小説

その子の秘密

「およ」
「どうしたの」

 部活の休憩時間中、治が突然声を上げた。ドリンクを片手に持ったままの治の視線は、体育館の二階のギャラリーの方に向けられている。治の視線を追えば、そこには制服を着た女子生徒がふたり歩いているのが見えた。制服姿のふたりは、ギャラリーの上をのんびり歩いていた。たびたびおしゃべりをしているみたいだったけれども、騒がしいこの体育館の中では彼女たちの話は少しも聞こえやしない。放課後の部活動が始まった時間に、運動部が使う体育館の中を制服で歩いている生徒はほとんどいない。体育館で部活を行う運動部の部活生は皆トレーニングウェアに着替えているし、運動には参加しない運動部のマネージャーたちも皆、ジャージに着替えて体育館に来るので、制服すがたのままの生徒が居ないのである。そのせいか、ギャラリーを歩く制服姿の女子生徒というものは、この場所ではひどく浮いているように見えた。

みょうじさんや」
「え?」
「あれ、そうやろ」

治に言われて女子生徒の顔をマジマジとみると、たしかに治の言う通り、女子生徒ふたりのうちの片方は、隣の席のみょうじなまえだった。何の部活にも所属していないみょうじさんが、学校の授業が終わり、長いショート・ホームルームが終わってから一時間以上も経っている今の時間に学校に残っていること自体珍しいのではないかと思う。「なんで学校残ってんだろ」そう、思わず口に出して言えば、治がどうでもよさそうに「部活やない?」と言ってドリンクに口をつけていた。

みょうじさん部活やってないから」
「角名詳しいやん」
「このあいだ聞いた」

治はさして興味なさそうに「ほーん」と適当な相槌を打ってきた。みょうじさんは、もうひとりの制服姿の女子生徒に連れられて来ているのか、女子生徒に手を引っ張られるようにしてギャラリーを歩いているように見える(みょうじさんと一緒にいるもう一人の女子生徒は、己の知り合いではなかったので別のクラスの人なのだろうと思う)。部活生でもなんでもないみょうじさんが、校舎ならまだしも、彼女に縁すらなさそうな体育館に居るので、みょうじさんがこんな時間に未だ学校に残っている理由は余計に見当がつかなかった。みょうじさんがなんでこんなところにいるのか、そう考えながらみょうじさんの姿を目で追っていると、「角名何見てん」と治の隣にやってきた侑がそう問うてきた。厄介なことになりそうで嫌だな、と思いながら「何でもないよ」と言ったのであるが、「みょうじさん見とる」と治が余計なことを言った。「みょうじさん?」侑がそう彼女の苗字を呼んだ。みょうじさんが言うには侑と同じクラスになったことがあるらしいから、侑が知らないわけはないだろうが、侑はみょうじさんのことをすっかり忘れているのか(みょうじさんはクラスで目立つタイプではないから、侑との接点もあまりなさそうだし、侑のことだから忘れていても何ら不思議ではないが)、みょうじさんが誰かあまりよくわかっていない様子だった。「ウチのクラスのみょうじなまえ」そう治が言うと、侑は「ああ、知っとる」とようやく思い出したような顔をしていた。

