小説

結末の話

 東京オリンピックが終わり、ひと段落したころに、なまえと結婚しようと思い立った。前々から考えていなかったわけではなかったけれども、もしなまえにプロポーズをするのであれば、すべてが終わって落ち着いた後でやりたいと思っていたし、オリンピックが終わった今が一番の好機だと思った。全てが終わりようやく自宅に戻ってこれた日に、なまえが玄関で己の帰りを迎えてくれた。「倫太郎おかえり。それから、お疲れさま」試合はテレビで見てたよ、そうなまえは言った。なまえが普段の通りに己のことを出迎えてくれているというのに、今日これから考えているプロポーズのことで頭がいっぱいだったせいで「うん、ただいま」と少しだけそっけない返事をしてしまった上に、少しだけ声が上ずってしまった。なまえは余り気にしていないのか、己が疲れているのだと思ったのかはわからないけれども「しばらくゆっくりできそう?」と己に問うてきた。「うん、そんな感じ。やっと帰って来れたよ」そうなまえに言うと、彼女は「そっか」と言ってほほ笑んだ。
 その日の晩、久しぶりに一緒に夕食をとった。なまえの作ったご飯を食べるのはずいぶん久しぶりのように思う。思わず「美味しいね」と普段あまり言わないことを言ったら、なまえが少し驚いたような顔をして己の顔を見ていた。

「珍しいね」
「うん?」
「倫太郎がご飯に感想言うの」
「そうかも」
「ありがとう、嬉しい」
「いつも美味しいと思ってるよ」
「それは知ってるよ」
「そっか」

二人で食卓を囲んだ後で、並んでソファに座って一緒にテレビ番組を見ていた。ゴールデンタイムのバラエティ番組を見てなまえは笑っていたけれども、己はこれから先、なまえに言わなければならないことを考えていてテレビの内容なぞ少しも頭に入ってこなかった。テレビ番組のエンドロールが流れてたころに、なまえが「面白かった」とテレビの感想を言っていたけれども、それに対して適当な相槌を打つことしかできなかった。なまえがエンドロールの流れる番組の最後を見て笑っている時に、己は意を決して口を開いた。「ねえなまえ」そう彼女の名前を呼ぶと、バラエティ番組のエンドロールから目を離し、なまえは己の方を向いて「どうしたの」と言った。

「俺結婚したいんだけど」

そうなまえに言った。なまえが目を丸くして、目を瞬かせ己の顔をじっと見た後で「えっ、倫太郎が結婚?」と言った。なまえに、「うん。嫌?」と問えば、なまえは狼狽えて「えっ、心の準備がまだ出来ない」と言った。そうして、「倫太郎が、結婚」そう復唱するようになまえは言った。その後、黙り込んで己の顔をじっと見ていた。「うん」そうなまえに言うと、なまえは目に涙を浮かべて「いやだ……」と言った。

「倫太郎が結婚するのは絶対嫌」

そう、なまえは己に向けて言った。「倫太郎が結婚……」そう気が遠くなったような顔をしてなまえはぽつぽつとつぶやいた後で黙り込んでしまった。その後に聞こえるのはなまえの啜り泣く声である。なまえにそう言われたあとで、なまえが泣いているのを見て、なまえが己の言った言葉を誤解をしているように思ったのであるが、もしかしなくてもなまえは完全に誤解していた。なまえは耳をふさいで首を横に振って、ソファから降りて絨毯の上に転がって小さくなってしまった。己に背を向けて小さくなるなまえに、「俺の話聞いてくれない?」と言ったのであるが、なまえはいやだと言って話を聞く素振りも見せてくれなかった。「話を聞いたら倫太郎が結婚しちゃうから絶対聞かない」そう言ってそっぽを向いてしまったなまえを見るに、己の予想は的中してしまったらしい。
なまえと結婚したくてなまえに結婚の話を切り出したのに、なまえは何故か己が違う誰かと結婚しようと思っているというように受け取ってしまっていた。「ちがう、俺が結婚したいって言ってるのはなまえの考えてる意味じゃない」そう言ったのであるが、なまえは本格的に泣き出してしまった。なまえの泣き声と震える背中に向かって「お願いだから話聞いてくれない?」と言うのであるが全然効果がなかったので、泣くなまえの前に行って、耳を抑えるなまえの両手を掴んだ。両手を好きなようにされるなまえが怯えたような顔をして己の顔を見上げていた。なまえに思い切り怯えられるのはなまえと初めて寝た時以来だと思い、少しだけ悲しくなってしまった。なまえにプロポーズをしたつもりだったのに、プロポーズをプロポーズとして受け取ってもらえていないことも悲しいけれど。

