小説

辞める話

 セミが鳴いている。照りつける日差しの強さや、汗で背中にへばりつくシャツの感覚から、夏の訪れを感じ始めてから一か月、いよいよ本格的な夏が始まってしまった。ほんの少しの用事のためだけに外に出たのにも関わらず、外から帰ってきてみれば、着ていた洋服はもう既に着替えなければならない程に汗まみれになってしまった。高専の寮の玄関扉を開けると、玄関先に段ボールが数箱積み上げられていた。この時期に転校生でもやってくるのだろうか。もしかしたら、秋から高専に編入してくる新しい生徒の荷物なのかもしれないとぼんやり考えた。この茹だるような暑さの中で引っ越しの準備をするのも大変だろうと、顔の知らない荷物の主のことを考える。呪術師の数が少なくいつでも人手が足りないと言われるこの業界に、ひとりでも人がやってくることは、業界的にとっては悪いことではないはずだ。

「七海くん」

玄関口から寮の自分の部屋に戻ろうとしたときに、自分の名を呼ばれた。振り返ると、積み上げられた段ボールの後ろから、クラスメイトのみょうじが顔を出した。「今日も暑いねえ」そう、みょうじは胸元を扇ぎながらそう言った。今日が休日のせいか、みょうじは見慣れた真っ黒い制服姿ではなく、私服姿だった。「こんにちは」そうみょうじに挨拶をすると、みょうじも「こんにちは」と返した。

「入寮生でも来るんですか?」

積まれた段ボールを眺めて、そうみょうじに問うた。みょうじは、積み上げられた段ボールを見ている己の顔を見た後で、首を横に振って「ううん、違うよ」と答えた。みょうじは荷物を指差して、「これはね」と口を開いた。

「退寮の荷物だよ」
「退学ですか」
「うん、そう」
「ここにあるのはね、全部わたしの荷物」
「あなたのものでしたか」
「そう。わたしね、今日で学校辞めるんだ」
「そうでしたか」

「知りませんでした」そう言えば、みょうじは知らないはずだよ、と己に言った。「だって、誰にも言ってないもん」先生しか知らないはずだよ、そうみょうじは己の顔を見てそう続けて言った。

「家入先輩は部屋が隣だから、知ってるかもしれないけどね」

「それ以外の人はきっと、誰も知らないはず」そうみょうじは聞いてもいないことをぺらぺらと喋りだした。退学の挨拶を誰にもしていないこと、それから本当は、己にも黙ってひっそりと居なくなるつもりだったこと──みょうじの話を聞きながら、女性ひとりの生活の荷物がすべて、この小さな段ボール箱数箱の中に収まってしまうのは、彼女の荷物がただ少ないだけなのか、それとも平均的な量なのかをぼんやりと考えていた。ひとしきり喋り切ったみょうじは、「聞かないんだね」と言った。「何をですか」そう、彼女に問えば、みょうじは少しだけ言いづらそうな顔をした後で、「退学の理由」と答えた。

「何か問題を起こしたわけではないんでしょう」
「うん」
「あなたが学校を辞めると決めただけでは?」
「そうだね」
「なら、何も聞く必要はないでしょう」
「七海くんちょっと冷たいよね、同じクラスで二年と半年近く一緒だったのに」

「もう少しくらい寂しそうにしてくれてもいいんじゃない?」そうみょうじは渋い顔をして、思ってもいないだろうことを言った。「理由を聞かれたかったのならそう言えばいいじゃないですか、あなたも面倒臭い人ですね」そう言えば、みょうじは「聞いてって言ったら聞いてくれるの?」と問うてきた。「いえ、聞きません」そう答えれば、みょうじは「ほらー、やっぱり聞かないじゃん」と喚いた。面倒になったので、こちらが折れて「わかりました。参考にお聞きしても?」そう彼女に問えば、彼女はひとしきり笑った。教室で見かける、朗らかなみょうじと同じ顔をしていた。「面倒臭そうっていうのがひしひしと伝わる」そう彼女は言う。実際面倒なのだから何も間違ってはいないので、否定はしなかった。

「死ぬのが怖くなった」
「そうですか」
「わたしはこんなところで死にたくないって思ったから、術師を辞めようと思った」

わたしの実家の方はそういう術師の家系というわけでもないから、学校を辞めたいって言ったらすぐに辞めさせてもらえることになったよ、と彼女は言った。もし彼女が呪術師の家系であれば、学校を辞めることにもひと悶着あったのかもしれないけれども、彼女も己も、呪術師の家系出身ではないので家のしがらみがないあたりは気楽でよかった。

