小説

たとえば彗星が落ちてきて#0

 芽吹きの季節は気持ちが良い。裸だった木々は空高く伸ばした枝の先に花をつけ始め、青々とした葉の芽がちらほら見え始める。鼻先を凍らせていた冬の冷たい空気は、三月を通り越したあたりから北の方へとすっかり姿を隠してしまい、今となってはもう柔らかい太陽の匂いのする空気へと変わりつつあった。冬の間に待ち遠しく感じていた花や、木々の青々とした匂いが鼻腔をくすぐるたびに、ずっと待っていた人にようやく会えたような気分になる。嬉しさと懐かしさのこみあげるこの気持ちは、春にしか感じられないのだから不思議だ。吹く風には時折冬の残滓が残り、頬に当たるたびにほんの少しだけ冷えるけれども、陽光が背を暖めるのでその冷たい空気すらも心地が良いと感じてしまう。燦燦と照る太陽は暖かく、陽の当たる場所でのんびり昼寝をして過ごしたいと思うほど、春の陽気は心地よかった。春というのはきっと、そういう季節だ。
 夕暮れ時の、太陽が未だ西の彼方にほんの少しだけ顔を出している時間に、街灯の灯り始めた街並みを歩いていた。兵庫の地を踏んだのは実に数年ぶりの出来事である。最後に兵庫県を訪れたのは、高校生の頃に交友のあった同級生の結婚式に参列するために訪れたのが多分、最後だったと思う。試合の都合で、関西方面に出かけることはあるけれども、行く場所はだいたい大阪で、大阪に立ち寄ることはあれど、兵庫の方にまで行くことは無かったので、久しぶりに兵庫の地に足を踏み入れると、どこか懐かしいような気持ちになった。駅前通りの飲食店の明るい看板を眺めたり、美味しそうな食事の匂いが鼻先を擽るのが、自分の食欲を刺激してくる。それが、夕食どきのお客さんの訪れを今か今かと待ち構えているようにも見えた。スマートフォンの地図アプリに表示されている道路を見ながら、目的地に向かってまっすぐ歩く。今から行こうとしている場所は、過去に一度だけ訪れたことのある場所であるはずなのに、何年も歩いていなければきれいに忘れるものだ。駅前から、小さな通りを二本ほど歩いた先にあったと思っていたのに、実際は四本先だったことに気づいたときにはおかしくなって思わず笑いそうになってしまったほどである。駅からさほど遠くない距離にあるはずの店に向かってだらだら歩いててようやく辿りついた頃には、太陽はすがたかたちを、西の地平線のむこうへ隠しきっていて、西日の橙色の光だけが空と雲を茜色に染めていた。東のほうの空はもうすっかりと紫色に変わっていて、このまま夜がゆっくりと更けてゆくのだろう。
 おにぎり宮──今日の目的地はかつてのチームメイトの構えているおにぎり屋だった。己が、友人の結婚式に参列するために兵庫に最後に来た日から、さらに数年前のことである。治が自分の店をようやく構えることになったと聞いた時に訪れたのが最初で最後になっていた。店の外にいても、店の中の元気のよい声が聞こえてくる。初めて見た時は開店前のお客さんが居ない日だったから、店に客が入っているのを見るのは初めてだった。思ったよりも随分と繁盛しているのかもしれないと思いながら、店の引き戸を開ける。見知った声の「いらっしゃいませ」の挨拶が店内に良く響いた。店内は老若男女様々なお客さんでいっぱいだった。このあたりに住んでいるだろう地元のおじいさんおばあさん夫婦や、食べ盛りの高校生たちがテーブル席を埋めていて、仕事帰りのサラリーマンがカウンター席に腰を掛けておにぎりを黙々と食べている。随分と繁盛しているな、と思いながら「ひとりです」と店主に言えば、店主は己の顔にようやく気付いたか、目を丸くして己の顔を見たのちに「角名やんか」と言った。

