小説

西の夜明け

 元日の明朝、まだ東の空に夜明けの気配は無い。くらい夜のとばりは降りたまま、白や銀の星がまばらに散らばっているのが見える。西の空には、満月になりそこなった月がぽっかりと浮いていた。空気はキンと冷えていた。息を吐くたびに、白い息が漏れては空に向かって消えてゆく。ジャケットにマフラーと、それなりに着込んできたはずなのに、外気にむき出しの頬に冷たい夜風が当たると自然と背が縮こまってしまう。冬至もすぎてあとは春になりゆくだけとは言いつつも、未だ冬が終わりそうな気配は無い。冬の夜はとてもよく冷える。思わず、両手をジャケットのポケットの中に入れて暖を取ってしまうくらいには。
 己は、自宅の最寄り駅の前で人を待っていた。駅前を歩く人の姿は、自分以外には無かった。あるものと言えば、数台のタクシーが停車して客を待つ姿ばかりである。大晦日から元旦にかけてならば、初詣のための夜間運行を行っているが、明朝に近い時間になるとそれも終わってしまう。始発の列車が、あと一時間もしないうちに走り始めるだろうこの時間の駅前は、ひどく静かだった。
 スマートフォンには、『四時ごろに駅前に迎えに行きます』というメッセージが届いているのを最後に、彼女とのやりとりは終わっていた。時計を確認すれば、待ち合わせ時刻まで、少なくともあと二十分以上はこの寒空の下で待つ必要があった。到着したことを知らせる連絡は十分ほど前にでも入れれば良いだろうと思い、スマートフォンをポケットの中に片付けた。すぐそばにある自動販売機で温かい缶コーヒーを買い、この朝早い時間に、バスの来ないバス停のベンチにゆっくり腰を下ろして、待ち人を待つ。缶のプルタブを開けてコーヒーを流し込む。よく温められたコーヒーが、喉を通り胃の中に落ちていくのが分かるのが可笑しかった。
 終電が終わった後の駅は静かだ。駅に用事がある人もいないせいか、駅前のロータリーの前に現れる車といえばタクシーくらいなもので、それ以外の車は駅の前を素通りしてどこかへと走り去ってしまう。こんな時間にどこへ行こうと思っているのか、己には全くわからないが、それはこんな時間に外を歩いている己には言えたことではないだろう。しばらく、車が通りかかっては通り過ぎてゆくのを、コーヒーを飲みながら眺めていると、コーヒーの方がなくなってしまったので近くのゴミ箱に空き缶を捨てた。空き缶を捨ててバス停の前に戻ってくると、一台の軽自動車がロータリーの中に入ってくるのが見えた。軽自動車は、己の座っているベンチの目の前で止まり、助手席の窓を開けた。

「お待たせ。明けましておめでとう」

運転席に座る待ち人──みょうじなまえ──はそう言った。時計を見れば、四時の十分前、待ち合わせ時間にはじゅうぶん早い時刻であった。

「あァ、明けましておめでとう」
「今年もよろしく」
「こちらこそ」

みょうじと新年の挨拶を交わしたのちに、みょうじは「乗って!寒いでしょ」と言った。みょうじの言葉に甘えて助手席のドアを開けて車に乗った。車は暖房が効いていて暖かかった。

「早ェじゃねぇか」
「弓場なら早く来てると思って。でももっと早かったみたい。何時に来てたの?」
「今来た所だ」
「絶対ウソ」
「足出してもらって悪ィな」
「いいよ、弓場には正月早々わたしの初日の出に付き合ってもらうんだし」

着ていたジャケットを脱ぐと、みょうじが「後ろに置いておいたらいいよ」と後部座席をさしてそう言った。後部座席を見ると、みょうじの着てきただろう防寒着が無造作に置かれていたので、その隣に置いておいた。その間に、みょうじがカーナビを起用に操作して目的地を設定しているようだった。「できた」みょうじのその声とともに、無機質な音声がカーナビに目的地が設定された旨を告げた。目的地に設定されていたのは、隣市の海水浴場のあるあたりであった。「初日の出を見るんだろ、山じゃなくていいのか」そうみょうじに問えば、みょうじは「うーん。それも考えたけど、わたしたちはやっぱり海って感じじゃない?」と楽しそうに言った。

「海?」
「そう、海。弓場と前に出かけたのは海だったから、また海に行きたい」

「それとも、弓場は初日の出は山派?」そうみょうじが問うた。己は目的地が山でも海でも、どちらでもよかった。みょうじが初日の出を見たいというのだから、みょうじの好きなところで見るのが一番よいだろうと思ったからだ。それに、今日足を出しているのはみょうじなのだから、みょうじの好きなところにいくのが良いだろう。