「これからどうするんですか」
「普通高校に編入して、残りの高校三年生をやるよ」
「そうですか」
「編入する高校も決まってて、これからがちょっと楽しみ」

術師としての仕事が無い高校生活って始めてだから、とみょうじは言った。彼女の双眸には、これから始まる残りの高校生活への期待が滲んでいる。彼女にとってはこの高専で過ごした日々に比べれば、高校生活はまだ気楽なもののように見えているのかもしれない。

「普通の高校に行ってみて、彼氏とか作って遊んだりするつもり」
「大学進学をするなら遊んでる暇もないのでは?」
「うっ、真面目……」
「あなたが少し不真面目すぎるだけでしょう」

そう言えば、みょうじは「普通の生活ってどういうことをやるんだろうね」と言った。高専に入学してからというものの、己らは呪術というものを学んできた。一般的な高校生とは違う生活を、今まで送っているのである。「中学までのことを思い出してみたらどうですか」そう返すと、みょうじは少し考え込むようなそぶりを見せた後で、「碌な思い出がない」と苦い顔をしていた。

「高専の生活も悪くないと思ってはいたんだよ」
「そうですか」
「人が死んだりすること以外はね」
「そうですね」

そう彼女に言えば、みょうじは「七海くんは最後まで淡泊だな」と詰まらなそうな顔をして言った。

「退学決めるまでにいろいろ考えてたけど、結局わたし、どうしてここに来たのかわからなくなっちゃった。入学するときは全能感に溢れてたんだけど」
「全能感?」
「わたしにしか出来ないトクベツなことが出来る、みたいな感じの」
「成程」
「でも、そんなことは無かった。上には上が沢山いたしね。人が死んだのを見ながら『わたしはああいう風になりたくない』って思うようになったし、知ってる同級生が死ぬのと、知らない人が死ぬのとでは同級生が死ぬ方が嫌だと思うようになった……だから、わたしに術師は無理なんだって」

みょうじはそう言って、一呼吸おいて口を開いた。「入学の時は頑張るぞ、って気持ちだったのに今はもうなんでこんなところに来ちゃったんだろう、って気持ちの方が大きいんだよね。そう考えたらもうダメだった」そう彼女は曖昧に笑った。みょうじのその言葉に対して、己は何も言うことが出来なかった。彼女に対して掛ける言葉がすぐに出てこなかったのである。みょうじの言いたいことも、みょうじの気持ちも全く分からないものではなかったけれども、彼女の言葉に同意することは術師としての自分が許さなかった。みょうじと己との間に、沈黙が流れた。外で鳴くセミの声が煩い。みょうじと己との間に流れた沈黙は、そう長くは続かなかった。玄関先に宅配業者の元気のよい挨拶が響いたからだった。みょうじが、数少ない段ボール箱をさして、「これで全部です」と言って荷物の配達手配をしているのを横目に見ていた。みょうじの田舎にある実家に配送されてしまうだろう荷物は、配送業者の手によって、数分と経たずに手際良く運び出されてしまった。宅配業者の人は、荷物を運びこんだ後で頭を下げて、トラックに乗って行ってしまった。みょうじの荷物の乗ったトラックが走り去ってゆくのを、寮の玄関口からふたりでぼんやりと眺めていると、みょうじが「七海くん」と己の名前を呼んだ。

「お元気で」
「はい、あなたも」


:


 己は結局、呪術師にはならなかった。卒業後、呪術師になる道もあったが、その道を選ばなかった。呪術師になることを選択せずに、証券会社に就職し、呪術師とは関係のない世界で生活をしていた。早朝の六時半に出社して、世界のニュースをチェックする。その日の株価に影響がなければ良いと思いながらコーヒーを飲んだ後で、始業時間までの間に、上司との打ち合わせを行う。前場の取引が始まれば、投資家に営業の電話をかける。市場が休憩の間に昼ご飯を食べて、後場が始まればまた投資家に営業の電話を掛ける。場の最中に新規の売買取引が決まり、証券取引所でうまく売買が成立すれば万々歳。そうでなければ上司から多少の小言を聞き流しながら、時間が早く過ぎることを祈るだけである。この日常生活の間には、呪術師の”呪”の一文字も存在しない。呪いというものからは縁の遠い生活をしながら、日々金のことを考えている。仕事中には投資家の金が増えることや、自分の会社の業績が上がることで会社に金が入ることを考えて、仕事を終えてからはもっと金を持っていれば悠々自適な生活が出来ていたのではないかという夢を見る。このうんざりするような生活にもすっかり慣れたころ、己は些細な出来事をきっかけに呪術師に戻ることを決意した。会社に退職願を出し、このうんざりするような職場での仕事もあと一か月を切ったころのことである。ランチタイムの間に給湯室に立ち寄ると、先客が居た。自分の一年上の先輩にあたるみょうじさんが、空になった弁当箱を洗っていた。「おつかれさまです」みょうじさんは、己の顔をみてそう挨拶をした。「おつかれさまです」そう返すと、「七海くん疲れてるね」と言った。「変わりないですよ」そう答えると、彼女は「それならいいんだけどね」と言った。彼女は弁当箱を洗いながら、思い出したように「七海くん」と己の名前を呼んだ。

「退職するんだって?」
「ええ、そうです」
「今月だっけ?」
「はい」
「送別会とかが出来たらよかったんだけどね」

そうみょうじさんは言った。「時期が時期だから今すぐに送別会が出来ないんだよね」そうみょうじさんは言った。「もっと時間に余裕がある時期だったら、わたしが企画しようと思ってたんだけどね」と彼女が言うので「いえ、それは遠慮します」と答えた。あまり、この会社で行われる飲み会があまり好きではなかったので、飲み会がないならそれでいいと思っていた。すると、みょうじさんは笑った後に「七海くんは真面目だねえ」と言っていた。多分、彼女は己が遠慮してそう言っているのだと思っていて、彼女には己の考えていることなどは少しも伝わっていないのだろう。

「七海くん、部署でかなり期待されてたから退職するの残念がられてるよ」
「そうですか」
「この間も大口取引取り付けてたでしょ、部長ほんとうに大喜びだったし」

みょうじさんは己の業績を褒めてくれているのだろうが、退職をすると決めた後ではもうその言葉も、どうでもよいもののように聞こえた。金持ちの金をさらに増やすために株式の売買を取り付ける、売買で発生する雀の涙の手数料で会社は潤い、己にはほんのわずかな給料が支払われる。ただ、それだけのことでしかない。

「七海くんは次、もう決まってるの?」
「ええ、次の会社が決まっています」

正しく言えば会社に勤めるというわけではないのであるが、彼女に呪術師の話をしたところで、そういうモノと無縁の生活をしている彼女にはさっぱりわからない話だろう。だから、彼女に詳しいことは言わなかった。みょうじさんは「七海くんみたいな優秀な人が来ると嬉しいだろうね」と言った。「そうでしょうか」そう答えると、みょうじさんは「そうだよ、七海くんの優秀さはわたしが保証する」と胸を張って答えた。みょうじさんが弁当箱を洗い終わって、キッチンペーパーで拭きながら、「転職かあ、わたしもそろそろ考えても良いのかもしれないなあ」とぼんやりとした調子で言った。

「たまに、何でこんなところにきちゃったんだろうって思うことがあるよ」

みょうじさんは何処か遠いところを見るような顔をしてそう言った。高専の三年生の夏ごろ、退学してしまった彼女と同じ名前の同級生のことをふと、思い出した。「なんでこんなところに来ちゃったんだろうって思ったら、もうダメになっちゃった」あのときの彼女はそう言って、高専を辞めて呪術師とは無縁の生活に転向することを決めていた。「それでもこの仕事を辞める勇気は無いんだよね」そう目の前のみょうじさんは言った。「うちの会社、世間から見ると悪くない会社でしょ、だからまだマシかもって思ったら転職する勇気もでないや」そう言って、彼女は弁当箱を持って執務室へと戻って行ってしまった。あの日、すっぱり呪術師であることをやめたクラスメイトのみょうじと、同じ職場に勤めるみょうじさんは全く同じことを言っていたのにも関わらず、彼女たちの取った選択肢はどちらも違うものであった。もし、己も彼女たちと同じことを考えることがあるのであれば、どう言う選択を取ったのだろうとぼんやりと考えてみたけれども、どうにも結論が出そうになかったので、考えるのをやめた。
2021-01-23