小説

引っ越し

 己となまえさんの出会いは、高校の頃にまで遡る。男子バレーボール部の先輩方と同じクラスだったなまえさんは、教室の奥の方にいる先輩方を呼んでもらう時によく世話になった。先輩方のいる教室──つまり、なまえさんの居る教室である──に顔を出すたびに、「北を呼んだらええん?」と愛想よく話しかけてきてくれたことがきっかけとなり、校舎内ですれ違うたびに少しずつ話すようになった。なまえさんが己よりも一年先に高校を卒業し、大阪にある大学に進学した後でも、彼女との交流は続いた。なまえさんが大学生の間、彼女と直接会うことは無かったけれども、メッセージのやり取りは何度か行っていた。頻繁にやり取りをしているわけではなかったが、定期的になまえさんと近況を報告し合って、そこから少しの雑談をするような関わり合いが、細く続いていた。
 なまえさんは、大学卒業後、就職を機に兵庫の実家を出て、関東の方に出て行ってしまった。関東に行ってしまったなまえさんとは、相変わらず付き合いがあり、細く連絡を取り合い続けていた。関東でもなんだかんだで上手くやっていけているというなまえさんの話を聞くこともあれば、己が高校を卒業したあとで、専門学校に入学してなんとかやっている話や、専門学校を卒業して自分の店を持ったという話をすることもあった。そのような関わり合いを続けていく中で、四季は巡り、気づいてみれば、高校生の頃から数えると、なまえさんと些細なやり取りを続けて十年近くの時が経とうとしていた。
 なまえさんが大学を卒業し、関東の企業に就職してから五年が過ぎようとしていた年の秋の終わりごろのことである。なまえさんから『そっちに戻るわ』という短いメッセージが送られてきた。『兵庫にですか?』そう、なまえさんに返すと、なまえさんから肯定の意思を示すブサイクなスタンプが送られてきた(なまえさん曰く、ブサカワなのだというが己の目にはブサイクな犬とも狐とも言いにくい動物にしか映らなかった)。新卒で就職後、周りの退職などにより気づいてみれば中堅社員になってしまったなまえさんは、関西の支社の底上げのために、関東の本店から関西の支店に異動になったのだという。『なまえさんもえらい大変ですね』そうメッセージを送れば、なまえさんからは『仕事はええんよ。引っ越しが大変や、住む部屋探したりせなあかんから』と返ってきた。『実家には戻らんのですか』そう問うたのであるが、なまえさんは、実家には戻らないらしい。なまえさんの実家には今、新婚のなまえさんのきょうだい夫婦が住んでいるのだという。実家の両親ときょうだい夫婦はいつでも帰っておいでと言ってくれているらしいが、新婚夫婦の居る家に戻ることを考えると、なまえさんが勝手に帰りづらくなっているのだと言っていた。時はそれから過ぎ、なまえさんの転勤の話を聞いてから一月ほど経ったころ、なまえさんの新居と、引っ越しの日取りが決まったという連絡が来た。引っ越しの日は、さらにそれから三ヶ月ほどあとになるらしい。なまえさんから引っ越しの日程を聞いたときに、引っ越しの手伝いを申し出た。なまえさんは、『治くんがええんやったら、ほんま助かるわ』と言っていた。暫く、メッセージのやり取りをしていたけれども、メッセージを打つのが面倒になってしまったのか、なまえさんから電話がかかってきた。なまえさんの肉声を聞くのは、実に五年ぶりのことだった。声音は己が最後に聴いたなまえさんの声とあまり変わっていなかった。「治くんてそんなに声低かったっけ?」そうなまえさんが己に言っていたけれども、風邪を引いているわけでもない時の自分の声が昔より高いか低いかなどはよくわからなかったので、「昔からこんなです」と適当に答えた。引っ越しのことや仕事のことなど、自分のことをひとしきり話し切ったなまえさんから、己の近況を聞かれた。兵庫に出したおにぎり屋がそれなりに繁盛していて、平日も、休日もそれなりに忙しいけれども楽しくやっているという話をした。

「治くんも大変やなあ」
「店が忙しいのはええことですよ」
「忙しい治くんのせっかくの休みの日に引っ越しの手伝いさせんの悪いわ」
「気ィ遣わんで大丈夫です」
「ほんまにええん?悪いなあ」
「そない申し訳ない言うなら今度ウチの店来てください」
「治くんが嫌ちゃうなら行かせてえな」
「ウマイもんたらふく食わせたります」

