小説

旅路

#様々な捏造が含まれています

 日本の地に足を最後につけたのは、数年前に行われた東京オリンピックの頃が最後だったように思う。対アルゼンチンとの試合で、高校の頃戦った及川徹との再戦を果たしたことが、つい昨日のことのように思う。あの時、日本に帰ったもののあまり落ち着いていられなかったので、今度こそゆっくりするために帰国することを決めたのが、オフシーズンに入る一か月前のことであった。数日分の旅行荷物を詰め込んだ鞄を持ち、成田空港から、バスに乗って東京方面へと移動する。街路樹の桜の木はすでに花を散らし切った後で、青々とした葉を空に向かって伸ばしていた。空気から冬の匂いが抜けて、夏の青々とした匂いが漂い始めると、春が通り過ぎ、もう季節は夏に移り変わりつつあるように感じる。成田空港から東京駅に到着し、東京駅からさらに自分の実家のある新幹線のホームへと向かう。ほぼ丸一日を飛行機の移動で使い、これからさらに実家への移動があると考えると気持ち疲れてしまうような気がしてならないのであるが、待ちに待った休暇で帰国出来たということと、久しぶりに眺める街の景色が懐かしく、街々の空気を眺めているのが面白くあまり疲れは感じなかった。
 新幹線に乗り数時間、日本に着いたばかりのころには太陽は空高くに上がっていたのにも関わらず、実家から最も近い新幹線の停車駅に着くころには太陽は西の方に傾きつつあった。空が橙色にうすらと染まるのを眺めながら、新幹線駅から在来線のホームに行き、電車に乗って実家の最寄り駅へと向かう。更に、実家の最寄り駅からバスに数十分ほど揺られる必要があった。実家にたどり着くころには、この太陽は西の彼方に沈んでしまうだろう。東京の、騒がしいビル街の間を通り抜けて、北へ向かうほど、背の高いビルは姿を少しずつ消し、背の低い建物の間を通り抜け、住宅街が見えたと思えば、青々とした田畑が広がる風景へと変わっていった。背の高いビル群よりは、この青々とした景色のほうが自分にとって馴染みがあるせいか、この景色を見るといよいよ自分は日本に帰ってきたのだなと思う(日本と言うよりは、自分の家に帰ってきたという感覚に近いのかもしれない)。景色を眺め、西に傾いてゆく太陽のことを考えていれば、実家に着くまでの数時間がすぐに過ぎ去っていってしまったように思う。実家のあたりは、良く知る風景のままだった。新しい建物が立っている雰囲気もなく、馴染みのある店の、立て看板の姿が見えた。いよいよ、ここまで帰ってきたのだと、旅行荷物を詰め込んだ鞄を持ち直して、帰路をゆく。と言っても、この道のりを歩いていたのは、小学生のころと、中学生以降、実家に帰省したときに何度か歩いた程度のものであるから、良く見知った道ではあるけれども、たまに歩く道のりというだけであまり馴染があるというわけではない。小学生のころであれば良く歩いたものであるが、それも自分にとっては遠い昔の記憶である。「ただいま」そう、実家の扉を開けて言えば、母親が出迎えてくれた。「おかえり」久しぶりね、と言う母親は、以前会った時に比べてほんの少しだけ老けたように思う。実家の壁には、ポスターが張られていた。東京オリンピックの頃のポスターに、ポーランドのチームでプレーしているときのものもあった。本棚の中にはディスクが沢山詰まれていて、それらのラベルにはすべて試合の日程が書かれている。母がどうして己のポスターを持っているかも、己のプレーを見ているのかも知らなかったけれども、実家の母は、遠い海を隔てた遠い日本から、海外でプレーをしている己のことを見ていたということだけはよく分かった。