「久しぶり」
「おお、カウンター席に座り」
「うん」
「なんや、こっち来とったん」

案内されたカウンター席に腰を下ろす。店内をぐるりと見回すと、店の壁に地元のテレビ番組で紹介されました、の張り紙が貼ってあった。兵庫のローカル番組で見たことのある芸人のサインと共に、芸人と治の写真が貼られている。芸人と並んで写真に写る治の顔は得意げな表情を浮かべていた。その隣に、侑のサインを初めとするブラックジャッカルのサインが貼られていた。最後に試合をしたのはいつだったか……試合の結果はどうだったっけ。そんなことを考えた後で、あの大所帯がこの店に来たことを思うと治も大変だっただろうと思ってしまう。ブラックジャッカルのサインの隣には流石に写真は貼られていなかった。しかしながら、サインを見ただけでも相手の顔を思い出すことが出来るのだから不思議だ。さすがに、治も自分の店に自分のきょうだいの写真を貼ろうとは考えなかったのかも、と思いながら再びカウンターの方を見ると、治から色紙とサインペンを渡されてしまった。

「何これ」
「飾ろ、思て」
「俺の?」
「せっかく来てもらったしなあ」

何せ男子バレーボールの日本代表選手やったもんなあ、と治が嫌な笑みを浮かべて己の顔を見ていた。色紙とサインペンと治の顔を交互に見ている己をみたテーブル席の老夫婦に、「お兄ちゃんも治ちゃんのお友達なん?」と言われてしまった。己が答えるよりも先に、「せやねん、バレーで東京オリンピック出よったで」そう治が余計なことを言ったせいで、店の中に居るお客さんのすべてが一斉に己の方を向いた。テーブルでおにぎりに夢中になっていた高校生たちや、カウンターでもくもくとおにぎりを食べていたサラリーマンらが顔を上げて、己の方をじっと見ている。この店にバレーボールという競技に興味のある人間かどうかは分からないけれども、とりあえず有名人みたいだし一目見ておくか、と言いたげな好奇の目に晒されてどうも居心地が悪くなってしまう。
どうも、とあたまを下げたあとで治に渡された色紙にサインを書いた。侑たちの残したサインに書かれているものを真似るように、『おにぎり宮さま』と書いたのちに、自分のサインを書いた。そうして、今日の日付を書いた後で治に色紙を返す。

「えらい慣れとるなあ」
「何回もサインしてたらそりゃあね」
「有名人やもんなあ」

治にそうからかわれたあとで、言われてみればサインを書くことにも随分慣れてしまったように思う。プロのバレーボール選手としてやり始めた頃はサインを書くのもおぼつかなかったのに、今となっては随分さらさらと書けてしまう。治は侑たちのサインの隣に、今書いたばかりのサインを貼り付けていた。ブラックジャッカルのサインの隣に貼られた、真新しい自分のサイン色紙を眺めていた。「角名来とったんなら呼べやって言われそうやな」そう、サインを貼った後でぼやく治に、「別に呼ばなくていいよ」と言えば、治は笑っていた。ここで誰の話をしているのかを言葉にして言わずともわかるあたり、治との付き合いも結構な期間続いていると思う。

「治ちゃん、しゃけのおにぎりを二つ」

そう、テーブル席に座っていた老夫婦のおばあさんの注文の声が飛んだ。「はい!」元気のよい治の返事が響く。「治ちゃん、お持ち帰りでお願い」「かしこまりました」治の溌剌とした返事が店の中によく響いた。そう返事をしながらも、治はカウンターの向こうで手を動かしていた。合間に、カウンター席に座る己に向けて、「今日はすぐ向こうに帰るんか」と治が問うた。「いや、今日は泊まり」そう返すと、「ほーん、なら角名のは後でええな」と言った。そういえばまだ注文していなかったな、と思い、カウンターテーブルの上に置かれたメニューを開く。おにぎりの具材が沢山並ぶメニューを眺めたけれども、食べたいものがパッと浮かばなかったので、治に任せることにした。「俺、美味しいやつがいい」そう雑な注文を投げれば、治は呆れたような顔をして「この店にはウマいもんしかない」とハッキリ言い切っていた。たいそうな自信だな、と思うけれどもこの店のおにぎりが美味しいことは知っていたので、彼の自信満々な態度にはどこか納得してしまう。おにぎりを作る手を動かしながら器用におしゃべりまでをこなすかつてのチームメイトに、「お前器用だね」と言えば、「慣れたもんやろ」と得意げな顔をしていた。