みょうじさんて、なまえちゃんのことかい。一年の時同じクラスやったわ」
なまえちゃんて何やねん、チャラいわ」

双子がそう、くちぐちに言うのを無視してみょうじさんを眺めていると、みょうじさんは体育館の己らが居るコートから反対側のコートが良く見えるところに歩いて行ってしまった。今日は、体育館を半分に分けて、半分を男子バレー部が、もう半分を女子バレー部が使う日だった。現在休憩中の男子バレー部の隣のコートでは、女子バレー部が、ふたつのチームに分かれてミニゲームを行っている最中だった。サーブで飛んできたボールをそのままセッターがセットアップし、スパイクを打つ。相手チームは、打たれたスパイクを拾い上げるも、他がフォローできずにボールが床に落ちてしまい点数を取られてしまった。治は興味なさげな顔をしてミニゲームをぼんやり眺めていて、侑は渋い顔をして相手チームの方を見ていた。今のは拾えた球でしょ、と点を取られてしまった相手チームに対してそう思ってしまったのであるが、もしかしたら、侑も己と同じことを考えていたのかもしれない。己が思った通りの激が、監督から飛ぶのを聞きながら、思わずドンマイと心の中でつぶやいた。ゲームを暫く眺めた後で、二階のギャラリーに立っているみょうじさんの方を見た。みょうじさんは、女子バレー部が行っているミニゲームを真面目な顔をしてみているようだった。再び、己の目から見れば拾えそうなスパイクを相手が拾いきれずに落としてしまうところを見たとき、みょうじさんは一緒にいる女子生徒に何かを話しているようだった。その様子が、普段見るみょうじさんに比べて随分興奮しているように見えたので、みょうじさんにとっては今のプレーでも十分満足するものだったんだ、と思ってしまった。みょうじさんは部活を何もやっていないと言っていたし、中学生のころにやっていた部活も吹奏楽部だったと言っていたので、バレーボールのことはきっと、何も知らないのだろう。みょうじさんの視線の先には、つい今しがたスパイクを決めた女子生徒が居た。よく聞こえる彼女の声が溌剌とした印象を与える。彼女はたしか同じ学年の、三組の女子生徒だったように思う。その人と己との間に面識がないからよく知らないけれども、記憶が正しければそのはずだった。もしかしたら、みょうじさんの言っていた彼女がいつもお昼の約束をしているという友人が、その子なのかもしれないと思った。友人のことになれば多少の贔屓目も入るか、と我ながら辛辣な感想を抱きながらみょうじさんの様子をつい眺めてしまう。そうして暫く、彼女の表情を見ていると、みょうじさんの目は試合そのものではなく、彼女の友人らしい女子に注がれていることに気づいてしまった。彼女は、行われているゲームの結果にあまり、興味はないのかもしれない。己を見るときのあのけだるそうな様子とは違う、あまりに真剣な面持ちだったので、彼女にとって興味があるのは彼女の友人そのもので、友人を見るための理由にバレーボールがあっただけなのかもしれないと思ってしまった。みょうじさんのやけに熱の籠った視線に、どこか既視感を覚える。”ああいう人”をどこで見たんだっけな、と考えてみるけれども、あまりよく思い出せなかった。「なんや角名、なまえちゃんの事ばっか見よって」嫌な笑みを浮かべた侑が、そう話しかけてきた。侑の隣にいる治の表情は侑に比べればおとなしいものであったけれども、声に出すか出さないかの違いだけでその視線が言っていることは、侑とそう変わりないように見えた。

「そういうのじゃねえから」
「まだ何も言うてへんやろ角名ァ」
「侑本当にウザい」
「まあ趣味は悪くないんちゃう」
「治まで何なのお前ら」

みょうじさんと一緒に居る彼女の友人が、男子バレー部側のコートを指さしていた。女子バレー部を見ていたみょうじさんの視線が一瞬だけ、男子バレー部のコートの方に注がれるも、すぐに視線は元の女子バレーの方に戻って行ってしまった。みょうじさんの友人が、男子バレー部のコートを眺めながら、何かをみょうじさんに話しかけているようだったけれども、みょうじさんは友人の顔を見て適度に相槌を打っているだけで、こちら側のコートには少しも視線を寄越さなかった。全く興味がないということがわかりやすすぎて逆に笑えてきてしまい、思わず笑ってしまうと侑が「なんやねん」と言い出した。「急に笑うなや、キショイわ角名」と言う侑を適度にあしらっていると、休憩終了の合図が出たので、己らは再びコートの中に入る。最後に見たみょうじさんは相変わらず、女子バレーの方に夢中になっていて、己がみょうじさんのことを遠目で眺めていたことすら気づいていなさそうであった。


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 朝のショート・ホームルームが始まる間際に、みょうじさんが滑り込むように教室に入ってきた。黒板の上の壁掛け時計の時間を眺め、担任の先生が教室にまだきていないことを確認して「セーフ」と小さな声でつぶやいた後に席についていたので「みょうじさんおはよう」と話しかけた。みょうじさんは「おはよう」と挨拶を返してくれた。先ほどまで慌てて教室に入ってきていたというのに、みょうじさんは遅刻しそうになっていたという空気を微塵も感じさせないほど落ち着いた様子で、一限目に使う教科書をカバンから引っ張り出して机に置き、授業の準備をしていた。

「ねぼうでもした?」
「まあ、そんなところ」
みょうじさんでもねぼうするんだ」
「まだ遅刻まではしたことないけど、たまにするよ」
「へえ、結構意外」
「そう?」
「朝弱そうに見えないから」
「弱すぎもしないけど、あんまり強くもないかも」

そう言うみょうじさんは己の顔をマジマジと見た後に「角名くんはさあ、」と口を開いた。

「いつも朝早いよね」
「朝練あるからね」
「朝練遅刻したりしないの?」
「しないよ」
「角名くん朝弱そうなのに意外」
「顔が眠そうだから?」
「うん」
みょうじさん結構言うようになったね」
「それほどでも」
「褒めてねえよ」

