小説

たとえば彗星が落ちてきて#2

 一年が過ぎてゆくのは早い。学校を卒業した後、バレーボールの世界に足を踏み入れたあたりから、一日一日が飛ぶように過ぎ去っていっているように感じてしまう。毎年やってくるVリーグのシーズンにゲームをして、シーズンが終わり、オフシーズンに入ったと思えば、調整やら、合宿や世界大会などに参加していたらいつの間にか時間が過ぎていて、気づけばまた次のバレーボールシーズンがやってくる。正月に少し休んだ後にまた試合をし、本シーズンすべての試合が終了し、再びオフシーズンが訪れると、一年が通り過ぎて行ってしまったことに気づく。オフシーズン近くになると毎年桜の花が咲き、散るところを見ているせいか、なおさら季節が過ぎていったように思えるのかも知れない。オフシーズンと言ってもなんだかんだ言ってボールに触る機会があるから、オフでもオンでも結局は、バレーボールをやっている。例年、それなりに忙しく日々を過ごしているけれども、去年の忙しさはその比ではなかった。四年に一度のスポーツの祭典が開催されたからだった。スポーツ選手生命は短い。人の長い人生のことを思えば、スポーツ選手として活躍できる期間はほんのわずかの時間しかない。その短い選手生命の中で四年と言う期間は、短いように見えて随分と長いものである。その四年に一回が、自分のバレーボール選手生命の間に訪れること、そして、その世界を相手に競うことが出来る大会に選手として出場できるということは何よりも幸運な出来事であった。あと数年遅かったら、その舞台に立つことが出来なかったかもしれない。また次の四年後に行われる大舞台に出て、世界中の人々に注目される中で試合をやりたいと思ったけれども、次の年までに自分が現役でバレーボールをしているのかは分からないし、その頃には、次の世代の人たちも上がってくるはずなので、自分がまた代表選手に選ばれるかどうかはわからない。もしかしたら、あの舞台での試合が最初で最後になるかもしれないと弱気なことを考えたけれども、自分と同世代の彼らが、次の試合でも平然と代表選手として出ていそうだと思った時に、自分も彼らに負けたくないと思った。その大舞台ともいえる試合が夏に行われたあと、暫く期間が空いた後でその年のVリーグが始まった。秋から冬にかけて行われるVリーグは、夏の試合でバレーボールが盛り上がったおかげで、観客が例年に比べて大分多かったように思う。高校生のころから、あまりバレーボールについて興味を示したことが無く、試合に出る話をしてもあまり興味がなさそうだったなまえがその試合を切っ掛けにバレーボールについて少し興味を持ったのか、Vリーグの試合もちゃんと観る、と言っていたことが印象深かった。「なんで急に観ようと思ったの?」そう彼女に問えば、なまえは「ちゃんと観たこと無かったけどさ、バレーボール、結構面白かったなって思って」とはにかみながら言っていた。正月の休み期間中、遠征先から久しぶりに自宅に戻ったときに、Vリーグのオンライン中継見たよ、となまえが言った。

