小説

たとえば彗星が落ちてきて#1

 彼女──”なまえ”と一緒に同じアパートに住み始めたのは、ほんの数年前のことだったけれども、同棲を始めるときに感じるらしい新生活へのドキドキ感やわくわく感は何も感じられなかった。彼女と同棲を始めたばかりの同級生が、「同棲はええぞ、家で誰かが待ってくれとるのはええもんや」と言っていたけれども、家に帰った時に既に誰かが待っているということに慣れ切ってしまっていたせいで、たいしてありがたみを感じられなくなっていたせいもあったのかもしれない。なまえと一緒に兵庫の稲荷崎高校を卒業した後、己となまえは同じ県へと進学した。己は大学を卒業した後でもバレーボールを続けたいと考えていたから、バレーボールの強い学校へと通うことにした。なまえは、自分の勉強したい学部学科のある学校が、己の進学先と同じ県内にあったからという理由で、大学を選んでいた。なまえの成績ならばもっと上の大学にも行けただろうに、なまえは角名くんと出来るだけ近いところに居たいし、勉強はどこでも出来るからと言って聞かなかった。同じ県内で、借りているアパートの場所もそれぞれ遠くない場所にあったせいもあって、大学生のころはなまえの家に行くこともあれば、なまえが己の家にいることもあった。大学が次の日休みであれば、そのままどちらかの部屋に泊まって帰ることもしばしばあった。同棲の真似事のようなことをしはじめたころは、練習が終わって家に帰ってきたときに部屋になまえが居ると嬉しいと思ったし、なまえがご飯を稀に作ってくれた日はとても嬉しいと思った。逆もまた然りだった。なまえが家に帰ってくるのを、なまえの部屋で待ちながら、なまえと一緒に食べる晩ご飯の用意をしたときに、なまえがどんな顔をしてご飯を食べるのかを想いながらご飯を作ってみるのは、楽しかった。普段、料理をあまりしなかったのに、料理を少しずつやってみようと思ったのは、紛れもなくなまえのせいだと思う。大学生のころに、同棲生活におけるドキドキ感やワクワク感を使い果たしてしまった後で、所属チームの拠点が静岡であったことから、大学を卒業していざ同棲しようと思ったときに思ったのは、これから同棲が始まることへのドキドキというよりはこれから部屋の引っ越しを行うときの若干の気だるさだった。どういう部屋に住むか──部屋は二つ欲しいか、三つあった方がいいか、間取りはどれがいいかを考えているときのなまえは楽しそうにしているように見えたけれども、己はもうすでに住めるのであればどこでもいいと思ってしまっていたし、早くに決め切ってしまいたいという思いの方でいっぱいだった。なまえは「角名くんはどういうところに住みたいの?」と聞いてくれたけれども、己は通勤にあまり時間が掛からないのであればそれでいいという希望しかなかった。紆余曲折を経て、なまえと暮らすための部屋を決め、家具を運び込んだ後でいざ、同棲生活を始めたけれども、大学生の頃の、初めてなまえが家で待ってくれていた日のような特別感はもうなかった。大学生活の延長線上にある生活が、これから新しい家で始まるというだけの感覚でしかなかった。

 なまえと己との付き合いはとにかく、長い。スカウトを受けて住み慣れた愛知を離れ、知人がひとりもいない兵庫県の稲荷崎高校に入学した日に、なまえと出会った。稲荷崎高校の入学式の日、偶然隣の座席に座っていたのがなまえだった。まだ、その日はなまえの名前どころか苗字すらも知らないひとだった。入学式の日に隣の席に座っていたなまえは、顔を青くして、小さくなって体育館に設置されたパイプ椅子の上に座っていたことをよく覚えている。血の気が失せたような真っ青な顔をしたなまえを見て、知り合いでもなんでもないのに、「大丈夫?」と声をかけたのが始まりだった。なまえは首を横に振って、「全然大丈夫じゃない……」と細い声で返事をしてきた。その時に返ってきた言葉が、同級生たちの話している関西訛りの言葉ではなく、己のよく聞き知った関東のほうの訛りだったので、なんとなく親近感を覚えてしまった。

「体調が悪いなら保健室行ったら?」
「ちがうの、緊張してて」

そう、彼女は体育館の前の方に大きな文字で掲示された入学式の式次第のほうを眺めてそう言った。入学式に緊張することなんてあったかなと思ったけれども、彼女の視線の先にあった式次第に書かれている新入生挨拶と書かれた文字を見て、成程、と納得した。己の隣に座っている彼女が、今年の新入生代表挨拶を行う生徒なのだと分かったのはその時だった。「挨拶、するんだ」そう問えば、なまえは首肯した。「まさか、わたしも挨拶をすることになるとは思わなかったんだけどね」そうなまえは言っていた。入学時の挨拶をするということは、彼女がきっとこの学年では成績がトップだったのだろう。なまえのあまりの緊張ぶりが、自分が初めて公式試合に選手として出れることになった日のことを髣髴とさせる。自分が試合に出るときよりもずっと緊張しているように見えるなまえに、どう声をかけたらいいか分からず、ただ雑談を振ることしかできなかった。

