小説

それぞれの終わりについて

#後日セリフに修正が入ります

「治も行くよね」

 高校卒業後、進学で関東に出てそのまま向こうで就職してから一度も兵庫に帰ってきていなかったなまえが、久しぶりに帰ってきた。急になまえから電話がかかってきたと思えば、「今兵庫の実家にいるんだけど」から始まり、簡単な挨拶の後でなまえが言った言葉はそれだった。『治も行くよね』と言うのは、己の双子のきょうだいである侑の引退試合のことを指しているのだということはすぐに分かった。侑は高校でバレーボールを辞めてしまった己とは違い、高校を卒業した後もずっとバレーボールを続け、時折悩むこともあったようであるが、バレーボールで飯を食う生活を続けていた。東京オリンピックの代表選手にも選ばれるほど、バレーボール選手として大成した侑の、バレーボール選手としての最後の試合が、彼の所属しているチームのホームタウンである大阪にて行われることが告知されたのは、ほんの数ヶ月前の出来事だった。宮侑の引退については、男子バレーボールを好きな人たちの中では随分と衝撃的な出来事だったらしく、彼の引退に関する話題で賑わっているのをSNSで見かけた記憶がある。彼が、ファンの人たちに惜しまれつつも最後の試合に向けて応援されているのを見ると、侑がファンから愛されていることをひしひしと感じることができた。侑がこれほどまでに愛されているのを見ると、彼はかなり幸せものだと思う。月日は過ぎ、ついに侑が引退する日が目の前まで来てしまった。侑のバレーボール選手生命は短くもなければ長すぎるものでもなかったけれども、侑が高校バレーをしていた頃から彼と鎬を削りあっていたバレーボールプレイヤー達は、彼の引退を皆早すぎると言って惜しんでいた。稲荷崎高校で同じチームメイトとして過去、一緒にプレーしていたメンバーの間でも、侑の引退の話で持ちきりだった。死ぬまでバレーしてそうなのに、と言ったのは角名だったか、銀だったかは定かではないけれども、今となってしまえばそれも、誰が言ったかなぞどうでも良い話だった。彼らは都合が合えば現地に見に行くと言っていたけれども、皆それぞれの場所で各々の生活があるため、全員で揃って出かけることは叶わなかったし、己も侑の最後の試合が行われる寸前まで現地でバレーボールを観るかどうかを決められなかったので、彼らと一緒に見に行く約束はしていなかった。
 元チームメイトの間でも話題になった侑の引退を、己を含めきょうだいである侑との交流が現在までも続いているなまえが知らないわけは無かった。「治も行くよね」というなまえの質問に、二つ返事で「行く」と返せば、なまえは「そう」と電話口で驚きもせずにそう言った。なまえにとっては己の回答がさも当たり前であるように思えていたのかも知れない。「行くん?」そうなまえに問えば、なまえは「もちろん」と答えて、試合の自由席のチケットを取っていると言った。侑の引退試合の話を聞いて、試合の前後日に仕事の休みをもぎ取り、なまえは関東から兵庫の実家に戻ってきたのだと言う。「ようやるわ」そうなまえに言えば、なまえは「仕事片づけるの、ちょっと頑張ったよ」と言っていた。なまえに、「俺もチケット取ってん」と言えば、なまえは「おにぎり屋の出店じゃないんだ」と言った。おにぎり屋も、試合会場に出店する予定であるけれども、そっちのほうはバイトの子たちに任せることになっていた。正しく言えば、バイトの子たちに任せることになった、である。店のことをやるついでに侑の引退試合を見れれば良いか、程度に考えて出店時にやるべきことを考えている時に、「侑さんの最後の試合くらい客席で見たってください、こっちはわたしたちでも出来ますから」と店に長く勤めてくれているバイトの子に背中を押される形で、己はおにぎり屋の合間に試合を見るのではなく、観客として試合会場の体育館の観覧席で試合を見ることになったのであった。それをなまえに言えば、なまえは「治も愛されてる店長で良いね」と言った。確かにそれは彼女の言う通りだった。

「侑の最後の試合やしな」

そうなまえに言えば、なまえはくすくすと笑って、「相変わらず仲いいね」と言った。散々侑と喧嘩をしているところを幼いころからずっと見ているくせに、なまえが改まったようにそう言うので思わず顔を顰めてしまった。

「キショイこと言うなや」
「オカシイこと言うてないやん」
「それがキショイんじゃ」

もう関西訛りがすっかり抜け落ちて、随分東京訛りに染まってしまったなまえの口から出てきた関西訛りの言葉を聞いて、なんだか己のよく知っていたなまえが戻ってきたような気がして懐かしくなってしまった。思ったことをそのまま言えば、なまえは「なにそれ」と言って笑っていたけれども「今のなまえは知らん人みたいやし」と言えばなまえは「寂しいこと言わんといて」と茶化すように言った。