「もう少し空いてる時間に来た方が良かったね」
「一時間もせんうちに落ち着くからええよ」

治はつくりたてのしゃけのおにぎりを持ち帰り用の袋に入れてテーブル席に持って行った後で、「何にしようかな」とぼやいていた。己が出した「何か美味しいやつ」という雑な注文に対して、少し考えるような顔をした後で、具材を決めたのか新しいおにぎりを作り始めた。治の手の上で海苔と米と具材が、おにぎりへとすがたをみるみる変えてゆく。数十分と待つ間に、ネギトロの詰まったおにぎりがふたつ、己の座っているカウンターテーブルの上に置かれた。治の作るおにぎりは大きい。このおにぎり一つで少なくともご飯一杯と半分はあるんじゃないかと思う。ここのおにぎりを二つ食べきれる自信があまりないなと思っていると、治が「腹ペコでは帰せんからなあ」と得意げな顔をして笑っていた。口の中に広がる米の甘味に、程よくわさびの効いたネギトロの味は、とてもよく合っていた。この米も魚も美味しく、味への文句のつけようがない。一口食べるともう一口を食べたくなってしまう。ご飯がすすむとはこういうことを言うのかもしれない。「ウチは米も具もこだわっとるからな、ウマイやろ」そう言う治の言葉に成程、と納得してしまった。ひとつめのおにぎりを食べ終わるころには、ごった返していた店のお客さんの姿はひとり、またひとりと姿を消していった。カウンター席に座っていたサラリーマンがひとり席を立ち、またひとりが席を立って会計をして帰っていくのを見送ると、この店のカウンター席に座るのは己ひとりになってしまった。離れたテーブルで、高校生たちがおにぎりを食べながら、スマートフォンを見せ合って何やら盛り上がっているのを眺める。かつての自分たちにも、彼らのような時代があって、目の前の店主とファミレスで似たようなことをしたなと過去のことをぼんやりと思い出しながら、カウンターで仕事をする治の方を向いた。

「何かあったんか」
「なんで?」
「角名がわざわざ来るってことは何かあったってことやろ」
「治の中で俺はそんなに薄情者なの?」
「大阪の試合に店出しても挨拶すらしに来ん薄情モンやろ」
「根に持ってる?」
「いや、角名のことやし今日も『兵庫来た』って連絡だけ寄越して終わりやろて思っとった」
「まあ、普段だったらそうかもね。今日は試合でこっちに来たわけじゃないし、完全にプライベートだから来れただけだよ」
「今日は一人で来たんか?」
「ちがうよ」
なまえと一緒に来たんか」
「そう。今頃友達と会ってるんじゃないかな、それぞれ外で晩御飯食べてホテルで待ち合わせになってる」

治は「ほーん」とどうでもよさそうな顔をしていた。治は付き合いが長いだけあって、己の性格をよく知っている。ものぐさなところがあるところは、自分も認めているけれども、治の中で自分がそこまで薄情者のように思われているとは思わなかった。別に、連絡を一切絶っているわけではないし、双子とは個人的に連絡を取ることもあれば、SNS上で連絡を取り合うことも多いのだから、これといって特別畏まって対面で話さなければならないことはないはずだ──と考えたときに、一つだけ、対面で話さなければならないことを思い出してしまった。己は別に対面で話す必要はないと思っていることだけれども、なまえから対面で言うように言われていたことだった。話すことは無いと言ってしまった後で再び切り出すのも切り出しづらいなと思いながら、残っていたおにぎりを食べきってしまった。治の作った大きなおにぎりを二つもおなかに入れてしまえば、もうおなかが一杯になってしまった。テーブル席に座っている高校生たちくらいの年頃であれば、あともう一つくらい食べきれたのかもしれないけれども、今の己にはもうそれは無理そうだった。己がおにぎりをすべて食べきったのを見た後で、「どや、うまいやろ」と胸を張って言うので、「うまいよ」と返すと、治は驚き半分といった顔で己を見ていた。

「何その顔」
「角名が素直に言うとは思わんかった」
「ちゃんと言えって叱られるんだよね」
「ほんまなまえのおかげやな。しかし、素直過ぎる角名は気持ち悪いな」
「お前本当に失礼だな」

