小説

失恋の話

 好きな男の子がギターを弾くのが上手な女の子が好きと言ったからギターを弾く練習をはじめた。我ながら単純すぎる動機だった。ギターを弾けたらモテるからという理由でギターを始めた生駒のことを単純な動機だと言って笑っていたこともあったけれども、わたしも同じようなことをしているので彼のことをすっかり笑えなくなってしまった。好きな人に近づきたいから、自分のことを選んでほしいと思うから、好きな人の好きな女の子になりたいと思ってしまう。好きな人に少しでも近づけるのであれば、わたしが出来ることで有れば何だってやりたい。それが、今までやったことのない楽器を弾くことであったとしても、だ。

「ギターの練習をはじめたの」

わたしの作戦室に連絡を届けに来てくれた嵐山は、これと言ってモノを置いていなかった作戦室にギターが増えているのを見て、「ギター、弾いてたのか?」とわたしに問うた。わたし以外の隊員が帰ってしまった後、こっそりとギターを引っ張り出してギターの練習をするようになって一週間ほどが経ったころのことだった。「見る?」そう、ギターを弾けないくせにわたしがそう彼に問えば、嵐山が「ああ」と言うので、わたしはギターを引っ張り出した。わたしがおぼつかない手つきでギターの調弦をしながら、嵐山にギターの練習を始めたことを言うと、嵐山はアコースティックギターと、わたしを交互に見た後に「みょうじがギターを?」と問うた。「そう、ギター」そう彼に言えば、嵐山は「そうか」と言った。そうして、何故またギターを始めたんだ、とわたしに問うた。わたしは、好きになった男の子がギターを弾くのが上手な女の子のことが好きだからと言っていたから、と言うのが子恥ずかしかったので、「ギターを弾けたらカッコいいでしょ」と適当に理由をつけて誤魔化した。誤魔化したあとで、嵐山相手に見栄を張ってどうするんだ、と思ってしまった。嵐山はわたしの取ってつけた言い訳を聞いて、「そうか……?」とわたしの理由に不思議そうな顔をしていた。

「……生駒なら納得してくれると思う」
「ああ、そうかもしれないな。俺は生駒じゃないから俺にはよくわからないよ」
「それは嵐山が元々カッコいいからじゃない?」
「ありがとう」

元々カッコいい人はこれ以上かっこよくならなくていいからね、とわたしが言うと嵐山はあまり納得していないような顔をしていた。嵐山はカッコいい顔立ちをしているけれども、嵐山自身が自分のことに無頓着なところがあるので、彼自身自分で自分のことをカッコいいとは思っていないのかもしれない。こういう無自覚なイケメンもなかなか罪だよな、と思いはするけれどもそれを嵐山に言ったところで彼はイマイチ納得してくれないような気がする。そういう点においては多分、生駒との方が話がよく合いそうだと思った。ギターの調弦が終わらせて、ギター入門と書かれた入門書を片手にギターを構えるわたしのすがたを、嵐山は作戦室のソファに腰を下ろして見ていた。人に見られながらギターの練習をしたことが無かったので、弦を抑える指が少しだけ震える。これがAコード、これがEコード、そしてこれがDコード──わたしが声にだして言いながら、六弦を押さえているのを嵐山は黙って見ていた。

「まだ今のわたしにはこれが精いっぱい」

そう、基本的なコードを押さえたところで嵐山が「おお」と感嘆の声を上げた。「曲が弾けるようになるにはまだまだ先が遠いよ」と嵐山に言えば、嵐山は「弾けるようになるのが楽しみだな」と言ってくれた。いっそ生駒に教えてもらえば良いんじゃないか、と嵐山は言ってくれたけれども、わたしが邪な理由でギターを始めたことから、ギターを弾くこと自体を少しだけ後ろめたく思っているところがあったので、「生駒も忙しいだろうし遠慮する」ともっともらしい理由をつけて遠慮しておいた。