「侑に試合を見に行くこと、言った?」

そうなまえが問うてきた。「いや、侑には言うとらん」そうなまえに答えると、なまえは「そうなの?」と少し驚いたような調子で言った。そうして、「わたしも、侑には内緒にしてるから侑には黙ってて」と言った。「なんや、なまえも侑に黙っとるんかい」そう言えば、なまえは「侑に言ったら得意げな顔してきそうで嫌だったから内緒にしてる」と言った。引退試合を見にいくと伝えた後の侑の得意げな顔が簡単に想像できてしまって少しだけ嫌になってしまった。自分と同じ顔の侑の浮かべる得意げな顔は、何となく自分も同じような表情を浮かべているのだろうと思ってしまうので少しばかりうんざりしてしまう。なまえもきっと、己が考えているだろう侑の表情を思い浮かべた結果、侑に伝えないことを選んだのかも知れない。

「治も行くなら一緒に行こうよ」

そうなまえは言った。治が指定席チケットだったら入口まででいいから、となまえは言っていたけれども、己が取っていたのは自由席のチケットだったので、なまえの誘いに乗って彼女と一緒に侑の試合を見に行くことにした。なまえと約束をしたのが、侑の引退試合が行われる前日のことである。


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「侑も引退か」そう、観客席に座ったなまえは言った。「侑の試合見てたん?」そうなまえに問えば、なまえは「ネットの中継で見てた」と答えた。東京でやってる試合は何度か行ったかな、と言うなまえに「侑に言うたんか?」と問えば、なまえは黙って首を横に振った。「言えばええやん」と言ったけれども、なまえは「なんか得意げな侑の顔が浮かんでつい」と言った。何だかなまえの言いたくないと言う気持ちも、わからなくはなかったのでこれ以上は何も言わなかった。眼下のコートの中で行われている試合を観ているなまえの横顔を盗み見た。コートの中で行き来するボールの動きを目で追っているなまえの真面目な横顔が、そこにはあった。強烈なスパイクが決まって点数が入る。ボールがネットを挟んでコートの左右で行き来し、長いラリーの後で、体育館の床にボールが触れて点数がまた入る。床にボールが落ちるすれすれの所でボールが拾い上げられたり、強烈なスパイクのブロックが上手く決まるたびに、客席から大きな歓声が上がり、会場は大いに盛り上がった。ゲームを応援する観客の黄色い声に、見た目も派手なチアの応援──それらすべての熱量のせいか、この試合会場は熱気に包まれていた。

「上手いな」

相手チームのリベロが上手くボールを拾うところを見て思わず舌を巻く。無自覚のうちにそう口から溢れてしまったのを聞いたのか、なまえがちらりと己の顔を見てきた。そうしてまた、視線を眼下のコートに向ける。なまえは、己が独り言をいうたびにちらりと己の顔を見ては、うれしそうに笑みを浮かべていた。