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 日本で休暇を過ごそうと思ったものの、特に予定を立てずに来たせいもあってやることが無く、暇で仕方がなかった。習慣でもあるトレーニングを行った後であれば、残りの時間は自由である。スケジュールに追われることのない日というものは気楽なものであるが、いざその自由な時間がたくさん用意されてしまえば、逆に時間の使い方に悩んでしまう。母の買い物に付き合うことはあれど、それ以外でやることと言えば、過去の試合のログを眺めるくらいなものである。結局、休みの期間中でもバレーボールのことばかり考えている己のことを、母は「バレーボールが本当に好きなのね」と楽しそうな顔をして言った。こうして、無為に休暇を過ごすのもなんだかもったいないような気がしてならなかったので、自分が今できることを考えていたのであるが、パッと思い浮かばなかった。日本に来てからでないと出来ない事と言えば、かつての友人らに会うことくらいなものだろう。しかし、休暇を急に取ってしまったため、結局今回の帰国は誰にも告げなかったので、今更友人らに日本に居ることを伝えるのもなんだか憚られるような気がしたので、連絡を取ることはやめていた。日本に居て特別行きたいところを考えてみたけれども、残念ながらあまり思いつかなかった。正しくは、日本での自分の生活が、学校とバレーボールばかりだったので、どこか行きたい場所を考えた時に候補として挙がる場所が思い浮かばなかったのである。特に行き先がないのであれば、かつて自分が居た場所に行けばよいのではないか、そう、誰かが話しかけてきたような気がした。特に目的もなく、無為に実家で過ごしているくらいであれば、かつて自分が居た場所をもう一度訪れてゆっくり巡ってもよいではないか、と考えて、確かに、と納得する自分がそこに居た。思い立ったが吉日、翌朝、母親に行き先を告げて実家を出た。「仙台に行ってくる」そう告げた時に、母親は「せっかく帰ってきたのに忙しいのね」と困ったような顔をして言った。しかしながら、出先で長居する予定は無かったので、「すぐに戻る」と告げた。母親は、己の言葉を話半分に聞いているのか、「遅くなるなら連絡してちょうだい」と言った。「ああ」己は、ポケットの中に財布とスマートフォンだけをいれて、家を出た。外は、春の陽気が気持ちの良い朝だった。





 地元の駅から、仙台ゆきの電車に乗る。帰国したときには、仙台に行く予定も無ければ、行く理由も無かったのにも関わらず、いざ行こうと思い立ってみれば、案外体は簡単に動くものだった。春は忙しい。年度の始まりで誰もがせわしなく動いている中で、仙台にいるだろう、かつてのチームメイトたちに声を掛けるのは何となく憚られたのでやめておいた。特に今回は、初めから予定していたものではなく、突発で行こうと思い立ったことなのだからなおさらのことである。今回の旅は、特に誰かと会う約束をしているわけでもなく、何かをしにいくわけでもない。ただ宮城の、己がかつて歩いた道をふたたび歩きに行くという目的以外何もない旅である。車窓から見える景色が、実家周辺の良く知ったものから、田園風景へと移り変わってゆくのを眺める。ほんの数年前までは、帰省から学校へと戻るために通うたびに眺めていた景色である。春の緑が生い茂るこの車窓から見える風景を見た回数はそう多いものではなかったけれども、どこか懐かしいもののように思えて仕方がなかった。ほんの数か月前であればこのあたりにも、まだ雪が残っていたのだろうが、既に冬は通り過ぎて春になり、夏もすぐ目の前まで来てしまえば、その雪のすがたももう見えない。馴染みのある風景を眺めながら、かつて自分が生活していた宮城の土地のことを思い出す。宮城で生活をしていたころ──具体的に言えば、中学から高校の六年間のことであるが、あの頃も生活のほとんどがバレーボール一色だったので、思い出すことといえばバレーボールのことくらいであった。高校を卒業してプロ入りし、現在に至るまで、バレーボール一色の生活をしているというところは、あの頃から全く変わっていない。こうして休暇を取って、バレーボールから離れた場所に来たというのにもかかわらず、結局のところ考えていることといえばバレーボールのことである。高校生のころに、チームメイトからバレーボール馬鹿と言われだことを思い出しながら、たしかにそう言われても仕方がないと、納得してしまった。


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 かつて歩いた場所に行くということだけを決めて、流れに身を任せて電車に揺られていれば、すぐに仙台駅にたどり着いた。電車の心地の良い揺れに身を任せているだけでこの場所にたどり着くのであるから、電車という乗り物は便利だと思う。仙台駅という駅には特別な思い出があるわけではなかった。たしかに宮城には居て仙台駅を利用したことはあれど、頻繁に利用していたというわけではなかったので、あまり仙台駅に馴染みが無いのである。特に理由もないので、仙台駅で長居することもなく、仙台駅から、通っていた白鳥沢学園高校の最寄り駅に向かう電車の止まる駅のホームで電車が来るのを待った。次の電車が来るのは今から十五分後のようであった。時折ホームに吹き込んでくる風に、青々とした夏の匂いが漂う。もう、春も通り過ぎ、夏がすぐ目の前まで来ているようであった。駅のホームで電車が来るのを待つ間に、かつて自分が中高生の頃にこの電車を同じように待っていたことを思い出していた。回数がそう、多いわけではないこの道のりも、久しぶりに辿ってみれば悪くないように思う。今日は、学校にただ行くためだけにこの電車に乗るのである。かつて学校に戻るために電車を待っていた頃に感じていた翌日の学校生活への思いが何もない状態で歩く道のりは、とても足が軽いように感じでしまった。あの頃は特に何も思っていなかったはずだったのであるが、自分が自覚していないところで思うところがあったのだろう。