そうなまえさんに言えば、なまえさんは「楽しみやなあ」と期待を込めた調子で言っていた。


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「休みの日にありがとうね」

なまえさんの勤務先だという大阪から、電車で三十分程度離れた場所にあるなまえさんの新居の最寄駅は、己の住む家からけっこう近いところにあった。まだ冬の寒さが残る春の日の午前十一時ごろ、なまえさんの新居の最寄り駅で待ち合わせをすることになった。待ち合わせ予定時刻に、駅改札の前に立っていると、なまえさんがやってきた。久しぶりに会ったなまえさんは、己の知らない女の人になっていた。女の人は少し会わない時間があるだけでずいぶん変わってしまうと言うが、それがその通りであることを実感したのはこの時が初めてであった。己の知っていたなまえさんの姿と、目の前にいるなまえさんとが上手く結びつかなかったので本人の目の前で「なまえさん変わりすぎやろ」と言ってしまった。なまえさんはご機嫌な様子で笑ったのちに「綺麗になったってことでいい?」と冗談めかして言うので、「いいです」と返すと、己にそう言われるとは思わなかったのか、面食らったような顔をした後に「そう、ありがとう」と言った。なまえさんの新居は、駅からそう遠くない場所にあった。駅前の、夜でも明るそうな大通りを五分ほど歩いた先から、更に細い通りに入ってすぐのところにある、小奇麗なマンションだった。なまえさんの新居は、ここ五年以内に出来たばかりの新しい建物なのだと言う。不動産の営業にこの建物を勧められた時に、彼女の考えていた条件にもピッタリ合っていたこの建物に即決したのだと彼女は得意げに言った。

「ええとこ住んでますね」
「ええやろ。治くんはどの辺に住んでるん?」
「同じ線路の三駅隣です」
「めっちゃ近いな」
「近いすよ」
「こんど鍋パしよ」
「いいですね」

なまえさんに案内されるがまま、エレベーターに乗った。居住者用の狭いエレベーターが、マンションの中間階に止まる。「一番奥の角部屋」そうなまえさんに言われたので、フロアの一番奥まで歩いた。角部屋の扉を開けたなまえさんに、部屋に入るように促され、玄関に足を踏み入れる。玄関先の廊下には段ボールが高く積み上げられていた。なまえさんが、本当にここに引っ越してきたばかりなのだと言うことが誰の目から見ても分かるようだった。

「おじゃまします」

治くん体大きいから部屋が狭く見える、となまえさんは楽しそうに言っていた。廊下の先にあるワンルームには、部屋の隅に未開封の段ボールが二つほど、中途半端に開封された段ボールが二つあった。大型家具と家電は先に設置したのか、カーペットとベッドとソファだけは既に設置されていた。引っ越しの時に家具を買い直したのか、なまえさんの部屋に置いてあるソファとベッドは真新しいようにみえた。

「運び込みまではやってもろたから、あとは片付けるだけなんよ」

運び込みの作業がないのであれば手伝うことも殆どないだろうと思ったのであるが(むしろ、メインが荷物の運び込みだと思っていたので拍子抜けしてしまった)、なまえさんの部屋には一人暮らしの部屋にしてはやたらと多い数の段ボールがあった。「荷物結構多いすね」そう、見た通りのことを言えば、なまえさんは「引っ越しけっこう大変やったで」と言った。これだけの荷物があることを考えると、箱に詰める作業がえらい大変だっただろうというということは容易に想像がついた。「治くんには物の整理を手伝ってもらお思て」そうなまえさんが言った。「わかりました」部屋の中に詰まれたふたつの段ボールを眺め、上の段ボールを持ち上げた。段ボール箱は見た目よりもずっと軽かった。「じゃあ俺はこれからやってきます」と言えばなまえさんは「よろしくお願いします」と言った。