「治楽しそうだね」

そうなまえは言った。「やっぱバレーはええな」おもろい、そうなまえに言えば、なまえは「本当に好きなんだね」と言った。バレーは好きだ。見るのも、自分がプレーするのも好きだった。そうなまえに言えば、試合を眺めていたなまえは己のほうをちらりと見ては、「今日来れてよかった」と言って笑っていた。燥ぎ過ぎている自覚はあった。侑の最後の試合だから余計に気持ちが盛り上がっているのかもしれないと思ったけれども、仮にこれが侑の最後の試合でなかったとしても、こんなに素晴らしいプレーを見せられて気持ちが昂らない方がおかしいだろう。侑のセットアップからの速攻が決まると思いきや、相手のブロックがそれをシャットアウトした。完璧すぎるブロックに思わず舌を巻く。相手チームに一点が加算されて、客席からは大きな歓声が上がった。
相手チームのサーブからゲームが始まる。強烈なサーブが飛んでくるのをリベロが拾い、ボールが繋がる。強烈なサーブの勢いを殺した、ゆっくりとしたボールが体育館の天井高くに上がる。「上手い」無自覚のうちに思わずそう声を出してしまった。高く上がったボールを、侑が丁寧にセットアップする。そこから攻撃に入り、見事に一点をもぎ取った。コートの中に立っている人間は誰もが皆楽しそうにしているように見えた。
「えらい楽しそうやな」なまえがそう、関西訛りの調子で言った。「おもろい試合しとるわ」そう答えると、なまえは「ちゃう、侑や」と言った。なんや、俺ちゃうんかいと思ったけれども自分のことだと勘違いしたことが恥ずかしかったので何も言わずに黙っていた。そう言うなまえの視線は、侑を追っていた。「侑もやるやん」そう、なまえに言うと、なまえは「そうなの?」と言った。「そこそこやな」そう返すと、なまえは「素直に褒めたってや」と言ってくすくすと笑っていた。この客席にいる人たちの中で、どれだけ侑のセットアップが丁寧で、この試合の流れを作っているかに気づいている人はあまり、居ないのかも知れない。侑の丁寧すぎるほどのゲームメイクを、この早いゲーム展開の中で気づける人の方が少ないだろうから当たり前かも知れないが──隣で座っているなまえも、そこまでのことには気づいていないようだった。なまえが見ているのは、バレーの試合の行く末ではなく、楽しそうにゲームをしている侑の様子だけなのかもしれない。侑が楽しそうにボールに触れているのを見るたびに、なまえも嬉しそうな顔をして彼のことを見ているような気がした。なまえにとっては、試合の勝ち負けよりも侑がどれだけ満足にゲームをプレーできるかの方が重要であるのかも知れないと、彼女の、侑を追う視線を見るたびにそう思ってしまう。点数がまた一点、ブラックジャッカルに加算されると侑が得意げな顔をしてコートの中に立っているのが見えた。自分が点を取っていない癖に、侑がドヤ顔をしているのを見るとスパイカーの点は俺の点みたいなもんやと試合の最中に言っていたことをふと、思い出した。点数を取ったのは己であるのにも関わらず、まるで自分が点数を取ったような顔をしているのである。その時の得意げな侑の顔のことを思い出すと、バレーボールをやっていたころの思い出がよみがえってくる。速攻を見てカッコいいから真似してやってみたくなったと言ってパスを出してきたこと、それから──ひとつ、バレーボールをしていた時のことを思い出すと、思い出がもうひとつ思い出されてゆく。そうしてもうひとつを思い出すとさらに、別のひとつの思い出がよみがえってくる。高校二年の時の烏野の試合、三年になって烏野にリベンジを果たせた時の試合、それから──己は侑の試合を見ながら、過去に自分がコートの中でプレーしていた時のことを思い出していた。


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 バレーボールは好きだった。めしのこととバレーボールのことを天秤にかけたときに、ほんのちょびっとだけめしのほうが重かった、だからめしのことをやりたかった。バレーボールを続けなかった理由はそれだけのことである。それだけのこと、と年を取った今であればそう言えるけれども、高校生の頃、進路を決めた時は己にとってとても大きな決断だったように記憶している。
 沢山の客席が観客で埋まった試合会場で、バレーボールが出来たことは、今思えば幸運だったと思う。しかしながら、実際プレーしていた当時はあまり幸運だとは思っていなかった。決して少なくはない稲荷崎の男子バレーボール部員の中で選手として選ばれることだって、どこか当たり前のように思っていた節があった。あの選手の枠に選ばれることも、全国の試合にでる権利も、己を含めた自分たちの実力でもぎとって来たという自負があった。だから、その頃はその幸運とも言える機会を自分たちの手で取れるのが当然だと思っていた節があった。だからこそ余計に幸運であったことに気づかなかったのかもしれないと今更ながらそう思う。
 高校三年生の春高、第四試合目、準決勝が己の最後の試合になった。あの日の試合はいつになく調子が良かったように記憶している。もう、試合に出たのが随分と昔の話になってしまったから、記憶も曖昧になってきている。ただ覚えているのは、あの日の試合が、己にとってとても良いプレーが出来た試合だったということだけだった。ボールに触れるときの手の感触も、ボールがうまく手に合っていたように思うし、上がってくるトスを打つときに見える景色だって、今まで見えていた世界が狭かったのではないかと思ってしまうほどに広く見えた。周りのメンバーの調子だって、悪いものではなかったように思う。この試合に勝てれば決勝戦に進むことが出来て、あともう一回試合が出来る。この試合に勝てればこの楽しい時間はもう少しだけ続くのだと思えば気分が高揚した。しかしながら、結果は残念なものになってしまった。試合の結果は相手の勝ちで、己らの負けだった。己のバレーボールはこの試合で最後になってしまったのである。試合の後で、ロッカールームで着替えながら試合のことを思い出していた。自分にとっては最高のプレーができていたことには違いなかった、しかしながら、試合の結果はその最高の調子に付いてこなかった。良いプレーが出来たのだからそれで良いのだと割り切れるほど、自分は大人には成れなかった。それ相応の結果が付いてこなければ、それは良いものであるとは言えないと思っていた。結果がすべてではないと、およそ一年前に卒業した北さんが言っていたけれども、その言葉の意味を理解できるようになるには、まだ自分はまだこどもだった。