みょうじさんはくすくすと笑っていたけれども、担任の先生が教室に入ってきた瞬間、黙って黒板の方を向いた。出席をとった後で、先生が連絡事項を少しだけ喋った後で、ショート・ホームルームが終わってしまった。夕方のショート・ホームルームよりはるかに短い時間で終わってしまったので、先生もやればこれくらいの長さで終わらせられるんだから、夕方もこれくらい短く終わらせてほしいと思ってしまった。一限目は移動教室が無いので、自席に座ったまま、自分の引き出しから教科書を引っ張り出す。隣の席のみょうじさんは、既に教科書とノートを開くところまで準備が終わっていて、いつ授業が始まっても良い状態になっていた。「そういえばさ」そうみょうじさんに話しかけると、みょうじさんがこちらを向いた。「昨日なんで体育館にいたの?」そう問えば、みょうじさんが「昨日?」と聞き返してきた。「昨日の放課後体育館のギャラリーにいたでしょ」そう彼女に言えば、ようやくわかったのか、「ああ」と言った。

「卓球部の子に用事があったからそのついでに体育館の方も覗いて帰ったの」
「へえ」
「角名くんも体育館にいたんだ」
「俺も部活あったからね」

「そうだったんだ、知らなかった」そうみょうじさんが言った。「女バレの隣のコート、男バレが使ってたじゃん」そうみょうじさんに言ったのであるが、みょうじさんは「バレー部が使ってたのは知ってるけど、角名くんいなかったよ」と言った。昨日のみょうじさんは、男子バレー部の方を全くと言っていいほど見ていなかったことを思い出して、みょうじさんが気づいてなかったのも無理はないよなと思った。「女バレのミニゲーム見てたの知ってるよ」そうみょうじさんに言うと、みょうじさんは少し恥ずかしそうな顔をして俯いてしまった。「なんで恥ずかしがってんの」そう彼女に問うたのであるが、みょうじさんは「やっぱり変な感じだった?」と己に質問で返してきた。

「ヘンって何が?」
「変じゃない?」
「今のみょうじさんはヘンだけど、昨日は別に」
「本当?嘘ついてないよね?」
「何で嘘つかなきゃダメなの」
「角名くんは意地悪を言うことがあるから」
「俺そんなに信用ないの」
「手を胸に当てて考えてみてよ」
「潔白そのものだね」

みょうじさんは渋い顔をして己のことを見ていた。その時の表情があまりにおかしかったので思わず笑ってしまうと、みょうじさんは「変じゃないならいいよ」と言った。昨日、ギャラリーから女子バレー部の練習を眺めていたみょうじさんのことを思い出す。あの時の彼女の熱の籠った視線に感じた既視感の正体の尻尾が、なんとなく掴めたような気がした。あの時の彼女の視線は、己らの試合を見ていた観客のものに限りなく近いものがあった。それも、ただバレーボールをしている選手を応援しているというものではない、選手に対して個人的な感情を入れ込んでいる者の目だった。みょうじさんに抱いた既視感は”それ”だった。特定の選手に恋愛感情を抱いている子が選手を見るときの、あの目に限りなく近いものだった。それが分かってしまえば後は簡単だった。

みょうじさんって、好きな子いるでしょ」

みょうじさんにそう問うてしまった。みょうじさんは、目を丸くしたのちに、引き攣った笑みを浮かべて「急に、何さ」と震える声で言った。もしかして、と思ったけれども、もしかしなくとも、つまりそういうことなのだろうと言うことを己は察してしまった。みょうじさんが真剣なまなざしで眺めていた、あのミニゲームと、彼女が見ていた視線の先のこと──それらを思えば思い当たる節は一つしかない。「みょうじさんって三組の……」まで言った瞬間、みょうじさんが立ち上がって己の口を手で直接ふさいできた。急にみょうじさんがそんなことをするとは思わなかったので、彼女の顔をまじまじと見てしまった。みょうじさんの表情は真剣そのものだった。彼女の口から述べられずとも、己の考えていたことが正しいということを理解するには十分すぎた。「誰にも言わないで」そうみょうじさんが言うのに、己は首肯した。「本当に言わないでね」念を押されて二度、言われたことにまた首肯すると、みょうじさんの手がようやく外れた。

みょうじさんって大胆なことするね」

そう冗談めかして言えば、みょうじさんは少しだけ恥ずかしそうな顔をして己の顔を見ていた。
2021-02-28