「角名くんお疲れさま」
「ありがとう」

なまえはバレーボールのことはあまりよく知らないのか、「すごかった」以外の言葉は彼女の口から出てこなかった。なまえにとってどこがどう凄いと思ったのかはよくわからなかったけれども、なまえが多少なりともバレーボールに興味を持ってくれたことが嬉しかったので、それ以上のことは聞かなかった。「角名くんの居る場所を探すので精一杯だったよ」となまえが言うあたり、なまえはもしかしたらバレーボールの試合を、己以外はしっかりと見ていなかったのかもしれない。なまえが録画して残してくれていた試合の中継録画を家で見ながら、「ここはフォローできたような気がするんだよね」とぼやいたときに、なまえが何もわかっていない不思議そうな顔をして、己のことを見ていた。「みんながんばっていることしかわたしには分からない」そう言うなまえに、「この中にはバレーだけで飯食ってるヤツも居るからね、皆食べるために必死だよ」と言えば、なまえは目を丸くした後で、どこか納得したような顔をしていた。企業のチームに所属している己は、バレーボールシーズンでない期間、バレーボールに触らない間は自分の所属会社の社内業務を行なっているから、なまえは己のことを企業勤めのバレーボール選手だと思っている節があるけれども、企業に勤めておらず選手契約だけをしている人たちも、この世界には多くいる。「ほら、侑とかがそうだよ」そう、かつての同級生の名前を出してみると、なまえは「ああ、宮侑くん!」と懐かしむように侑の名前を呼んでいた。なまえは大層驚いたような顔をして、「侑くん、大変なんじゃない?」と言っていたけれども、侑は他人に心配されなくても何とか上手くやっていけるから、心配しなくてもいいよと言っておいた。
 正月休みが開け、会場の内外からたくさんの声援を貰いながら、その年のVリーグの全試合日程は無事、終了した。なまえと年を越した後、残りの試合日程がすべて終わったころには、もう冬の終わりが目と鼻の先のところまで着ていた。チームの拠点が静岡にあるからという理由で、静岡になまえと一緒に住む部屋を借りているけれども、Vリーグの時期になると自宅にいることよりも遠征先に居ることの方が多いような気がする。家に戻るのは、随分久しぶりのような気がした。住んでいるアパートの隣の民家のブロック塀の中から、空に向かって裸の枝を伸ばしていたソメイヨシノが、枝に沢山の花をつけていた。満開の桜の花をぼうっと眺めた後で、春の訪れを感じる。よく考えてみれば、このアパートを最後に出た時は、まだこのソメイヨシノの木は裸の枝を空に向かって伸ばしていたし、自分だって、随分と暖かい恰好をして出て行ったはずだけれども、今はもう着てきたはずの厚手のジャケットを鞄の奥にしまい込んで、ジャージを上から一枚羽織るだけでも十分だった。ぽかぽかした陽気が、背中をゆっくりと暖めるのを感じながら、この季節がもうしばらく続いてくれればよいのにと思ってしまった。「ただいま」そう、挨拶をして久しぶりに自宅の扉を開けた。なまえの出迎えの声は聞こえなかった。もしかしたら、なまえは今日仕事に行っている日かもしれないと思ったけれども、部屋の奥から物音が聞こえたのでなまえは自宅に居るようだった。持って帰ってきた荷物を洗濯機の中に押し込んだあとで、なまえがいるだろう奥の部屋を覗きにいくと、部屋のクローゼットの中に、冬物のジャケットを押し込むなまえの姿があった。「ただいま」そう、もう一度なまえに言うと、なまえは目を丸くして己の顔を見ていた。

「角名くん、もう帰ってたんだ」
「今帰ってきた。何してたの?」
「冬物の服、もう片付けようと思って」
「もう春だもんね」
「角名くんの洋服も勝手に片づけちゃったけど、まだ着る?」
「ありがとう。寒くなったらその時に出せばいいよ」
「そうだね」

クローゼットの高いところに衣服を押し込もうとするなまえと交代して、洋服をクローゼットの中に押し込むと、なまえが「角名くんは疲れてるんだから休んでよ」と言った。服を押し込むくらいで疲れたりしないよ、と言ってそのまま、なまえが片付けようとしていた洋服をすべて片づけた。クローゼットの扉を閉めた後に、仲良くリビングのソファに腰を下ろす。「今日はもう疲れたあ」と言うなまえがテレビのチャンネルを変えているのをぼうっと眺めた。

なまえは今日は休み?」
「うん。今日は部屋の片づけをしようと思って休暇申請したの」
「へえ。終わりそう?」
「衣替えしてたら一日終わりそう。もう疲れちゃったから、続きは週末にしようかな」
「それがいいね」
「そうしようかな。角名くんは今度、いつ出かけるの?」
「来週の頭から合宿。二週間くらい居ない」
「まだ忙しいね、この間Vリーグ終わったばっかりなのに」
「オフシーズンだけどオフって感じしないんだよね」