 春高が終わったあとで、己らは兵庫に戻って来た。春高が終わってしまえば、もう己ら三年生は部活を引退することになっていた。最高のプレーは出来たが結果にいまいち納得できなかったあの試合が、自分の最後の試合になったのである。学校には勉強よりもバレーボールをしに行っていたようなものだった己にとって、バレーボールのなくなった高校生活というものは随分と寂しいように思えて仕方がなかった。部活のために毎日持ってきていた、着替えの入った大きな荷物を持って学校に行くことをしなくなって、鞄の中が随分と軽くなっているというのに、己の足はつい体育館の方に向いてしまいそうになる。卒業までの残り少ない時間を、己は体育館に向かうことなく過ごす。部活のない残り少ない日々が始まることを思ったときに、大げさすぎる言い方ではあるけれども、まるで日常が非日常に変わってしまったように思った。
 放課後、授業を終えてすぐに下駄箱に向かう。体育館に向きそうになる足を下駄箱に向かせて、家に帰ろうと思ったときに、なまえの小さな背中が見えた。下駄箱で外履きに履き替えているのを見たところ、彼女もこれから帰りなのだろう。小さななまえの背中に、「帰りか?」と問えば、なまえは振り返って「うん」と言った。「治も帰りなん?」そう彼女は問うた。「もう部活ないからな」そう、なまえに答えてほんのちょびっとだけ寂しさがこみあげてきた。バレーボールというものが己の中で随分大きなウェイトを占めていたことを改めて自覚することになってしまった。靴を履き替え終えたなまえは、己が靴を履き替えているのを待ちながら、「そっか」と相槌を打った。己となまえは、特に約束をしていたわけではなかったけれども、一緒に家に帰ることにした。家に帰る方向は同じだし、偶然会った時に自然に一緒に帰る流れになるくらいには、己らきょうだいとなまえの仲は悪くなかった。たとえ偶然会ったのが己ではなく侑だったとしてもなまえは一緒に帰っていたのだろうと思う。
 なまえの歩調に合わせて隣を歩く。外は真冬に比べれば随分と日差しが暖かくなって春が来ているように思えたけれども、まだ空気は冬の匂いが残っていて、呼吸をするたび冷たい空気が鼻にツンとくる。冷えた風がぴゅうと吹くたびになまえが肩を窄めるのを眺めているときに、なまえが思い出したように口を開いた。

「治、おつかれさま」
「何」
「バレー」

己が、高校三年でバレーボールをやめてしまうことを知っているなまえは、そう己に言った。春高の準決勝、悪くない結果だとは言われたけれども、そんな言葉は己にとっては慰めにもなっていなかった。戦うなら勝ちたい、ただそれだけのことである。「試合はどやったん」なまえはそう、己に問うた。「準決勝。ベスト四や」そう、なまえに言うと、なまえは黙って首を横に振った。

「ちゃう、治が満足したか聞いとる」

なまえの質問は難しいものだった。最後の試合の調子は確かに良かった。今までないくらい、あれが最後に行うバレーボールの試合だというのであれば、調子が良いに越したことはないし、調子が悪くて最後の試合を迎えるくらいであれば良い方が良いに決まっている。しかしながら、結果は己の納得のいくものではなかった。全力でやり切ったはずなのに、くやしさが腹の底にぐるぐるとうごめくのである。

「難しいな」

そうなまえに言えば、なまえは「そっか」と相槌を打った。

「試合は良かった、俺も調子良かってん」
「ほーん」
「でも勝てんかった」

勝てたらもっと良かったんやけどな、そうなまえに言えば、なまえは少しだけ考え込むようなそぶりを見せて、「そっか」と言った。「あれで勝てたらほんまにサイコーやった、それくらいええプレーができたんやけどな、残念やな」決勝戦出たかったわ、そう言えば、なまえは何も言わなかった。バレーもっとやりたい、そう思わず声に出して言うと、なまえが「ほんまに好きやな」と言って困ったように笑っていた。「負けて帰ってきた俺を慰めてくれたってええんちゃう」そう軽口を叩くと、なまえは己の顔をまじまじと見た後で、「うーん」と悩んでしまった。なまえをそこまで悩ませるつもりはなかったんやけどな、と思って居るとなまえが口を開いた。

「治にかける言葉が見つからんねん」

今まで治がバレーを頑張って来とるのは知っとるけど、治のくやしさまではわたしにはわからんから、となまえは言った。「……そか」そう、なまえにそこまで真面目に考えられているとは思わなかったので何も言えなくなっていると、なまえは「治が楽しいプレーが出来たんならええやんて思うけど、治はそれじゃ物足りんのやろ」と言った。「せやな、俺は欲張りやからな」そうなまえに返すと、なまえは己の顔を見てくすくすと笑っていた。


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眼下の試合は進んでいく。早いボールの応酬が続き、一点を取り、取られを繰り返してゆく。両者の点数は拮抗していた。ボールを目で追うのもやっとの早さで進んでいくゲーム、どちらが勝つかの見当もつかない試合を眺めながら、楽しそうにプレーをしている片割れの顔を見る。ほんまええ顔してバレーしよって、そう思って、隣に座っているなまえに話しかけた。