「俺はなまえに結婚してって言ってる」
「えっ?」
「えっ、じゃないよ」
「わたしと?」
「嫌?」
「い、いやじゃない」

なまえが食い気味にそう言うのを見て、プロポーズまで断られて悲しいことにならずに良かったという気持ちと、なまえの誤解が解けて良かったという気持ちとが混ざりあって安堵した。結局、己はなまえに恰好をつけて告白することにも失敗し、プロポーズも上手く決まらずに恰好が付かないまま結婚をすることになるのだと思うと、もう少し恰好がついても良かったんじゃないかと思わずにはいられない。なまえの両手を握りしめたまま、「なまえは俺と結婚してくれる?」と改めてそう問えば、なまえは「する!」と元気よく答えた。なまえの両手を離すと、なまえが起き上がって己の方に飛びついてきた。飛びついてきたなまえの体重を支え切れずに絨毯の上に二人で仲良く転がってしまう。なまえが「ふふふ」と笑うので、思わずつられて笑ってしまった。


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 己となまえの婚姻届の証人欄は、名前を書きたがったチームメイトが名前を書いてくれた。人の結婚のことを祭りか何かと勘違いしているのか、彼らは結婚する当事者の己よりも盛り上がっているように見えた。なまえと婚姻届を書いているときに、なまえにプロポーズした日に、なまえが俺に結婚しないでと言って泣きついたことを思い出してしまい思わず笑ってしまった。己が笑っているのを見たなまえが不思議そうな顔をしていたので、なまえにそのことを話すと少しだけ顔を赤らめて恥ずかしそうな顔をした後で、「だって、ほんとうに結婚してほしくなかったんだよ」と言った。「倫太郎を誰にもとられたくなかったんだもん」そう言うなまえのことがかわいくてたまらないと思ってしまうあたり、己も随分となまえのことを好きだと思っているんだなと自分のことなのに他人事のように思ってしまった。何度かなまえと結婚したいと口を滑らせてしまいかけたことだってあったのに、なまえがあの日何故結婚相手がなまえではなくなまえではない誰かだと思ってしまったのかは結局、分からずじまいだった。
 己となまえは、己の誕生日でも、なまえの誕生日でもない、二人の休日が重なった日に婚姻届をだした。己となまえは無事結婚することができたのである。結婚指輪はその日の足で一緒に見にいって、二人で決めた。指輪ができるのが楽しみだと言いながら、ふたり並んで帰っているときに、なまえが思い出したように口を開いた。

「プロポーズの時に指輪を出して結婚してくれって言うのも、映画みたいで少し憧れる」
「……指輪来たらもう一回やる?」

そうなまえに問えば、なまえは「ううん」と言った。「倫太郎のプロポーズは恰好が付いてない方が良いから、いい」そうなまえは言った。「俺は少しくらい恰好が付いた方が良いと思ったしもう少し恰好が付いている予定だった」そうなまえに言えば、なまえはひとしきり笑った後に「ごめん」と言った。結局なまえが誤解したことでひと悶着あって、プロポーズもしっかりと決まらなかったのである。結果的に結婚できているのだから問題ないだろうと言われればそれまでだけれども。

「わたしと倫太郎はこれで良いんだよ」

そうなまえは言った。「なんか、上手く決まらないのがわたしと倫太郎っぽい感じがする」そう思うのはわたしだけかな、となまえは言った。それはなまえと付き合うことになった時の告白から上手く決まらなかったからなのだろうか。「……告白も決まらなかったしね」俺、あんなに決まらない告白したの初めてだったんだけど、となまえに言えば、なまえは「あはは」と上機嫌に笑っていた。





 俺となまえはついに結婚をした。なまえが友達の彼氏に嫉妬して己に泣きついてきた日に、口が滑ってみっともない告白まがいのことをしてしまったことから始まった己となまえの関係は、紆余曲折を経て結婚するに至った。結婚に至るときにもひと悶着あったけれども、それも後で思えばいい思い出になるのかもしれない。なまえと俺との関係性は決して悪いものではないし、なまえが得意で俺が苦手なことと、なまえが苦手で俺が得意なことが上手くかみ合っていたせいか、うまく生活が出来ていたし、なんとなく、これから先もその関係性がずっと続いていくのではないかと思っている節はあったけれども、いざ結婚してしまえば感慨深いものがある。俺となまえは多分、これからもうまく恰好をつけたいところで上手く恰好が付かないのだろうと思うと少しだけ残念な気持ちにはなるけれども、なまえが言うとおり、上手く決まらないのが己となまえらしいのであれば、それはそれで一つの良い結果なのだろうと思う。己となまえは、これからもふたりで不器用ながら少しずつ歩いていくのだろう。この関係のまま、末永く一緒に過ごせますようにと、今はそれだけを思った。
2021-02-06