「これ、どないしたらええですか」
「どれ?」
「タオル」
「玄関のところのラックのところかな、下段がいい」
「ほい」

段ボールを一つ開けると、バスタオルが山のように出てきた。ひとり暮らしでこんなにバスタオル使うもんかいな、と思うけれども、なまえさん曰く「タオルはどれだけあっても困らん」らしい。なまえさんに言われるがまま、なまえさんの荷物を片付けていく。一つの段ボール箱が終わった後で、部屋の中に置いてあったもう一つの段ボール箱を取ろうとしたときに、なまえさんから待ったが掛かった。「それ下着やから、廊下の方やってもらってええ?」「わかりました」なまえさんに言われるがまま、廊下に置いてある段ボールを取りに行って、また一つ開封する。一つの箱の中身を片づけたら、もう一つの段ボールを片付ける。己にしてはなかなか手際よく片付けが進んでいるように思う。なまえさんと二人、黙々と段ボールを開けては片づけるという作業を繰り返していると、最後の段ボール箱にたどり着いた。最後の段ボール箱は、この部屋の中においてあるどの段ボール箱よりも重かった。重い段ボール箱を開けると、出てきたのは本の山だった。なまえさんが読み倒したのか、随分とくたびれているように見えた。本棚の中に本を片付けていると、己の見知ったものが出てきた。それは、なまえさんの高校卒業時の卒業アルバムだった。なまえさんが高校を卒業する日に、寄せ書きを書いてくれと言われてアルバムの一番最後の真っ白なページに寄せ書きを書かされたことを思い出した。あの日、なまえさんのアルバムになんの文字を書いたのかはもう、思い出せない。

「治くんどないしたん」

手がすっかり止まっている己に、なまえさんがそう話しかけてきた。

「懐かしいな、思て」

そう彼女に言って手元にあるアルバムを見せると、なまえさんが「ほんとだ」と言って笑った。

「見たかったら見てもええよ」

そう彼女が言うので、お言葉に甘えてアルバムを開いた。集合写真の中に、北さんや大耳さんが写っている。化粧のけの字も知らなかったころのなまえさんが、写真の中で笑っているのを眺めたのちに、部屋の片づけをすすめるなまえさんの背中を見た。就職してから五年、高校卒業から数えるとおよそ十年近い時が経とうとしている。今のなまえさんは、街中を歩いているOLとそう変わらなくなってしまった。もうすっかり、大人になってしまったのだ。化粧を知らなかったなまえさんの姿はもう、この卒業アルバムの中にしか居ない。「なまえさん」そう彼女に話しかけると、なまえさんはこちらを振り返らずに「どないしたん?」と間延びした口調で答えた。「なまえさんえらい変わったな〜思て」そう彼女に言えば、なまえさんは笑っていた。「わたしだけじゃなくてみんな変わっとるやろ」そう彼女が言った。北や大耳にも会ったやろ、そう彼女が言うので「はい」と答えた。北さんは取引先の関係で頻繁に会うことがあるけれども、大耳さんとはオリンピックのテレビ中継を一緒に見た時に会ったきりである。オリンピックの中継を見た日、稲荷崎の男子バレーボール部の面々と久しぶりに顔を合わせることとなったのであるが、自分もそうであればええな、とぼんやり考えるくらいには誰も彼も皆、いい年の取り方をしていた。

「治くんもえらい変わったやんか」
「そうですか?」
「髪色も変わっとるし」
「色戻しましたからね」
「高校入学したばっかの頃の治くん思い出したわ」

入学式のときは黒かったやんか、そうなまえさんが言った。「えらいまた懐かしい話しますね」そう彼女に言えば、「あの時は侑くんも真っ黒やったからどっちがどっちか分からんかったもんな」と言って笑っていた。なまえさんは、己の顔をマジマジと見た後に、「黒髪になったんもあるけど、治くんもえらい大人になってんで」と言った。「具体的にどの辺がです?」そうなまえさんに問えば、なまえさんは大真面目に考え込むようなそぶりを見せた。なんや、すぐ出てこんのかい。そう思ったのであるが、なまえさんの口から言葉がでるのを待った。

「上手いこと言えへんのやけど、大人になった」
「ようわかりません」
「なんか、今の治くんはすぐに喧嘩しそうにない」
「あの頃は俺もガキでしたからね」
「今も侑くんと喧嘩すんの?」
「しないですね、今はもう侑と四六時中一緒やないですし」
「一緒やったらするんかい」
「侑はまだガキやし」