「侑、明日もバレーしてそうやな」

なまえは横目で己の顔をみた後で、「わたしもそう思う」と答えた。今日の侑はいつになく調子が良いように見えた。三刀流になってより脅威となったサーブも上手く決まっているし、この試合全体がしっかりと見えているかのようなゲームメイクを行えているようにも見える。それは、今日が最後の試合になるからいつになく張り切っているからなのか、それとも、今日という日がいつになく調子がよく、それが偶然侑の最後の試合の日だったのかは、己には分からなかった。客席からわかることはその程度のものであったけれども、一緒にプレーしているチームメイトは、侑の調子の良さを余計に肌で感じているのかも知れない。ボールが相手のコートに落ちて審判の笛が鳴る。盛り上がる観客席、スパイクを決めた選手が嬉しそうにしているのを得意げな顔をして見ている侑──それらを眺めているときに、なまえが口を開いた。

「治の時もそうだったよ」

急に己の話をし始めたので思わず、試合からなまえの顔を見てしまった。この試合を見るなまえの横顔が、一瞬だけ己の方を向いた。「何」そうなまえに問えば、なまえは「治の最後の試合」と答えた。なまえが言うのは、高校三年生のころの、春高の準決勝のことを指しているのだろうということは分かった。東京で行われた春高の試合のことを、なまえがなぜ言い出したのかは分からなかった。なまえはあのとき、兵庫で高校生活を送っていて、進学やらなんやらで忙しくしていたことをよく知っていたので、東京に来ているわけがなかったから、己の試合のことなぞ知る由もないはずだった。応援席の隅から隅までを見ていたわけではないから、もしあの応援席の中になまえが居てもおかしくはないと思うけれども、その可能性は少しも考えられなかった。「なんで知っとるんや」そうなまえに言えば、なまえは「うん」と答えになってない答えを言った。「東京やぞ」春高の試合会場が東京で、なまえは兵庫にいたから知らないだろう、そう思ってなまえに言えば、なまえは「知ってるよ」と答えた。そして、「だってわたし、試合見に行ったから」と言った。「お前兵庫おったやろが」そう彼女に言えば、なまえは春高が行われている期間に、東京に新居を探しに行く名目で関東に行くという言い訳をして春高の試合を観たのだと言った。それは、今まで己が知らなかったことだった。

「来てたなら言えや」
「侑と治のために試合を見に行ったって思われるの嫌だったから言わなかった」
「なんでやねん」
「侑と治の得意げな顔が浮かんでつい」
「言われんかったら一生知らんままやったわ」
「……言うつもりも無かったし」

そうなまえは言った。彼女にそう言われて、高校最後の試合の後で、なまえが己に言った言葉を少しだけ思い返していた。何も知らないような顔をして、全部知っていたくせになまえは他人行儀に「試合はどうだった?」と己に聞いていたのである。侑の試合を侑に黙って観に行っている己らのようなことを、この女は己に対してやっていたと言うことになる。

「お前試合どやったって聞いとったやん」
「うん」
「知っとったんか」
「……うん、まあ、そうだね」

わたしはバレーのことよくわからないから治が楽しそうにしてることしかわからなかったけど、となまえは言った。

「あの時の治も今の侑みたいに楽しそうにバレーしてたよ」

治は高校でバレーをやめるって言ってたけど、高校卒業した後もバレーやってるんじゃないかって思うくらい楽しそうにしてた、そうなまえは続けて言った。そうして、ほんとうにバレーをやめて今おにぎり屋をやってるって言うから、本当に治はバレーをやめちゃったんだなって思ったのは結構最近なんだよね、となまえは言った。「なんやそれ」そうなまえに言うと、なまえは困ったような顔をして笑っていた。「ほんとに、春高の治は明日もバレーしてそうだなって思うくらいバレーを楽しそうにしてたんだよ」おじいちゃんになってもやってるかもしれないって思うくらいには、となまえは言った。「今の侑みたいにか?」そう問えば、なまえは首肯した。





 侑の最後の試合は終わった。ブラックジャッカルが一セット目を取り、二セット目を取られ、最後の三セット目を取った。結果、侑の最後の試合は、侑の所属するブラックジャッカルの勝利で終わった。最高の試合に最高の結果まで付いてきたのでこれ以上の不満はないだろう。長いようで短い一試合がついに、終わってしまった。侑の、バレーボール選手としての人生はこの試合の終了をもって終わりになってしまう。生まれてから、老衰して死ぬまでの人生という長い期間のなかで、侑のバレーボール選手としての期間はほんのわずかなものであるように見えるけれども、その期間が短いからこそ、侑のバレーボールのプレーというものは余計に輝いているように見えるのかもしれないと他人事のように思っていた。試合が終わった後で、侑が挨拶をしているのを聞いていた。侑が会場すべてを見渡した後で、引退の挨拶をしていた。この試合のこと、それから、今まで応援してくれたファンや、彼を支えてくれたスタッフへのお礼の挨拶を丁寧に言った後で頭を下げた侑を見た後で、己らは会場を後にした。結局、侑にこの試合を観に来たことは告げずに、なまえとふたりで黙って帰った。会場を出て、最寄り駅まで歩きながら、なまえが口を開いた。