角名くんは本当にいそがしいね、となまえは言った。バレーボール選手として食い扶持があるだけまだマシ、となまえに言うと、なまえは確かにそれはそうだと言っていた。久しぶりに会うなまえは、最後に会った時に比べて髪の毛が少しだけ短くなっていた。明るい色をしたなまえの髪の毛に触れると、なまえが「どうしたの」ときょとんとした顔で己の顔を見ていた。

「髪、明るくなった?」
「うん。春だからちょっと明るくしてもらったの」
「へえ」
「角名くんは明るくしたりしないの?」
「俺は似合わないからいいよ」

なまえは「案外似合うかもよ。金髪の角名くん、あんまり想像できないけど」と言って笑っていた。「俺似合わないでしょ、金髪」となまえに聞けば、なまえは「どうだろう。わたしは角名くんをひいきにしてしまうから」と言っていた。「多分、わたしはなんでもカッコいいよって言ってしまいそう」というなまえに思わず笑ってしまった。なんだよそれ、と言えばなまえは「わたしは角名くんのことが好きだと思ってるから、なんでもかっこよく見えちゃうんだよね」と言っていた。そう、少し照れたように笑いながら言うなまえを見ながら、なまえのことを初めて綺麗だと思った日のことを思い出していた。高校生の頃にはなまえなまえのことをカワイイカワイイと言って困らせて楽しんでいたこともあったけれども、最近はそういうこともしなくなってしまった。角名くんはカッコいいね、と言うなまえに対して、今のなまえの今の髪型も髪色も良く似合っててカワイイよ、の一言くらい言ってやればいいだけの話なのに、今それを言おうとするとどうにもむず痒く思えて口からその言葉は結局出てこなかった。
 週が明けてすぐに、己は息つく間もなく家を出た。わざわざ見送りのためだけに朝早くに起きたなまえに「行ってらっしゃい」と言われて送り出されてから二週間がすぎ、四月も半ばに差し掛かったころ、住んでいるアパートに戻ってきた。隣の家の塀の向こうに咲いていた桜の花はとうに散り、空高くに向かって伸ばした枝には青々しい葉が開いている。帰ってきた時間が昼間だったせいか、自分の家には誰もいなかった。なまえは仕事に出かけているようだった。なまえが普段通り仕事をしてくるのであれば、今日の帰りも随分と遅いのかもしれない。自分の荷物の片づけを終えた後に冷蔵庫の中を開けると、そこには作り置きのおかずが入っていた。夕食の準備も纏めて終わらせているのか、それともご飯を作りすぎて残っているのかは分からない。もし、冷蔵庫の中身が空っぽだったら宅配でも頼んでしまおうと思っていたけれども、その必要もなさそうだった。なまえの作り置きのおかずを少しもらってお昼ご飯を食べ、片づけを終えてしまった後に、リビングのソファの上で、なまえが録画していたのだろうテレビ番組の録画をぼうっと眺めていると、少しだけ眠くなってしまった。疲れていたせいもあるかもしれない。ほんの少しだけ横になるだけならば、別にベッドに行かずともここでいいだろうと思い、眠気に身を任せてそのままソファの上に横になって転がってしまった。

「角名くん、おはよう」

そう声を掛けられて、なまえが家に帰ってきたことに気づいた。ほんの少しだけ昼寝をするつもりだったのに、思った以上にしっかりと眠ってしまっていたらしい。まだすこしだけぼんやりする頭でなまえの顔を眺めていると、なまえは「角名くんまだ眠そうだね」と言っていた。「これ以上寝たら夜眠れなくなるからダメだよ」そう冗談めかして言うなまえに「俺もう子どもじゃないからね」と言ったけれども、なまえは「それはどうかな」と言って笑っていた。己が家に帰って来た時はまだ真昼だったのに、窓の外を見れば太陽は西の彼方に顔を半分隠し、空は橙色に染まって、綺麗な夕焼け空が広がっていた。「帰り、早かったんだね」そうなまえに言えば、なまえは「まあね」と得意げな顔をして笑っていた。