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 門の外から、校舎を眺める。かつて自分が六年間を過ごした学校に到着する頃には夕方のちょうど良い時間になっていたらしい。校門の外から見える学内には、外周を走る部活生らのすがたが見えた。己が在籍していた頃と変わらず、運動系の部活はさかんに行われているようであった。元気に走る学生の姿を眺めていると、声をかけられた。「あれ?」「ん?」声の主は己に向けて声をかけているようだった。学校の校門の前に立っているのは、声の主以外には己だけである。声の主は年若い女性だった。校門から関係のない人間が学内を見ているのは不審だったかもしれないと思って謝ろうとしたのであるが、己が声を出すより先に相手の方が声を上げた。「あっ!」己の顔をまじまじと見た女が、そう声を上げた。

「やっぱりそうだ、若利くんだ」

若利くん、と己の名前を呼ぶということは、己の知り合いなのだろうと思い目の前の女性に近しい人の姿を思い出そうと頭をひねるのであるが、目の前の女性が誰なのか全くと言っていいほど思い出せなかった。しばらく思い悩んで居ると、彼女の方から「わたし、みょうじ」と言った。

みょうじ……みょうじなまえ?」
「そう、みょうじなまえ。久しぶりだね」

目の前の女はそう名乗った。みょうじなまえと言えば、中学から高校の六年間同じクラスだった女子生徒だった。中学の頃の、最初の三年間同じクラスだった時は「こんな偶然ってあるんだね」という話をした記憶があるが、高校に入って二年間クラスが同じだった時には「また若利くんと同じクラスか」と言っていたことをよく覚えている。まさか、高校三年目のクラス替えの時にも同じクラスだったのを知ったときには、互いに「六年間一緒なんだ」と言いあったものである。

「わたしのこと、忘れてた?」
「いや、覚えていたが誰か分からなかった」
「それはわたしが可愛くなったから?」
「……」
「そこは素直に『そうだ』って言うんだよ」
「いや。綺麗になった」
「ありがとう」

みょうじはそう笑って言った。まさかこんなところで会うとは思わなかったな、とみょうじは言った。それに対して、首肯した。「みょうじはどうしてここに来たんだ」そうみょうじに問えば、「ああ」と思い出したような顔をして、口を開いた。

「わたし、仕事だったの」
「仕事?」
「そう。わたしね、今ここで先生やってるの」

そう言ってみょうじはかつて己らが通っていた校舎を指さした。「今日はいつもよりちょっと早く帰れてラッキーな日なんだよね」と楽しそうに笑って言った。

みょうじが教師か」
「そう。クラスはまだ持ってないんだけどね」
「そうか」
「変?」
「いや。あまり想像がつかなかった」
「あはは」

よく言われる、とみょうじは言った。

「あーちゃんっていたでしょ」
「あーちゃん?」
「わたしの友達、仲良かった子」
「……ああ」
「あーちゃんに予備校で働いているかもしれないけど、学校では教えてなさそうって言われた」

そう、みょうじは楽しそうに笑って話しをした。己の見る限り、彼女は中学、高校の六年間の間、クラスメイトに勉強を教えていたので、彼女が今現在教員をやっていると言われると、なんだかしっくり来るものがある。予備校で教えることと、学校で教えることの違いは己には分からないものであったが、彼女たちの中には明確な差があるのだろう。己も、まさかみょうじが教員として自分の母校に戻っているとは思わなかったし、高校生のころにそんな未来など少しも想像していなかった。

「学校に戻ってきてるとは思わなかった」
「若利くんとそういう話したことないしね」

進路の話とか、と彼女は笑う。「だいたい、わたし連絡先知らないから若利くんと話す機会もなかったしね」と彼女は言った。「そうそう」みょうじは何かを思い出したような顔をしたあとに、にやりと笑って己の顔を見た。みょうじのその含みのある笑みに、思わず身構えてしまう。

「若利くんの話、聞いてるよ」
「そうか」
「日本代表でバレーやってたのも見た」
「ああ」
「若利くんがバレー上手いのは知ってたけど、まさか世界に行っちゃうとはね」

「わたし結構びっくりした」そう彼女は口を開いた。「まさか中学と高校の六年間同じクラスメイトが世界に行くとは高校生のころは少しも思わなかったし」もう若利くんはクラスメイトの若利くんっていうより世界の若利くんって感じだもんね、と彼女は言った。