「なんか、わたしの知らない侑みたいだったな」
「なんやねんそれ」

そう言えば、なまえが「侑があんなに丁寧なあいさつが出来るなんて思わなかったんだよ」とかなり失礼なことを言っていたので思わず笑ってしまった。己らも年を取ったのだから、侑も当然年を取る。年を取れば多少は大人になるのだと思いたい。己はともかく、なまえの良く知る侑のすがたというものは、もしかしたら高校生のころで止まっていたのだろう。軽口を叩き、調子のよいことを言う侑のすがたばかりを見ていたら、公式の場でしっかりと挨拶の出来る侑のすがたをみれば少しくらいは驚いても仕方がないことなのかもしれない。

「試合、良かったな」
「せやな」

大阪から兵庫に向かう電車に乗って、これからなまえは実家へ、己は自分の自宅へと帰宅する。同じ試合を見ていただろうレプリカユニフォームを着たひとのすがたがちらほらと見える電車に揺られながら、己らは小声で話していた。

「侑はええ試合出来て良かったやろな」
「治からみても良い試合に見えたの?」
「あれ以上ええ試合もそう出来んやろな」

侑はほんま恵まれとるで、そう言えばなまえは「侑が良い試合出来たと思ってるなら、わたしはそれでいいかな」と言った。「なまえはどやったん」そうなまえに問えば、なまえは「素人考えなんですけれども、よろしいでしょうか」と畏まった風に言うので思わず笑ってしまった。「ええよ、俺もプロちゃうしな」そう返せば、なまえは「経験者に言うのは恐れ多いよ」と言っていた。「なんや、言いや」そう言えば、なまえはおずおずと口を開いた。

「侑がえらい楽しそうにしてたから、試合観てよかったって思った」

なまえにとっての今日の試合はやはり、勝敗よりも侑がどうだったかの方が大切だったようであった。なまえは「最後の試合がいい試合で、もっとバレーやりたいって思ってるくらいが丁度いいのかな」と言った。なまえにそう言われて、己は春高のことを思い出していた。あの絶好調だった試合、あんなに楽しい試合が出来たのであればまた明日もバレーボールを続けてたいと思ってしまった日のことである。「欲張りたくなるくらいが丁度ええねん」そうなまえに言えば、なまえは「治もそうだったの?」と問うた。「せやな、もっとバレーしたい、て思たもんな」そうなまえに言えば、なまえは己の顔を見て可笑しそうにくすくすと笑っていた。


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 侑の引退試合の翌日、なまえが店にくることになった。昨日の帰り際、関東に戻る前に己の店に行きたいと言っていたので、急遽営業時間をいつもより二時間ほど短くすることにした。お客さんが居ない方がなまえもゆっくりできるだろうと思ったからだった。外に掛かっている支度中の看板を見て、店に本当に入っていいのか心配だったというなまえに「静かな方がええやろ思て」と言えば、「気を遣わなくても良かったのに、いつもはまだ営業してるんでしょ?」と言われてしまった。

なまえのためや」
「そこまで言われると申し訳ない」

そうなまえに気を遣われてしまったけれども、この店の営業時間の後に気を遣わずに入りびたる片割れのことを思い出して、アイツもなまえくらい気ィ遣ってくれたらええのになと思ってしまった。

「治のお店すごい綺麗だね」

そう、なまえは店内をぐるりと見渡した後で言った。「昨日治が狭い店だって言ってたけど、客席も多いしわたしが思ってたよりずっと広かったよ」そう言うなまえに「なかなかええやろ」と言えば、なまえはくすくすとわらって「うん、かっこいいね」と褒めてくれた。なまえが自分の店のことを褒めるので、得意げな顔をしていると「その顔がほんとに侑とそっくり」と言われてしまった。「同じ顔や」そうなまえに言えばなまえは可笑しそうに笑っていた。

「今日はもう誰もいないの?」
「帰した」
「そっか」

営業時間が終わり、バイトの子たちを帰してしまった後でこの店にいるのは、己となまえだけだった。なまえはカウンター席の一席に腰を下ろした。「何にします?」そう他人行儀に言えば、なまえは「おすすめお願いします、好き嫌いはありません」と調子よく言った。「うまいもん食わしたるわ、残りモンで悪いけどな」そうなまえに言えば、なまえは「なんでも美味しいって聞いてます」と言うのでつい笑ってしまった。なまえににぎりたてのおにぎりを出すと、皿にのったおにぎりを見ながら「おいしそう」と言った。「うまいもんしかないわ」そう胸を張って言えば、「治のおにぎり楽しみ」と言って最初のひとくちを食べた。

