っていた季節のフルーツのケーキにする、となまえちゃんに言うとなまえちゃんは「いいね」と言ってテーブルに置いてあるベルを鳴らした。先ほど案内してくれたウェイトレスのお姉さんに注文を言うと、お姉さんは人好きの良い笑みを浮かべてカウンターの方へと行ってしまった。

「このお店にきたかったの?」

そうなまえちゃんに問うと、なまえちゃんは少しばかり呆れたような顔をして己の顔を見ていた。なまえちゃんにそう言う顔をされる心当たりがなかったので、「何その顔」と問えば、なまえちゃんは「だって今日澄晴くんの誕生日でしょ」と言った。「誕生日?」そう彼女に聞き返すと、なまえちゃんは首肯した。己の誕生日は先月の丁度今日で、今日ではなかった。なまえちゃんは人の誕生日をスマートフォンのロック番号に設定しているくせに、己の一か月ほど間違えていた。「おれの誕生日先月だよ」そうなまえちゃんに言うと、なまえちゃんは「嘘でしょ」と言った。そう言うならスマートフォンのロック解除してみなよ、となまえちゃんに言うと、なまえちゃんはスマートフォンのロック番号を途中まで入力した後に、「あっ!」と声を上げた。

「でしょ」
「わたし、一か月間違えたみたい」
「そうだね」
「ごめんね澄晴くん」
「いいよ」

そう言うと、なまえちゃんは不満そうな顔をして口を開いた。

「先月なんで誕生日祝ってくれなかったのって言ってくれなかったの?」
「誕生日祝ってくれって自分から言うのは恥ずかしいでしょ」
「そう?」
「そう」

なまえちゃんとそういう会話をしていると、ウェイトレスのお姉さんがケーキセットを運んで来た。くすくすと笑うお姉さんに、なまえちゃんが「なんで笑うんですか」と渋い顔をしていると、お姉さんは「なまえちゃんと彼氏さん、可愛いと思って」と言った。「澄晴くんは彼氏じゃないですよ」そう、なまえちゃんがツンとした態度で言うのを、ウェイトレスのお姉さんは「あら、そうなの」と少し驚いたような顔をしていたけれども、彼女はなまえちゃんの照れ隠しだと受け取ったようだった。確かに、スマートフォンのホーム画面はお互いの写真だし、パスワードだってお互いの誕生日であることを考えると付き合っていると思われても仕方がないかもしれないけれども、己らは特別、男女のお付き合いをしているわけではない。友達よりは距離が近いかもしれないけれども、カップルと言われると少しばかりむず痒い。全く信じていないような顔をしているお姉さんに、なまえちゃんは「もう!信じてないですよね」と言っていた。お姉さんはおかしそうになまえちゃんと己を眺めた後に「ごゆっくり」と言って、伝票を置いて去っていってしまった。なまえちゃんの言う通り、この喫茶店のケーキはとてもおいしかったし、白いアイスの乗ったメロンクリームソーダは、夏に入りかけている今の時期にはとても合っていた。「美味しいでしょ」そう自慢げに言うなまえちゃんに、「美味しかった」と素直に言うと、なまえちゃんは無い胸を張って「でしょ」と言った。「今日は澄晴くんの誕生日祝いだから、わたしが全部出す」そう言うなまえちゃんに、そこまで安くない金額のお金を出させるのもどうかと思ったので「おれ、誕生日今日じゃ無いけど」と言ってお金を出そうとしたけれども、なまえちゃんは聞き入れてくれなかった。「まだ澄晴くんの誕生日を祝ってなかったから、いいの」そう言って伝票を取り上げてしまったなまえちゃんにそれ以上何も言えなくなってしまったので、なまえちゃんにお礼を言った。ウェイトレスのお姉さんは、会計をするなまえちゃんとなまえちゃんと並んだ己を見て楽しそうに笑った後で、「また来てくださいね」と言った。なまえちゃんは「わたしたち本当に付き合ってないですからね」とお姉さんにムキになって言うので、「今はまだ付き合ってないんですよ」と言えば、お姉さんは含みを持った笑みを浮かべて「今は、ね」と言った。赤くなったなまえちゃんが「また!」と言って己の手を引っ張るのに引きずられるように店を出た後、なまえちゃんは「なんてこと言うの」と己に言ってきた。なまえちゃんがあまりに必死に言うので、「なまえちゃん、真っ赤になって本当におれのことが好きみたい」と意地悪を言うと、なまえちゃんは「わたしが澄晴くんのことを好きで何が悪いの?」と完全に開き直った上に逆ギレをするように言ってきたので、思わず笑ってしまった。なまえちゃんはおれのことが好きだったんだ、そう思うと何だか照れ臭くなってしまう。

「ケーキ奢ってもらって、最高のプレゼントまでもらっちゃって、おれ良いのかな」
「いいんじゃない、一ヶ月遅れちゃったし」

なまえちゃんが照れ隠しをするようにそっぽを向いて言うのがおかしくて笑っていると、なまえちゃんは「何で笑うの」とジトリとした目でジッとこちらを見ていた。
2021-05-30