「今日、見たいテレビがあって」
「なんかやってたっけ?」
「ナントカって予言者の大予言スペシャル」
「なにそれ」

なまえは「不定期でやってる変なオカルト番組あるでしょ」と言った。「真夏のホラー特番みたいなやつ?」と言えばなまえは首肯した。なまえがそういうオカルト番組に興味があったことは知らなかった。今まで家で見ていたところを一度も見たことが無かったし、今までそういう話を聞いたことが無かった。

「そういうやつ、好きだったっけ?」
「お客さんとその話題になったから見ようと思っただけだよ」
「そうなんだ」
「毎年やってて、なんか凄いクセになるらしいよ」
「へえ」

なまえはそう可笑しそうに笑いながら言っていた。テレビ欄の見出しに書かれていたのは『人類滅亡はすぐ!?Xデーまであと少し』と書かれている。なんとも胡散臭い見出しだった。今時の小学生すら信じないだろうと思うような見出しが踊っているのを眺めながら、顔が自然とひきつるのを感じる。たしかに、こういう奇妙なオカルト番組は定期的にやっている気がする。高校の頃に、そういう番組が放送された次の日、双子がやかましく、やれ超能力だ予言だと言っていたことがあったことを思い出してしまった。その手の番組は根強い人気があるのか、こうして未だ放送されているのだから不思議だ。なまえに「この番組胡散臭くない?」と言って番組の見出しを見せると、なまえは「そういう胡散臭いところがイイらしいよ」と言われてしまった。なまえの声音が妙に楽しそうなところから、なんだかんだ言いながらもそれなりに観るのを楽しみにしていることが窺える。いつの間にか準備されていた夕食を見て「全部一人でやったの?」となまえに問えば、なまえは不思議そうな顔をして己のことを見ていた。「手伝ったのに」そうなまえに言えば、なまえは楽しそうに笑っていた。

「気持ちだけ受け取っておこうかな」
「ちゃんと起こしてよ」
「約束はできないかな」

テレビ番組が始まる前にご飯を食べきりたいと言うなまえと一緒に食卓を囲む。なまえと一緒にご飯を食べるのはずいぶん久しぶりのことのように思えた。気持ち急ぎ目に夕食を食べるなまえを見ながら、あの胡散臭い番組がそんなに楽しみなのかと思ってしまった。

「結構楽しみにしてるでしょ」
「うん、わかる?」
「見てれば分かる」
「角名くんも観ようよ」
「いいよ」

夕食を食べ終わった後、テレビの前に置いているソファに二人で並んで座って、番組が始まるのを眺めていた。懐かしさすら感じられる題字で『人類滅亡はも目前!?大予言スペシャル』と書かれたテロップが流れて来た時に思わず笑ってしまいそうになってしまう。なまえが大真面目な顔をしてテレビを見ているのがなおさら笑えてしょうがなかった。名前も聞いたことのないような自称予知能力者が出てきて、お得意の予知能力とやらを披露しテレビ局のスタジオをスタジオをワッと湧かせているのを、なまえは一緒になって驚いてみていた。過去にあった国内の大災害や、海外の災害を予想し見事に的中させてみせたという紹介が流れている。なまえが「へえ!」と関心したように見ているのを見て今時こんなの小学生ですら信じないだろと思っていた。そんなの仕込みがあってヤラセに決まってるじゃん、と思うけれども水を差すのもどうかと思ったので何も言わないでおいた。その予知能力がある人が、人類滅亡がすぐ目の前まで来ているのだと言った。スタジオは騒然とし、テレビ画面に映っている芸能人たちも驚愕の表情で、その予言者の顔を見ていた。

「人類滅亡するって」
「そうみたいだね」

なまえが目を丸くして己の顔を見ていた。たいそう驚いたような顔をして見ているのがおかしくて笑いそうになってしまったけれども、それを堪えてそう答えた。人類が滅亡する日付はこのあとすぐ、と言ってテレビ番組はコマーシャルに入ってしまった。緊迫した大予言スペシャルとは無縁そうな、自分たちの住む場所からそこまで遠くもなければ近くもない、海の見えるリゾート地のコマーシャルが流れている。人類の滅亡なんて少しも知らないような人たちが、テレビの向こうで笑っていた。