「具がぎっしりですごい」
「せやろ」
「おにぎり大きいから一個でおなかいっぱいになりそう」
「腹ペコでは帰さんからな」

なまえが美味しいと言っておにぎりを食べているのを見ていると、なまえは「こんなに美味しかったら昼はかなり混んでるでしょう」と言った。「おかげさまで」そう言えば、なまえは「そっか」と言った。「関東に店出さんの?」そうなまえは問うた。「そろそろ出してもええかなて思っとる」そう答えると、なまえは「楽しみだな、会社の近くにあったら毎日お昼は治のおにぎりにする」と言った。なまえが小さな口でぺろりとおにぎりを食べきった後、「ほんとうにおなかいっぱいでキツイ」と言って満足そうな顔をしているのを見て、なまえの口に合って良かったと思った。食後の茶を出すとなまえは湯呑にゆっくり口をつけていた。

「昨日の侑は調子よさそうだったけど、治から見てもそうだったの?」

腹がおちついたなまえがそう問うてきた。昨日の試合の、調子がよさそうな侑のことを思い出しながら「多分な」と帰すと、なまえは「そっか」とほっとしたような顔をしていた。最後の試合が侑にとって良い試合であればいいんだけどね、そうなまえは言っていた。もし侑がこれ以上を求めるのであればそれはホンマモンの欲張りや、と思っていたころに、店の扉が開いた。「ごめんください」聞きなれた訛りの、聞きなれた声に思わず「もう仕舞や、帰れ!」と言ったのであるが、相手はこちらが言ったことなぞ少しも聞きやせずに店に入ってきた。「雑すぎるやろ、客やぞ」そう尊大な態度でものを言う客はうちの店にいらんねん、と言ったところでどこ吹く風だろうが。

「噂をしたら侑が来た」
「うわ、なまえなんでおるん」

帰っとったんかい、そう侑はなまえの姿を見てそう言った。「まあ、そんなところ」そうなまえは誤魔化すように言った。引退試合を終えた後の侑がまさか店にやってくるとは、己も思わなかったけれども、なまえは余計にそう思わなかったのだろう。店に入ってきた侑を見て、なまえが目を丸くしていた。侑も侑で、なまえが店にいるとは思わなかったのか、驚いたような顔をしてなまえの顔を見ていた。そもそも、なまえは関東で生活をしているから、まさかなまえが兵庫に来ているとは思わなかったというのが正しいのかもしれない。「なんや、俺の悪口でも言いよったんか」そう侑は己らの顔を見てそう言った。「悪口は言うとらん」そう、侑に言えば侑は「ほんまなんやねん」と言ってなまえの隣に腰を下ろした。そうして「あー」と呻いた後に「もう終わってしもうたんや」そう侑は言ってカウンターの上に突っ伏してしまった。己の立つカウンターからは侑のつむじがよく見えた。「どうしたの?」そうなまえは知っているくせに、何も知らないような顔をして侑に問うた。なまえの知らないふりが可笑しくて、思わず笑いをこらえてしまう。己が、笑いをこらえきれずに頬が緩みそうになるのを見ていたなまえが唇に指をあてて”黙って”と言うポーズを見せてきたのが余計に可笑しくて笑ってしまった。何もしらない侑は、「バレーや」と適当な調子で返事をしていた。「俺昨日で引退してん」そう侑はなまえに話していた。なまえは何もしらないような顔をして侑のつむじのあたりを見ていた。「侑もう引退しちゃったんだ」なまえはわざとらしくそう言った後で、「治は知ってたの?」と問うてきた。「まあな」そう、吹き出しそうになるのを堪えながら答えていることに、侑は全くと言っていいほど気づいていなかった。コイツが鈍感で本当に良かったと心の底からそう思った。