 ギターの練習は存外楽しかった。弾けば弾くほど好きな人に少しずつ近づいて行っているような気がするからだった──わたしが、カッコいい女の子かどうかは別として、出来ることが増えれば増えるほど、好きな人の好きな女の子に近づけているような気がしてならなかった。ギターを弾き始めて、簡単な曲が少しずつ弾けるようになってきたころのこと、わたしの恋は終わってしまった。わたしがギターを弾けるようになるよりも前、好きな人にわたしが告白をする前に、好きな人に彼女が出来てしまった。好きな人が好きになって、実際に付き合ったのはギターを弾けるカッコいい女の子ではなかった。カッコいい女の子というよりは、どちらかというと可愛らしい女の子と手を繋いで、仲睦まじく学校から帰っているのを見てしまった。次の日に「彼女?」と聞かなければいいのに、わたしはそう好きな人に問うてしまった。わたしが好きになった人は、まさか一緒に帰っているところが見られていると思っていなかったのか、少し驚いたような顔をした後で、「まあな」と少し照れくさそうな顔をして笑っていた。ギターが弾けるカッコいい女の子が好きってわたしに言ったくせに、その人が好きになった女の子はカッコよさから程遠いところに居そうな女の子だった。嘘つき、そう言えれば良かったのかもしれないけれども、彼はわたしがまさか彼のことを好いているとは微塵も思っていないだろうから、そう言ったところで困らせてしまうだろうと思ったので、苦い思いと一緒に言葉も飲み込んでしまった。「最近付き合ったの?」そうわたしが問えば、彼は首肯した。ずっとその子が好きだったから嬉しいんだ、と彼は聞いてもいないことをわたしに言った。結局ギターの弾けるカッコいい女が好きと言っていたくせに、あの可愛らしい女の子が良かったんじゃないか、と思ってどす黒い感情が腹の底に燻った。「おめでとう」そうわたしは自分の心を殺してその一言だけを絞り出したけれども、自分のこの嫌な気持ちが『おめでとう』の言葉の中に滲んでいるような気がして自己嫌悪に陥ってしまった。彼はわたしの気持ちなど少しも知らないせいか、はにかみながら「ありがとう、みょうじ」と言っていた。





 わたしが失恋した翌日、わたしの作戦室に連絡を届けに来てくれた嵐山は、ソファに腰を下ろした。テレビ画面が良く見える場所に置いたソファのうえで、わたしはだらけていた。作戦室の壁際を見ると、わたしが練習していたアコースティックギターがどうしても視界に入ってしまう。今は失恋の証ともなってしまったそれを直視したくなくて、わたしはそれに背を向けられる席に座った。少しでも、失恋から目を逸らそうとした結果が、この空しい抵抗である。
テーブルの上には、嵐山が持ってきてくれた書類が置かれている。「これ、確認しておいてくれ」そう嵐山が言うので、「隊長に伝えておくね」と言えば、嵐山は「ああ、頼む」と言った。わたしひとりだけが残っている作戦室を見渡して、「もう皆帰ったのか」と彼は問うた。「うん、皆明日早いんだって」そう嵐山に言えば、彼は納得したような顔をしていた。嵐山は、わたしが寝転がっているソファの向かいのソファの上に腰を下ろした。そうして、作戦室の片隅に置かれた、わたしが今最も見たくないアコースティックギターを見ていた。これは、わたしが触れられたくないと思っても触れられてしまうだろうなと思った時に、嵐山はわたしに「ギターの調子はどうなんだ」と問うた。

「ギターの練習はもうやめたの」

わたしにとって失恋の証でもある部屋の隅に置かれたアコースティックギターを、片づけておけばよかったと思ってしまった。わたしがギターを弾くのを辞めたのだと言うと、嵐山は目を丸くしていた。部屋の片隅に置かれたままのギターと、わたしとを交互に見た後で、嵐山は口を開いた。

「なぜ」
「上達が見込めなかったから」

そうわたしが苦しい言い訳をすると、嵐山は困ったような顔をしていた。そうして、「みょうじなら出来るさ」と朗らかに笑っていた。「弧月だって、練習をたくさんして上手になったじゃないか」そう、嵐山がやさしく声をかけてくれるのが、今は辛かった。好きな人がギターを弾くカッコいい女が好きだと言ったからギターを始めて、好きな人が、彼の愛した人と結ばれてしまったからギターを弾く理由がなくなってしまっただけのことでしかない。わたしは嵐山の思ってるような人じゃない。ただ、邪な理由ではじめて、勝手にやめてしまっただけの人でしかないんだよ、と言いたかった。嵐山はわたしのことを随分前向きな人であるように見ているみたいだったけれども、わたしは彼の思うようなひとでは決してなかった。