「構わねェよ、運転するのはお前だ」
「ありがとう」

みょうじがラジオを操作するも、この時間に彼女が好みそうな番組がやっているわけもなく、音楽に変えてしまった。かかるのは、時折街中を歩いているときに聴いたことのあるジャズ・ロックだった。ジャズの優雅さとロックの軽快さが入り混じった音楽は、どこか親しみやすさを覚える。みょうじが音楽と一緒に上機嫌に鼻歌まで歌っているあたり、この音楽はきっと、この女の趣味なのだろう。

「じゃあ、出発します」そうみょうじは言って、ギアを入れてアクセルペダルを踏んだ。車はゆっくりと走り出した。





「あんまり人がいないと良いな」
「そうだな」

みょうじの運転する車は、カーナビに案内されるがまま、三門市内の大通りを走っていた。明朝にしては早すぎる上に正月のこの時間に空いている店はなく、街はシャッター通りになってしまっていた。この町で見える明るいものといえば、信号機か、街灯か、コンビニエンスストアの明かりくらいなものである。この大通りから細道に入ったところにある歓楽街に行けば多少変わってくるのだろうが、正月そうそうにやっている店はあまり、無いのかもしれない。

「この時間に運転するの初めて」
「少ねェだろ」
「うん、車少ない。いつもこれくらいだったら走りやすいのにな」

自分たちの目の前を走る車のすがたは、まばらだった。左側の路肩に止められたタクシーとたまにすれ違うくらいなもので、己らの走る車線の前を走る車も無ければ、後ろを走る車も無かった。「追い立てられないし、追いつく車もないし、凄くいい」そうみょうじは上機嫌な様子で言った。カーナビに従って、大通りを左折して、三門市から隣の市に向かう国道に入る。この国道をまっすぐ走っていれば、隣の市にじきに到着するだろう。みょうじの運転は、丁寧だった。ゆっくり加速して、ゆっくり止まり、穏やかな速度で走る。車が殆どいない道路と言うものは、制限速度さえ守れば好きなペースで走れるから良いのだとみょうじは言った。

「わたしけっこう運転うまくない?」
「そうだな」
「本当?」
「あァ。もっと荒いと思ってた」
「なんでよ」
「冗談だ」
「びっくりした」

弓場に荒そうな人だと思われてるのかと思った、と彼女は心外だと言いたげな雰囲気を醸し出しながらそう言った。車は、静かな道路をすいすいと走り抜けてゆく。スピードを上げ過ぎず、程よい速度で気持ちよく走っていた。「もう少しかかると思ったから早めに出たけど、この調子だと早く着くかも」赤信号で車が止まっているときに、カーナビに表示された到着予定時刻を眺めてそう言った。「早く着いたのであればそれはそれでいいだろう」そうみょうじに言えば、みょうじは「それもそうか」と言った。





 海水浴場の駐車場に車を止めて、己とみょうじは砂浜の方へと歩き出した。夜明けの時刻まで一時間を切っているというのに、空は未だ暗く、夜明けの気配は未だ感じられない。この海べりにきている奇特な人間は、己とみょうじだけらしい。他に止まっている車の姿もなければ、浜辺を歩く人の姿はひとりも見えなかった。誰も居ない、白い砂浜をふたりで並んで歩く。防寒着をしっかり着こんできているはずなのに、どこかしら寒いように感じるのは、海から吹いてくる湿度のある潮風のせいだろう。みょうじは「寒いね」と白い息を吐きながらそう言った。首元をマフラーで覆い、手袋をつけ、ジャケットの下に山ほど着こんでいる(本人談)と言うのに、それでもまだ寒そうに肩を窄めて小さくなって歩いていた。

「弓場海側歩いて」
「あァ」
「ありがとう」

人の体を風除けに使おうとするみょうじの算段はすぐに察することができた。とはいえ、この広い場所では己一人分の風除けなど風除けの役にも立たないだろう。案の定、みょうじは「それでも寒い」と言って小さくなっていた。

「戻るか?」
「戻らない」
「あァ」

なら頑張れよ、とみょうじに言えば、彼女は首肯した。砂浜は、視界の向こうまで延々と続いている。砂漠というものを見たことが無いけれども、もしかしたら砂漠もこのような感じなのかもしれないと錯覚してしまうほどに、それは遠くまで続いていた。白い砂浜に、波が寄せては返す時にきこえるざあざあという海鳴りの声を聴きながら、己とみょうじは白い砂浜を宛てもなく歩いていた。「宛てがあるのか?」果てまで続く砂浜、それらしい建物も無ければ、展望台の姿すら見えない浜辺で、そうみょうじに分かり切ったことを問うと、みょうじは首を横に振った。

