小説

結婚の話

「おかえり」
「……ただいま」
「どうだった?」
「すごく良かった」

結婚式、わたし本当にうれしくて泣いちゃった、となまえは言った。ハンカチを片手にぐちゃぐちゃに握りしめたまま、なまえは家に帰ってきた。なまえは、玄関先であると言うのにもかかわらず、興奮気味のまま、涙でぐしゃぐしゃにした顔を己に向け、鼻をすすって、ただいまの挨拶よりも先に縋りつくように「倫太郎」と己の名前を呼んだ。「おかえり」居間のソファから立ち上がって玄関先に顔を出すと、荷物をたくさん持ったよそ行きのドレスを着たなまえが玄関先に立っていた。なまえの目が余りに赤く腫れているものだからぎょっとしてしまったが、大方結婚式でワンワン泣いて帰ってきたのだろうから、心配する必要はなさそうだった。「早く上がりなよ」そうなまえに言って、己は居間へと戻る。玄関先で靴を脱ぐのが上手くいかないのか、履いていた靴の踵を派手に鳴らしたなまえが廊下を歩いて居間へと顔をだした。「玄関の靴は?」「片付けた」「いいね」靴箱の中に靴を片付けたらしいなまえが、持って帰ってきた引き出物を、居間のテーブルの上に置いた。「聞いてよ倫太郎」「うん」「もう本当に良かったんだよ、結婚式」なまえはハンカチを強く握りしめて、興奮気味にそう話した。なまえの友人の結婚式に参加していないというのにも関わらず、なまえが式の詳細を隅から隅まで話すので、なんだか自分もその結婚式の場に居たような気がしてしまう。ひとしきり話し切ったなまえは、話すだけ話してすっきりしたのか、一息を吐いた。「どうしたの」そうして、目の前でボロボロと涙を流し始めたのである。

「結婚式のことで泣いてんの?」
「うん」
「……そんなにうれしかったんだ」
「うん」

なまえがうれしそうなのは、話しぶりから分かるし、感動して泣くほど嬉しくてたまらない式だったのであればきっと、良い結婚式だったのだろうとは思う。しかしながら、なまえがただ泣きすぎなだけなのかもしれない。結婚式に参加して、結婚式の二次会にも参加して帰ってきたはずのなまえが、帰宅してさらに結婚式のことを思い出して泣いている様子を見ていると、もしかしたら彼女は二次会の最中も泣いていたのかもしれない。「ずっと泣いてたの?」と問えばなまえは「涙が全然止まらなかった」と答えにならない答えを返してきた。もしかしたら、同じ式に参加した人たちに迷惑をかけてしまったのかもしれないと思うと申し訳ない気持ちになってしまった。

「泣きすぎってみんなに言われたけどまだ泣ける」

そうなまえは鼻をすすった。まだ泣くつもりなのかよ。「幸せそうで嬉しかった」そうなまえは涙を拭きながらそう言った。なまえのことだから、てっきり結婚式の日も相手の男のことについてとやかく言うのだろうと思っていたけれども、結婚式を迎えた後になってしまえば、なまえの友達の彼氏への嫉妬の感情はどこか遠くに消えてしまったのだろうか。あの忌々しい男の話は一言も、なまえの口からは出てこなかった。友達が結婚して幸せそうにしているさまを見た時の嬉しさが、彼女の友人の結婚相手への嫉妬の感情すら吹き飛ばしてしまったのかもしれない。結婚式の最中から泣いていたなまえの面倒をずっと見ていたのだろうハンカチは、涙ですっかりびしゃびしゃに濡れてしまっていた。「それちょうだい、洗濯するから」そう、なまえの手から受け取ったびしゃびしゃのハンカチの代わりに、ティッシュペーパーを箱で渡すと、なまえはティッシュで涙を拭った後に、鼻をかんでいた。結婚式の二次会まで終わった後だというのに結婚式のことを思い出して家でまで泣くのはさすがにに泣き過ぎだろ、と思うけれども、今日はもうなまえの好きにしてやることにした。パーティードレスを着たままのなまえが部屋の絨毯の上に座り込んでしまう前にパーティードレスを脱がせて、部屋着を着せたのちに、なまえの脱いだ服をクリーニング屋に出すための袋に入れる。部屋着に着替えたなまえは、絨毯の上に座り込んでまた鼻をすすりはじめていた。このまま絨毯の上に転がってしまうのも時間の問題か、と絨毯の上に座り込むなまえが、絨毯の上に転がり始めたのを見て、心の中でセーフ、と呟いた(せっかく新しくおろしたなまえのパーティードレスが悪くなってしまうのは、できれば避けたかった)。絨毯の上に転がって泣くなまえと向かい合うように、居間のソファに腰を下ろして、座礁しながら泣くなまえの顔を見る。まつ毛の先が涙で濡れて、泣き腫らしたせいか、目の周りはすっかり赤く腫れていた。既に涙で化粧も落ちてしまっているなまえに「化粧落とさなくていいの?」と問うたが、なまえは「今はそう言う気分じゃないからいい」と言って、ティッシュで鼻をかんでいた。