「いざ終わりや思たら寂しなってん」

そう侑は言った。なまえは「試合、どうだったの?」と問うた。「勝った」そう侑は一言だけを言った。なまえは「おめでとう」と言っていた。

「調子も良かってん。サイッコーや」
「そうなんだ」
「あんなおもろい試合やったら明日もバレーしたなる」

そう侑が言うのを聞いて、なまえがくすくすと笑った。侑の最後の試合が終わったあとで、己らは侑に挨拶をせずに黙って二人で帰った。カウンターで突っ伏している侑を眺めながら、己は侑が楽しそうにしててよかったわ、そう言っていたなまえのことを思い出していた。なまえと己がまさか侑の試合を見に行っていたことを知らない侑は、カウンターに突っ伏したまま「ほんまに良かったわ」と言った。いつもより周りがよく見えた気ィするし、ボールを触った時の感触も良かった、そう侑はぼやいた。あの日の試合が一番良かったと胸を張って言える、あの試合が侑にとって最高の試合になっていたことは明らかだった。しかしながら、今の侑はどこか不満そうにも見えた。それは、侑にとって最高のバレーボールというものを経験したからこそ、余計にバレーボールをやりたくなってしまっているところから来ているのかもしれない。試合が終わり、全てが終わってしまった後で、あの試合会場の体育館で行われた、高揚するような試合をすることはもうこれから二度とないのだと思うと、喪失感がむくむくと湧き上がってくる。その喪失感を今の侑は感じているのだろう。今日の残りで作った出来合いのおにぎりを侑に出してやると、侑は顔をあげて黙ってそれを口に入れた。侑が幸せそうな顔をしておにぎりを頬張って、「最高や」と満足そうな顔をして食べているのを見ると、悲しんだり喜んでみたり忙しい奴やなと思う。なまえは侑がおにぎりを頬張っているのを横目で見ていた。

なまえもこっち来とったんなら言えや」

ええ試合見せたりたかったわ、そう侑が言った。治も、店は出とったけどお前はおらんかったしな、と恨めしそうな顔をして己の顔を見ているのを見て、なまえは笑いが堪えきれなくなったのかくすくすと笑っていた。侑の口ぶりに、なまえは「ありがとう」とお礼を言っていた。なまえが侑の試合を見るためだけにわざわざ仕事を休んで兵庫に戻ってきたということを露ほども知らない侑は「ほんまに、なんやねんお前ら、薄情過ぎるやろ」と言っていた。なまえは何も言わなかった。侑の口から、彼の最後の試合がどんなものだったのかを語られるのをただ聞いているだけだった。侑の口から出てくる試合の出来事を聞きながら、なまえは昨日見た試合のことを少しずつ思い出しているのだろう。己が高校生の頃、最後のバレーの試合の時の話をなまえにしていたときのなまえの気持ちと同じものを、多分今の己は味わっているのだろう。試合を見ていたくせに、見ていないような顔をして、俺や侑が喋っているのをただ聞いて楽しんでいるなまえのことを少し考えた後で、このままなまえの好きにしてやりたくないと思ってしまった。

「侑」
「なんやねん治」
「俺ら昨日の試合見てん」
「は?」
「なんで言っちゃうの」
「お前ら来とったんかい」
「……」
「黙っとらんで何か言えやなまえ

なまえが恨めしそうな顔をして己の顔を見ているのが可笑しくてつい笑ってしまった。「なまえは薄情モンやから春高も見に来とったし侑の最後の試合を見とったことも黙っとるつもりやったんやて」そう言えば、なまえは「もう!治は口が軽い」と言った。秘密にしていたことをバラされたのが気に食わなかったのか、なまえはそっぽを向いてしまった。「なんや、来てたんなら言えや」そう侑は言った。「白々しいねん」試合のことを知っていたくせに俺に喋らせたんかい、そうなまえに噛み付く侑と、「侑がうるさそうだから黙ってたのに」とため息をついているなまえがあまりにも対照的だった。

「何で黙ってたん」
「侑がうるさそうだったから」
「何やねんお前、変な訛りしよって」
「それは関係ないじゃん」
「関係あるやろ、他人行儀すぎてキショイんじゃ」

そう言われたなまえは渋い顔をして侑のことを見ていた。そうして、やっと口を開いたと思えば、「侑はいつまでたっても侑のままやわ」と言った。「カッコええのは元からじゃ」そう見当違いのことを言う侑に、なまえはため息をついていた。

「侑がカッコええなら治もカッコええやろ」
「いや俺の方がカッコええ」
「ほんまガキやなお前」

思わず横からそう言えば、「なんや治」と矛先がこちらに向いてきたのでうんざりしてしまった。侑が唐突に、なまえに「お前いつ帰るん」と問うた。なまえは「今日の新幹線の終電、一時間後にここを出よう思っとる」と答えた。「なまえお前今日俺がここに来んかったら俺に黙って帰るつもりやったんか」と騒がしく言い始めるのを、なまえがうんざりしたような顔をして見ていた。「……いつでも会えるやんか」そう良い訳じみたことを言うなまえに、侑は「ほんま薄情モンやなお前、治には連絡しとる癖に俺にはナシか!」と憤慨しているようだった。なまえは、そう言う侑に、「侑には連絡せんでも会えそうな気ィするしな」と言った後で、「侑も大人なったと思ったけど侑は全然変わっとらんし、治も相変わらずやった、秘密バラすし」と散々な目にあったような顔をして己らのことを見ていた。なまえがそう言うので、「なまえも全然変わっとらんわ、変な喋り方するようなっただけでなまえのままや」と言えば、なまえは渋い顔をして己の顔を見ていた。


2021-02-13