「分からない」

みょうじは困ったように笑っていた。分からないと言ったみょうじの言葉の意味を咀嚼しようとするが、己には察しがつかなかった。今の己の顔は随分と間抜けな顔をしているのかもしれない。開き直ったように笑ったみょうじが、己の顔を見たあとに、「ここに来たかったということしか、わたしにはわからなかった」と続けて言った。つまり、日の出が見たいと言ってこの場に来たのは良いが、この場所が日の出の見えない場所かも知れないと言うことである。夜明けまであと一時間もないというのに、空が白む気配も無い。海側は、くらい空が延々と続いており、未だ星が煌めいている。今自分たちが立っている場所が西海岸であるならば、この場に人の姿がひとりも見当たらないのは当然のことなのだろう。この場から、夜明けが見えないのであれば、この場所に来る必要はないのである。

「今から行けば間に合うんじゃないか」

そう、みょうじに言うのであるが、みょうじは「いいの」と言った。

「日の出が見たかったんだろう」
「うん」
「ここからだと見えないんじゃないか」
「それでもいいかなって、思って」

みょうじは「日の出も見たかったんだよ、これは本当」と己に向けて言った。みょうじはひとりで、砂浜の先を、歩いていく。己も、みょうじの後に続いて歩く。日の出の見えないこの海岸の先を、己とみょうじは歩いていた。「弓場ァ」先を歩くみょうじがそう、己の名前を呼んだ。

「弓場は初日の出、見たい?」

そう彼女は問うた。己は初日の出を見ることにこだわりが無かったので、別にどちらでも良かった。「いや」そう返せば、みょうじは嬉しそうに笑って己の顔を見ていた。彼女のその表情の意味がよくわからなかったので、「なんだ」と彼女に問うた。「弓場が怒らないなら言うよ」そう、みょうじはいたずらっ子のような笑みを浮かべながら己の顔を見ていた。みょうじは、己が怒るとも、怒らないとも言う前に口を開いた。

「弓場がわたしのためだけに正月に早起きしてくれたのがうれしいだけだよ」

みょうじはそう言った後に、照れくさそうな顔を隠すようにして、突然砂浜を走り出した。「転ぶぞ」そう言う前に、みょうじは砂に足を取られて見事に転んでしまった。見ている方が拍手したくなるくらい綺麗に転んだみょうじは、砂浜の上に座り込んでけらけらと笑った後に、着ているジャケットや、手袋やマフラーに白い砂が沢山ついているのを見て苦笑いをした。砂の上に座ったままケラケラ笑っているみょうじに追いつくのは容易いことだった。みょうじは、彼女を見下ろしている己の顔をじっと見ていた。

「お前は全く」

ろくにうまく歩けない場所で急に走るなと言って彼女に手を差し出すと、みょうじは己の手と、己の顔を交互に見た後におずおずと手を差し出した、差し出されたみょうじの手を握り、引っ張り上げると、砂浜に座り込んでいたみょうじが立ち上がった。立ち上がったみょうじは恥ずかしそうな顔をして俯いてしまった。

「俺はお前が分からん」

砂を払うみょうじにそう言えば、みょうじは不思議そうな顔をして己の顔を見ていた。「何も難しいことじゃないよ」そうみょうじは己に言った。日の出が見たいと言ったかと思えば日の出は別に良いと言い出したり、急に走り出したかと思えば急に転んでみたり、己の顔を見て恥ずかしそうにしてみたり、この目の前の女が求めているものが、己には何もわからなかった。

「弓場のことがただ好きなだけだよ」

東の空がうっすらと白み始めている。夜明けの時刻はとうに過ぎてしまっているというのに、己らの目の前に広がる海は今だくらい波が、延々と続いている。西の果てまで明るくなるには、まだ、暫く時間が掛かるだろう。「みょうじ」そう彼女の名前を呼んだ。言いたいことを言うだけ言って満足して俯いていたみょうじが、顔を上げて己の顔を見た。己は、みょうじの手をそっと取って、海の方を見た。「俺は、海が明るくなるのを見たい。ちと付き合ってくれねえか」そう彼女に言えば、みょうじは目を丸くしたのちに、己の手を握り返して「はい」と答えた。
2021-01-02