「両親のご挨拶で誰よりも泣いたかも知れない」
「それは泣すぎ」

そうなまえに言えば、なまえは「だって嬉しかったんだよ」と言ってまた泣いていた。あれだけ友達に結婚してくれるなと言い続けては駄々を捏ね、彼氏が出来るたびにヤケ酒を煽っていたなまえの、てのひらの綺麗なひっくり返し方を見ると結婚式も案外良いものなのかもしれないと思ってしまう。そう思ってふと、なまえを見ると、なまえは鼻水と涙を吸ったティッシュの山を、絨毯の上に作り続けていた。結婚──結婚か。目の前でティッシュペーパーの山を作っているこの女と?真面目に考えようとすればするほど本当に良いものなのだろうかと首を傾げそうになってしまったので、考えることを一度辞めることにした。「倫太郎が結婚するときもわたし泣いちゃうかもしれない」なまえはティッシュペーパーの山の上にまた一つ、ティッシュペーパーを積み上げてそう言った。

「倫太郎が綺麗な服を着て、壇上でちょっと嬉しそうにしてるの想像したら今すぐにでも涙出てきそう」
「俺の結婚式想像してんの」
「うん。倫太郎の結婚式もわたしは泣きながらおめでとうって言ってると思うよ」

なまえはそう言って再び鼻をかんだ。「ティッシュ床に置かないでゴミ箱に捨ててよ」「ごめん」鼻水だらけになったなまえのティッシュのかたまりをまとめてゴミ箱に捨てると、ほとんど空っぽだったはずのゴミ箱は、なまえの涙と鼻水に塗れたティッシュでゴミ箱はいっぱいになってしまった。なまえの涙と鼻水の波が通り過ぎたら、このゴミ箱も空っぽにしようと思いながら、なまえの顔を見る。なまえは己の顔を縋るような目をして見て「倫太郎」と己の名前を呼んだ。

「倫太郎結婚しないで」
「……また始まった」
「いま倫太郎が結婚したら涙枯れる」
「だろうね」

なまえは起き上がって、ソファに座る己の足にまとわりついてきた。コアラか何かのようにまとわりついてくるなまえは簡単に剥がれてくれないので、なまえを剥がすことはそうそうに諦めた。せめて涙と鼻水を服につけてくれるなよと祈るばかりである(多分、その祈りも届かないのだろうと思う)。壇上に居る己を招待客席から眺めてはまた泣いてしまうのだろうとなまえは言った。「ハンカチ一枚じゃ足りないかもしれない」なまえはそう、大真面目に言うのである。