「そういえばさ、人類の滅亡の予言みたいなやつ、昔あったよね」

そう、ふと思い出した話をなまえに振った。今からもう二十年以上前の話で、自分たちの両親がまだ随分と若いころに流行った、人類滅亡の予言の話だった。物心ついたばかりの話だったので自分はあまりよく覚えていないけれども、そういうオカルティックな話が流行ったことを、そういうオカルト番組に影響された双子が喋っていたことをふと思い出してしまった。なまえは良く知らないといった顔をして、「あったっけ?」と言っていた。なまえはあのオカルト番組を熱中してみていたけれども、そういうことにはあまり興味がないようだった。「大分昔の、俺たちがまだずっと小さい頃の話だから、なまえは知らないかもね」そうなまえに言うと、なまえは「へえ!」と感嘆の声を上げた。

「角名くん詳しいね」
「高校の頃にもこういうテレビあったじゃん」
「わたし観てなかったから知らないけど、あったんだ」
「双子がハマってそういう話を一時期してたんだよね」
「そうなんだ。宮くんたちってオカルト番組好きなんだね」
「アイツらああいうの結構ハマって観るよ。しばらくしたら忘れるけど」
「そうなんだ。じゃあ、今日のも観てるのかな」
「観てるんじゃない。……ほらこれ」

スマートフォンに表示した侑のSNSをなまえに見せると、なまえは目を細めてスマートフォンの画面を眺めていた。「これ、下にさげていってもいい?」「いいよ」己のスマートフォンの画面をゆっくりとスワイプしていったなまえが「ほんとだ」とぼやいた。侑が個人でやっているSNSには、ちょうど今己らが見ていたこのオカルト番組の感想が書かれていた。侑の、人類の滅亡を憂う投稿に、そんなわけあるか、と突っ込みがされているのを眺めたあとで、なまえは、己のスマートフォンから顔をあげたあとで、困ったように笑いながら、「宮くんのこと他人事だと笑えない」と言っていた。たしかに、あのテレビ番組を大真面目になまえが見ていた様子を考えれば、そうもなるかと思ってしまった。コマーシャルが終わり、人類滅亡の大予言スペシャルが始まると、なまえはテレビの方を向いてしまった。そうして、おそるおそる己の方に手を伸ばして、ぎゅっと己の手指をつかんできた。

「どうしたの」
「なんか緊張しちゃって」
「怖い?」
「怖くない」
「なら離していい?」
「そのまま握られてて」
「ははは」

なまえの右手が、己の左手をぎゅっと握りしめる。指を絡めた、甘えた恋人関係のような繋ぎ方ではなく、まるで子どもが怖がって自分の親の手を握るときのような握り方に思わず笑ってしまった。なまえの手をやさしく握り返したけれども、なまえはテレビの方に集中しているようで己がなまえの手を握っていることには気づいていないようであった。初めてなまえと手を繋いだ日、心臓の音がなまえに聞こえてしまうのではないかと思うくらい緊張したのに、今となってはそのドキドキ感はどこにもない。なまえに握られることに慣れてしまったのか、それとも、あの時の初恋のような気持ちをすっかりどこかへとやってしまったのかは分からない。テレビでは、自称予言者が、人類の滅亡する日をゆっくりと口にしていた。今年の五月一日。今が四月の下旬だから、予言者の言う言葉が正しいのであれば、もう、人類滅亡までの時間は数週間も存在しないことになる。なまえは「五月」と反芻するようにぼやいたあと、己の顔を見て、もう一度「五月だって」と言った。