「でも、わたしの中の若利くんはいつまでも六年間同じクラスだったクラスメイトの若利くんなんだよね」

学校の掲示板にも若利くんの新聞とかポスター貼られてるよ、と彼女が言うのでなんだか照れくさい気持ちになってしまった。「そうなのか?」そう返せば、「見ていく?」彼女はこともなげに言った。「せっかくだし、貼ってるポスターにサインしてよ」と彼女が言うのであるが、退勤した彼女をもう一度職場に行かせるのもどうかと思うし、なにより、高校側も急に来られても困るだろうと思ったので遠慮しておいた。

「帰国して誰かに会えた?」
「いや」
「そうなんだ。今回はお忍びで帰国?」
「予定が急すぎて誰にも言えなかった」
「あはは。急でも若利くんに会いたいって言う人絶対居ると思うのに」
「俺の予定に付き合わせても悪いだろう」
「そうかな」

若利くんが内緒で帰国してるのバレたら後が面倒かもよ、と彼女が笑う。「……内緒にしておいてくれ」そう彼女に言えば、みょうじは「どうしようかなァ」とからかうような顔をして言った。このときの表情は、何となくクラスメイトのみょうじの顔をしていたので、ようやく目の前の女性が、あの頃のクラスメイトのみょうじであることと紐づいたような気がした。黙っている己に、みょうじは「大丈夫だよ、若利くんの友達と会うことって殆ど無いから」と言った。

「若利くんはしばらく日本に居るの?」
「明後日には向こうに戻ろうと思っている」
「じゃあ、あんまりゆっくりできないね」
「いや、しっかり休めてはいる」
「そう?」
「ああ、実家で休んでいた」
「そうなんだ。若利くん実家遠かったよね?よくここまできたね」
「最初は実家に居る予定だったんだが……」
「じっとできなかった?」
「ああ」
「そういう日もあるよね。今日は他にどこか行ったの?」
「いいや」
「じゃあ、これからまたどこかに行くの?」
「それも考えていたのだが、もう満足してしまった」
「そう?」
「ああ」
「それはよかった」

学校見に来て満足して帰るなんて、若利くんって結構変なところあるね、とみょうじは不思議そうな顔で己を見ていた。暫く、みょうじと些細な会話を交わしたのちに、彼女が時計を見て「いけない!」と言った。

「わたしはもうそろそろ帰らなきゃ。またね、若利くん」
「ああ」
「おしゃべりに付き合ってくれてありがとう。お元気で」
みょうじも」
「ありがとう。試合見てるしこれからも応援してる」
「ああ」

そう言ってみょうじは手を振って去って行ってしまった。最寄り駅のある方向に向かって歩いていくみょうじの背を見送ったのちに、学校の校舎を再び見上げた。今の自分が、かつての自分と違うように、かつての同級生たちも皆変わっていったのだろうと思うと、なんだか感慨深い。校門から外にでて、ロードワークに出かける生徒たちの姿を見ていると、己も、彼らと同じ年のころにそうして走っていたことを思い出して懐かしくなってしまった。特に、これから何をするという用事があるわけでもないし、もう帰ろうと思ったのであるが、生徒たちの後姿を見ていると、あの日走っていたコースを一周、のんびり歩くのも良いかもしれないと思い、彼らの去っていった方へと足を進めた。


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 己がまだ高校生の頃、普段ロードワークで良く走った場所をぐるりと一周歩き終わったころには、陽はとっぷりと落ちて夜がすぐ目の前まで来ていた。あの頃見ていた景色は、あまり変わってはいなかったけれども、些細な変化はあった。店の看板が変わっていたり、新しい住宅が建っていたり、己が去った後でこの街も少しずつ変わっていったのだろう。
 西の端が橙色に染まり、東の空は薄闇色に変わりつつある。あかるい星のすがたが、薄闇色の空の上で光っているのを眺めていた。夜はもうすぐ目の前まで来ている。実家に戻る最終列車のことを考えながら、白鳥沢学園の最寄り駅の方──数時間前に、みょうじの背中が消えていった方向に向かって歩いた。のんびりと帰路を辿りながら、今日一日のことを思い出す。急に出かけようと思って実家から仙台ゆきの電車に乗ったこと、仙台から学校の最寄り駅まで来たこと、学校の前でみょうじと会ったこと、かつて走っていたコースをゆっくりと歩いたこと──中高生のころに見た景色と同じものを見に来たはずだったのに、実際に見たものは何処か新鮮なもののようであった。
2020-12-26