「兵庫出身じゃないよね?」
「うん、違うよ」
「やっぱりそうなんだ」
「訛りが変?」
「どっちかと言うと関東訛りって感じがしたから」
「わたし、地元がこっちじゃないから」
「へえ」
「君は?」
「俺は愛知。バレーのスカウトで」
「じゃあ、バレー強いんだ」
「そうかも」
「へえ」

入学式が始まって、二人そろって黙り込んだ後、なまえが俯いてしまった。俯くなまえを横目で見ながら、小声で「ぶっつけ本番じゃないんだよね」と問えば、なまえは首肯した。

「なら大丈夫じゃない?がんばってね」
「ありがとう」

式次第は順調にすすみ、いよいよ彼女の名前が呼ばれた。その時、初めてなまえの苗字と名前を知った。なまえはゆっくりと壇上に上がり、新入生挨拶をゆっくりと読み上げた。読み上げたあと、壇上でお辞儀をしてなまえは自席へと戻ってきた。挨拶が終わった後にほっとしたのか、なまえの顔色は随分とマシになっていた。「おつかれ」そのときに、初めて知ったなまえの苗字を呼んだ。

「ありがとう、えっと」
「角名だよ」
「角名くん。これも何かの縁かな」
「そうかも」

なまえとは入学式の出来事もあってか、教室でもそれなりによく話すようになった。入学式の席も隣で、教室の席も隣だったのは本当に何かの縁だったように思う。入学式の後、一緒に教室に行ったときに教室の席も隣であることを知ったなまえが「角名くん教室でも隣なんだ」と言ったときに、ふたりで顔を見合わせた後でなまえがくすくすと笑っていたことを覚えている。己となまえが隣の席同士で関西訛りの言葉を喋らないことでいじられたこともあるけれども、それも今となってはいい思い出だった。まだこの頃は、なまえのことを苗字に”さん”をつけて呼んでいて、なまえは己のことを角名くんと呼んでいた。なまえのことを、己はなまえと言っているけれども、なまえの本当の名前は、なまえではない。なまえというのは彼女につけられたあだ名で、彼女の苗字とも名前ともちがうものである。
 なまえが”なまえ”と呼ばれるようになったのは、彼女の苗字と名前を知った年の秋ごろに行われた文化祭がきっかけだったことをよく覚えている。ステージの上で演劇をやることになっていたなまえが、壇上の上で演じた役がお金持ちのお嬢様の”なまえ”という役だった。彼女は、品の良いお嬢様の役を、舞台の上で見事に演じ切って見せたのである。きれいなドレスに身を包んだ”なまえ”は、その一挙一動、セリフの口ぶりから品の良さが滲むけれども、決して嫌味にならない、そんな塩梅の効いた丁寧なお嬢様の演技を、彼女は見事にこなして見せた。メインヒロインの友人という立ち位置の役だったのにもかかわらず、なまえのあまりの嵌り具合に感動した彼女の友人らが、彼女のことを演劇が終わった後でもなまえと呼び始めたせいで、そのあだ名がクラスに定着してしまった。クラスメイトがなまえのことをなまえと呼び始めてから、彼女のあだ名がなまえとして定着し、それは進級してクラスが変わった後も続いていた。もう、彼女の苗字や名前で呼ぶ人よりも、なまえと呼ぶことの方が多いのではないかと思う。彼女の苗字と名前を言われてもなまえであることに気づかなかった人がいるくらいには、なまえという名前は、彼女のあだ名として定着してしまっていた。己もそのひとりで、なまえのことを長くなまえと呼んでいるせいもあって、彼女の名前を呼ぶのがほんの少しだけ照れくさい。
 入学式の出会いからなまえと親しくなり、その年の冬を迎える頃にはなんとなく、なまえとの距離が友達の付き合いの距離から一歩踏み込んだものになった。誰もいなくなった教室で、クラス委員の仕事をしているなまえに請われて、部活のない日になまえのクラス委員の仕事を手伝った。次の父兄会で使われるプリントを、ひたすらにホチキス止めしていく仕事だった。誰もいなくなった教室で、なまえと二人で作業をする。なまえが角を整えたプリントを、ホチキスで止める。パチンと音がして、きれいにホチキス止めされたことを確認して、出来たプリントの山を机の上に置いていく。単純な作業だった。そう数が多い訳でもないし、なまえ一人で出来ないことはないのだろうけれども、なまえに手伝ってくれと頼まれたら断ることが出来なかった。他のクラスメイトだったら断ってさっさと帰っていたはずなのに、なまえに請われてしまえば、彼女のお願いを聞いてしまう。入学式の日に緊張して辛そうな顔をしていたなまえのことが脳裏によぎってしまうから手伝わないといけないような気がしてしまうのか、未だにその理由は分からなかった。ホチキス止めの作業が半分ほど終わった時に、なまえが席を立って、教室の窓際まで歩いて行った。窓から外を眺めたなまえは、「まぶしい」とぼやいた。窓から外を眺めているなまえが、「ね、角名くん見て」と言うので、作業をしていた手を止めて、なまえの居る窓際へと行った。「綺麗でしょう」西の彼方に沈みかけた太陽が、青い空を茜色に燃やしている。窓の外から見える街々は、太陽に燃やされて橙色に染まっていた。なまえの言う通り、綺麗だと思った。外の景色も、目を細めて窓の外を眺めているなまえのことも綺麗だと思った。夕日が沈み切るよりも先に、その日のクラス委員の仕事は終わってしまった。作業が終わった後で、なまえはお礼を言って、「角名くん帰ろう」と言ってくれた。なまえの帰る方向と、己の帰る方向は真逆だったのに、遠回りがしたいからというくだらない嘘をついて、なまえと一緒に並んで帰った。己の隣で楽しそうには話をするなまえは、くるくると表情が変わるのが可愛らしいと思った。もっといろいろな表情が見てみたいと思って、部活であった出来事をなまえに話した。同級生の双子のことや、堅実な先輩の話、それから──それらの話をしているときに、なまえは楽しそうに笑って話を聞いてくれた。なまえとの関係が、友達同士のそれから一歩踏み込んだものになるまでには時間はそう掛からなかった。随分と日の短くなった冬の日のこと、放課後、なまえのクラス委員の仕事を手伝った日の帰りのことだった。その日も、なまえと一緒に帰るためにわざわざ遠回りをしたいと言い訳をして、なまえと並んで歩いていた。なまえは「角名くんはいつも遠回りしてるけど、大丈夫なの?」と試すような表情を浮かべて己の顔を見ていた。なまえと一緒に帰りたいから、と言えば恰好が付かないので、なまえにはそれを言わなかった。けれども、己がなまえと一緒に居たいと思っていることを、なまえは知っているようだった。なまえと並んで歩くときに、自然となまえの手に触れてしまった。「ごめん」と謝ろうとするより先に、なまえが己の指に、彼女の指を絡めてきた。自分の手指よりもずっと小さな、女の手だった。己の指よりもずっと細い指が、己の指に絡まって、握られた。冬の外気のせいか、なまえの指先はひどく冷えていた。