「角名くん」
「近いね」
「うん」
「人類滅亡はもうすぐそこだね」
「そうみたい」

四月三十日までもう時間があまりないね、そうなまえは言った。繋いでいた手を放したとおもえば、今度は己の指先に自分の指を絡めてきた。己の指よりもずっと細いなまえの指が、己の指の間に絡まって結ばれる。なまえの親指と、人差し指が己の人差し指にゆっくりと触れる。己の節くれ立った手指とは違う、すらりと伸びた細っこい手指が、己の関節に触れて遊んでいる。ひとしきり己の手指で遊んだあとで、なまえは「時間、もうないね」と冗談めかして笑っていた。なまえがあのインチキ臭いテレビ番組を心底信じているとはとうてい思えなかったけれども、なまえの声音からはそこまではわからなかった。あのオカルト番組は、これを信じるのも信じないのもあなた次第と締めくくって、エンドロールが流れた。あのテレビ番組を観ているらしい侑の個人SNSには、人類が滅亡するまでにやりたいことがすべてやりきれないという嘆きの言葉が連なっていたけれども、明日にはきれいさっぱり忘れていそうだと思った。テレビのエンドロールを眺めているときに、なまえが口を開いた。

「角名くんはやりたいこと、ないの」
「やりたいこと、ねえ」

なまえにそう言われて少しだけ考えてみる。五月に人類が滅亡するとして、やりたいことか──最後にやった公式試合がVリーグの最終試合だったことを考えて、もう一回試合に出て勝ったうえに自分が満足するプレーをして終わるのが良かったとか、出来るならば、なまえと結婚式を挙げてから終わりを迎えたいとか、そういったことを考えたけれどもどれもすぐに出来るものではなかったので、頭の中からそれらのすべてを外に追いやった。実現できる範囲で、今でもすぐに出来そうなことを考えた時に、思い浮かんだのは、晩ご飯に出てきたなまえの作った鯛の煮つけが美味しかったから、最期ならばもう一回食べておきたいと思ってしまった。それらの願望をひっくるめて考えた時に、結局自分が望んでいたのは、なまえとの変わらない生活であるように思えた。

「普段通りに生活して、普段通りに終わりを迎えられるのがいいな」

そうなまえに言うと、なまえはふっと笑った。己の手指で遊びながら、なまえは「わたしはねえ、やりたいことあるよ」ともったいぶった調子で言う。なまえが己の頭一つ低いところから見上げる。上目づかいで己の方をジッと見てくるときは、なまえが己に甘えようとしているときの合図だった。

「わたしは角名くんと兵庫に行きたい」
「兵庫?」
「そう。高校の近くに行って散歩して、それから学生時代に一緒にデートしたところをもう一回ゆっくり回って帰ってくるの。初めて一緒に行った神戸の映画館に行って映画を見て、近くを散歩した後に家に帰ってきて二人で一緒にのんびりして、最期を迎えたい」
「実家に行くとかじゃないんだ」
「角名くんの実家は近いけど、うちの実家は遠いしね。兵庫だったら現実的な範囲でしょ」

新幹線で行こうと思えば今からでも行けるし、となまえは冗談めかして笑っていた。兵庫、兵庫ねえ……なまえと出会った稲荷崎高校の前に行って、校舎をぼうっと眺めたあとに、なまえと一緒にデートをした場所をもう一回巡って、昔話をしながら今の街並みを見るというのもたしかに、悪くないのかもしれないと思った。兵庫であるならば、そこまで遠い距離でもないし、なまえの言う通り、現実的な範囲だと思った。

「これから行くって言ったらなまえは行く?」
「兵庫に?」
「うん。なまえが行きたいなら、俺も行くよ」

なまえは目を丸くしたあとで、「冗談とかじゃないよね」と問うてきた。おそるおそる言うなまえに黙って首肯すると、なまえは「わたし、本気にするからね」と言って、部屋の壁に下がっているカレンダーを眺めた後で、二十八日から三十日にかけてカレンダーを丸印で囲んだ。「なにそれ」そう彼女に問うと、なまえは「有給申請しようと思って」と言った。「人類が滅亡するって言う日に仕事なんて行ってられるわけないでしょ」というなまえに、たしかにそれはその通りだと思った。なまえは「成程」と答えた己に向かって、「角名くんも有給ちゃんと取ってきてよ」と言った。そうだ、なまえと一緒に出掛けるということは自分も有給休暇を取らなければならないのだということに気づいて、なまえに「わかったよ」と答えた。「有給休暇、取れるかわからないけどね」とぼやくと、なまえは「人類最後の日に仕事するつもり?」と大げさに言うので思わず笑ってしまった。
2021-05-08