「だって、好きな人が『ギターが上手なカッコいい女が好きって』言ったから始めただけだし」

そう、下手な見栄を張った言い訳をすることをやめて嵐山に言うと、嵐山はいずれこの部屋で放置され続けて埃を被ってしまうだろうアコースティックギターを眺めた後で、わたしの目を見ていた。わたしは、嵐山の視線に耐えられなかったので、彼から目をそらすように、彼に背を向けた。ソファの背もたれがわたしの視界いっぱいに広がって、今彼がどんな顔をしてわたしを見ているのかはわからないけれども、今の嵐山の表情を見る勇気は無かった。

「好きな人に彼女が出来たから、やめた」

そうわたしが言うと、嵐山は「そうか」と言った。声音は、わたしのことを咎めるでもなく、呆れたような物言いをしているようでも無かった。ただ、そういった事実をあるがままに受け止めただけのように、わたしには聞こえた。「昨日のことなんだけどね。ギターが上手なカッコイイ女が好きって言ったのに、全然違う女の子と付き合ってた」そう、負け惜しみのようにわたしが言うと、嵐山が息を呑んだ。彼のことだから、わたしにどういう言葉を掛ければ良いのかがわからなくて困っているのだろうということはすぐに分かった。嵐山は暫く黙った後で、わたしに「辛かったな」と言った。ありきたりな言葉だったけれども、それ以上の言葉を嵐山に求めようとは思わなかった。「辛い」そうわたしが嵐山に言うと、嵐山がソファから立ち上がった音が聞こえた。わたしが起き上がって彼の方を見ると、嵐山は黙ったまま、わたしの横を通り過ぎて、壁に立てかけたままのアコースティックギターの前にしゃがみ込んだ。「……何してるの」そうわたしが彼に問うと、嵐山は「何も」と答えた。弾く人間のいないアコースティックギターと、それと向き合う嵐山と、アコースティックギターと向き合う嵐山を眺めるわたしという、変な絵が出来上がっていた。嵐山はわたしが弾かなくなったせいで、この作戦室のインテリアにしかなっていないアコースティックギターを眺めながら、「これ、どうするんだ」と問うた。

「どうって」
「もう弾かないんだろう?」
「うん」
「しばらく、かりてもいいか」

嵐山はそう、ギターを眺めながらわたしに問うた。わたしは、弾かないギターを持っていてもしょうがないし、このまま作戦室のインテリアの一部になってしまうくらいであれば、嵐山に貸したほうが良いように思えたので、「いいよ」と言った。「ありがとう」嵐山はそう言って、ギターを持ち上げた。ギターを持つ嵐山というものが妙に絵になってしまうので、イケメンはなんでも似合ってしまうんだとぼんやり考えていた。

「嵐山、弾けるの?」
「弾けない」
「教本も貸す?」
「いや、それは大丈夫だ」

わたしは嵐山が何をしたいのかさっぱりわからなかったので、彼と、彼に持たれたわたしのギターをぼうっと眺めることしか出来なかった。随分と間抜けな顔をしていたのか、嵐山はわたしの顔をみて笑っていた。そうして、「きちんと返すから心配するなよ」と言った。

「嵐山がかりたもの返さない人だとは思ってないよ」
「ははは、それなら良かった」

嵐山はそう言って、わたしのギターを持ったまま帰ってしまった。嵐山は帰り際に、わたしに早く帰ってゆっくり休むように言ったけれども、わたしが失恋したことを思い出したのか、「休むことも今は難しいか」と言った。嵐山が妙に気を使ってくれるので、彼の言葉だけをありがたく受け取っておいた。「嵐山は本当にイイ奴だと思う」そうわたしが嵐山に言うと彼は「そうかな、打算かも知れないだろ」と冗談めかした調子で言っていた。嵐山が珍しく言った冗談にひとしきり笑った後で、嵐山が妙に真面目な顔をして、「後、隊長にもよろしく伝えておいてくれないか」と言った。わたしはそれに首肯した。わたしが返事をしたのを確認して、嵐山は帰ってしまった。わたしひとりだけが残された静かな作戦室の中で、先ほどまでアコースティックギターが置かれていた場所を眺める。嵐山が持って行ってしまったから、そこにギターはもう無い。わたしはギターのなくなってしまった一角をぼうっと眺めた。わたしだって、好きな人の好みの女の子になりたかったのにな、そうして、好きな人と結ばれたかったのに最初から脈も無かったんだな、と自分の終わってしまった恋のことを思い出して、少しだけ泣いた。
2021-03-21