そう言うとなまえさんは大きな声を出して笑った。「俺なんもおもろいこと言うてないですよ」そう彼女に言ったのであるが、なまえさんは「治くんも、もう大人やからな張り合ったりせんもんな」と言って笑っていた。「侑くんも元気にしとる?」「元気過ぎて元気ないくらいがちょうどええですわ」なまえさんの卒業アルバムの一番最後のページを開く。およそ十年ほど前に、綺麗とは言えない文字で書かれた文章がそこにはしっかりと残っていた。"ご卒業おめでとうございます。俺もちゃんと大人になります。宮治"と書かれた文字を眺めながら、そういえばそんなことを書いたな、とぼんやりと考えていた。「俺も大人になったんやなあ」そう、ひとりごとを口に出して言うと、なまえさんがくすくすと笑いながら、「そうやね」と言った。この寄せ書きを書いた時に考えていた大人というものに自分がなれているかどうかは分からないけれども(そもそも、これを書いた時は何も考えていなかったのだろうと思うが)、なまえさんが己のことを大人になったと言うのであればそれでええか、と思った。


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 なまえさんのマンションの中に置いてあった段ボールが全てなくなり、部屋の片づけがすべて終わったときには、時刻はすでに夕方になっていた。昼間、高いところにあった太陽はいつの間にか西の果てに沈もうとしている。部屋の窓から、燃えるような赤い西日が差し込んでいるのを目を細めて眺めた。「やっと終わったなあ」最後の段ボールを潰して紐で括ったなまえさんが、そう言った。「お疲れ様です」そう、なまえさんに言えば、なまえさんは「こちらこそほんまにありがとう、助かったわ」と言った。「ひとりでやってたら何日掛かってたかもわからん」となまえさんは言った。あれだけたくさんあった荷物が、なまえさんのワンルームの部屋に綺麗に押し込まれてしまっているのだから不思議だ。この部屋は見た目よりもずっと、広いのかもしれない。
なまえさんは「疲れた」と言ってカーペットの上に横になって転がった。寝転がるなまえさんの顔を眺めていると、なまえさんは「治くんもう帰ってしまうん」と言った。「片付け、もう終わりましたからね」そう、なまえさんに言うと、なまえさんは「なんや、寂しいな」と言った。

「わたし今日からこの部屋でひとり暮らしやんか」
「そうですね」
「ひとり暮らし初めてなん。今までルームシェアしとって、誰もいない部屋にひとりでいるのは、初めて」
「そうですか」

なまえさんはそう言ってカーペットの上を転がって、己に背を向けた。「一人暮らしも案外ええもんですよ」慣れてしまえば自由さが気に入ります、と言えばなまえさんは「そういうもん?」と言った。「はい」なまえさんにそう答えると、なまえさんは視線だけをこちらに向けた。

なまえさんは案外大人やないんですね」
「どういう意味?」
「ひとりは寂しいとか、まさかなまえさんの口から出る思いませんでした」
「ひとり暮らしを寂しないって言う治くんがちょっと大人なだけかもしらんで」
「そうかも知れん」

そう言うと、なまえさんは「あはは」と声を出して笑っていた。「俺は大人になったんです」となまえさんに言えば、なまえさんは「そうやね」と肯定した。西日が沈みきってしまう前まで、なまえさんと些細な世間話をしていた。ふたりで話すには会話が尽きてしまったころには、空は真っ暗になっていて、青白い月がそらに浮かび、星が散らばっていた。この部屋に長居しすぎたなと、なまえさんに「帰ります」と伝えると、彼女は「なんや、寂しいな」と言っていた。

「晩御飯奢るで」

今日の手伝いのお駄賃にしては安すぎるかもしらんけど、となまえさんが言ってくれたけれども、今回それは遠慮して、今度己のお店に来てもらうことにした(「うまい飯をたらふく食わせたります」と言えばなまえさんは「ほんま楽しみやなあ」と言っていた)。なまえさんは、「高校生のころの治くんやったら絶対晩御飯一緒に食べに行っとったのにな」と少し寂しそうな顔をして言った。確かに、高校生のころの己であれば彼女の言う通りに彼女についていって一緒に晩御飯を食べていただろうし、遠慮と言う文字を知らぬままおなか一杯になるまで食べて満足していたのだろうとも思う。

「まあ、俺ももう大人やしな」

そうなまえさんに言うと、なまえさんは可笑しそうな顔をして笑っていた。



2021-01-17