テーブル席に座っていた高校生たちが帰り支度をしはじめている。壁に掛けられた時計を見れば、程よい時間になっていた。高校生たちが帰り支度をしているのを見て、老夫婦たちも帰り支度を始めた。持ち帰りで注文したおにぎりを鞄の中に入れたあとで、「治ちゃん、お会計お願い」と言う声が飛ぶ。治は「ただいま」と言ってカウンターから出て行って、会計をしにレジの前に立つ。一組ずつ会計を器用にこなしていく治のすがたは、初めてこの店に来た時よりも、随分とこの店を切り盛りするのに慣れ切ってしまっているようにも見えた。この店を切り盛りする治は、かつて同じ高校の同じバレー部のチームメイトとして部活をこなしていたときの治とは随分変わってしまっているように思う。もう高校の頃みたいにバレーボールをすることしか知らない治から、おにぎり屋の主人の治に、少しずつ時間をかけて変わっていってしまったのだと思った。高校の頃の治しか知らなければ、今こうしておにぎり屋をやっていることなど少しも想像が出来なかったように思う。器用に会計を行って、お客さんを送り出した後、この店に残ったのは己ひとりだった。人のいなくなった店は静かだった。先ほどまでの喧騒がうそのように、しんと静まり返ってしまった。治が、テーブル席の片づけをしているときの物音が聞こえるだけで、それ以外の音は何も聞こえない。テーブル席の片づけを終わらせた治が、カウンター側に戻って来た時に、意を決して話を切り出すことにした。

「そういえば、言うことあったよ」
「なんや、畏まって」
「俺、結婚することになったんだよね」

治どころか誰にも伝えていなかった結婚の話を伝えた。しかしながら、治はあまり驚いたような顔をしていなかった。「おお、おめでとう」と既に知っていたような顔をして、そう言ったのだ。「なまえから聞いてた?」そう治に問えば「いいや、今知った」と返されてしまった。

「あまり驚いてなかったから知ってたのかと思った」
「いいや、今知ったけどやっとか、って感じやった」
「そう?」
なまえと何年付き合っとったんや」
「高校の時からだから十年以上は経ってるね」

治は「角名が結婚なあ」と空を仰ぐような顔をしていた。カウンター越しに立ち、仕事をしていたはずの治の手はすっかり止まっていて、己との話にすべての気を取られてしまっているようだった。治は「なんか、しっくり来おへんな」とぼやいた。己が結婚することがそこまで想像つかないものだったのかと思ったけれども、どうやらそういう話ともちがうようだった。治が暫く考え込むようなそぶりを見せた後で、思い当たるところがあったのか「あれや!」と急に大きな声を出したので驚いてしまった。

「角名が結婚連絡を対面でしてきたのがヘンやったんや」
「ああ、そういうこと。たしかに、俺もメッセージだけでいいかなって思ってた」
「やろ?『話すことある』言うて喋ったんがソレやったから」
「友達に会うんだから結婚の連絡くらい口で言えって言われたよ」
「なんや、それもなまえかい」
「別に、結婚の連絡なんてそんなに特別なものでもないし、メッセージで良いと俺は思うんだけどね」
「そっちの方が角名らしいわ」

もし兵庫に来てなかったらメッセージ一本で済ませてたかもね、と言うと治は笑っていた。

「ほんま長かったなあ、なまえも待ちくたびれとったやろ」
「……結婚ってさ、タイミングってあるじゃん」
「逃し過ぎて困っとったんやろ」
「まあ、そうだね」

「侑も『アイツらいつ結婚するんや』言うとったわ。しかし凄いな、高校のころから付き合ってて結婚するなんてな」そう治が過去を懐かしむような顔をしてそう言った。カウンターの向こうにいる治から、持ち帰り用の袋に入ったおにぎりがカウンター席のテーブルの上に置かれた。

「これ、何?」
「結婚祝いや。明日の朝にでもなまえと食べ」
「ありがとう」
「ちゃんと治クンからて言いや」
「わかったよ」

治は「なまえにもヨロシク言うて」と言っていたので「アイツ治のこと覚えてるかな」と言えば、治は渋い顔をしていた。「忘れとらんやろ。忘れても宮言えば思い出すやろ」と自信満々な調子で治が言うのでつい笑ってしまった。治は「なまえも結婚か」と咀嚼するように言うので、「そんなに変な感じする?」と問えば、治が「結婚自体はヘンでも無いけどな」と言ったあとで、口を開いた。

「こない結婚のタイミング逃しとったら、世界が滅亡するとでも言われんと結婚しようと思わんやろ」

治が食後のお茶を、己の座るカウンター席のテーブルの上に出してきた。出された暖かいお茶を有りがたく受け取って、湯呑に口をつける。暖かいお茶の味が口の中一杯に広がった。世界が滅亡する、ねえ……そう治の言ったことを反芻しながら、ふう、と一息ついた。
2021-04-11