「俺、前も言ったけどさ」
「なに」
「俺の今の彼女はなまえだからね」
「知ってるよ」

なまえはそう言う知ったように言うのであるが本当に分かっているのかどうかは分からない。もしかしたら、言葉の意味が少しもなまえに伝わっていない恐れがある。己の、今の彼女はなまえで、結婚を今考えるのであれば、その相手は当然なまえであってほしいとそう思っている。なまえに結婚相手と付き合う相手は別であると言ったことは無いはずなので、己の結婚相手がなまえではない他の誰かを指すとは、なまえから見てもそうは思えないはずだと思っていたのであるが、よく考えてみればなまえに結婚を考えていると言うことをハッキリと口に出して言ったことは無いし(口を滑らせてしまったことはノーカウントだろう)、なまえを結婚相手にしたいと言葉に出したことは無かったはずなので、なまえが己の結婚となまえの結婚を全く別のものとして考えていても仕方がないのかもしれない。俺は結婚相手と付き合う相手は同じが良いと思っている、まで言ってはじめて、目の前の女に今自身が考えていることがほんのひとつやふたつくらい伝わってくれるのだろうか。なかなかなまえに上手く伝わらないな、と思うけれどもなまえは己とは違う人間であるし、自分自身のことになると途端に察しが悪くなってしまうきらいがあるので仕方がない(もう、なまえに己の考える"普通"の考え方というものが当てはまらないということを、己はいい加減に理解した方がいい)。なまえが『倫太郎どこにも行かないで』と言うあたり、己と一緒にこれから先も一緒に居たくないというわけではなさそうではあるけれども、それがなまえにとっての結婚と同義かまでは、彼女の口から聞くまでははっきりと確証は持てない。

「……俺の言いたいこと、わかる?」

そう、なまえに切り出してみたけれどもなまえは泣き腫らして赤くした目を己に向けてキョトンとした顔をしているだけでよくわかっていないようであった。「……やっぱりこの話ナシ」また一人で勝手に突っ走って自滅しては敵わないからと、そうなまえに言えば、なまえは「倫太郎が難しい話してる」と言って頬を膨らませて黙ってしまった。なまえのそうやってむくれている時の顔は、己のことを考えて少しだけ腹を立てている時なので、けっこう可愛いと思う。

「気になる」
「気にしなくていいよ」
「いつもの倫太郎の自滅?」
「……俺のせいにしてるけど俺からしてみればほとんどなまえのせいだからね」
「わたし悪くないじゃん」
「いや、なまえが悪いよ」

俺が余計なことを言っているのはどう考えてもなまえのせいだろ、と思うのであるがなまえにそれを言ったところでなまえは納得しないだろう。実際なまえは少しも納得していなかったし、己の顔をただ不満そうな顔をして、じっと見ているだけである。

「……」
「何その顔」
「言ってくれないの?」

なまえはそう言ってごろりと絨毯の上を転がって、こちらに背を向けてしまった。「本当に言ってくれないの」なまえは続けてそう、言った。なまえの丸まった小さな背中はほんのすこしだけ、さみしげに見える。

「拗ねても俺は言わないからね」
「どうして」
「はずかしいから」
「一回言っちゃえばはずかしくないよ」

そんなことねえから、と言えばなまえが背中越しに、こちらに顔を向けてきた。なまえの真っ赤に腫れた目が、己を責めるような目つきでじっと見ていた。少し拗ねたような顔をして、こちらがなまえに折れて渋々彼女のいうことを聞くのを待っている時の、ずるいなまえの顔であった。初めのうちはその顔にも絆されてしまっていたところが全く無かったというわけではないが、今ではもうその顔を向けられても簡単に折れてやることはない。

「そんな顔しても言わないからね」

そうなまえに言えば、なまえは大袈裟にため息を吐いて起き上がった。「倫太郎のケチ」ちょっとくらい教えてくれたっていいじゃん、なまえはそう口を尖らせて、立ち上がって居間から出て行こうとする。「どこ行くの」そうなまえの背中に問えば、「倫太郎が教えてくれないから、化粧落とすの」と拗ねた調子の返事が返ってきた。なまえはそう言って己のせいにしてきたのであるが、別に自分は悪くないだろうと思うと自然とため息が出た。
2020-11-21