「角名くんって、こうしてもあまり表情が変わらないんだね」

そうなまえは己の目を見て、冗談めかした調子で言った。なまえのまっすぐな視線は己を捉えて離してはくれなかった。「ね、角名くん」なまえはそう、甘えた調子で己の名前を呼んだ。その声音が、どうも甘いもののように聞こえて、内心とても緊張していた。なまえに名前を呼ばれるたびに、心臓が妙な音を立てていた。隣で歩くなまえに聞こえてしまっているのではないかと思ってしまうくらいに、ドッドッ、と音を立てる心臓に落ち着いてくれと願ってしまう。このままだとなまえにきっと聞こえてしまうから、静かにしてくれと思ってしまった。なまえに握られた手を握り返しても良いものか、悩んで彼女の手を握り返せずにいると、なまえは「角名くんは手を握ってもくれないの?」と追い打ちをかけるように言ってきた。いたずら子のような笑みを浮かべたなまえの得意げな表情が、可愛らしかった。なまえに言われるがままに、なまえの手を握り返した。なまえは握り返された手を眺めながら、目を細めて笑った。そうして、ひどく嬉しそうな顔をして、「角名くんって、手が暖かいのね」と優しい声をして言っていた。
 そんななまえとの付き合いも長いもので、高校の入学式の日に隣の席に座った子と付き合って、今も関係が続いていると言うと、入学式の日に隣の座席になまえが座っていたこと自体が運命的でロマンチックな話だと言われることはあった。確かにあの日、なまえが入学式の挨拶を担当することになっていなければ、なまえに声をかけることは無かっただろうし、もし、なまえの出身が兵庫であったならば、なまえに対する親近感は湧かなかったかもしれない。様々な偶然が重なった結果、なまえとの関係が続いていることを思えばたしかに、なまえとの出会いは運命的だと言って間違いではない。なまえとは付き合いを始めてからもう十年近くが経とうとしている。付き合いたての真新しい新鮮な気持ちはとうの昔の出来事になってしまって、なまえに初めて手を握られた時に感じたあの心臓の音のことも、もう今となってはあまりよく思い出せなくなってしまった。己となまえが運命的な出会いを果たした入学式のあった四月から、もう何十回目の四月を迎えていた。
2021-04-11