小説

魚のほね

 帰宅して手洗いうがいを済ませてすぐ、なまえに促されるままに居間に迎え入れられた。「帰ってくるの待ってたんだよ、もうおなか空いた」なまえはもうすっかり待ちくたびれたような顔をして、己の顔を見ていた。「先に食べてたら良かったじゃん」そうなまえに言ったのであるが、「倫太郎と一緒に食べたかったんだよ」と返されてしまえば、これ以上何も言うことはできなかった。それに、なまえに己と一緒に食卓を囲みたいと言われることは、悪い気がしなかった。「ごめんね」待たせたことをあやまると、なまえは「いいのいいの」と言った。二人で食卓を囲むようにテーブルについたあとで、なまえが炊飯器の蓋を開ける。たきたての艶々のごはんが炊飯器の中にあるのが見えた。

「倫太郎はごはんの量どれくらいがいい?」
「自分でやるからいいよ」
「わたしはどれくらいがいいって聞いてるの」
「……いつも通りかな」
「ちょっと多めだ」
なまえの食べる量よりは多いね」

人の話を聞かないなまえが、茶碗にごはんをよそってくれた。「こんな感じ?」「うん」「はい、どうぞ」「ありがとう」なまえから茶碗を受け取って、味噌汁の隣に置いた。既にテーブルの上に並べられた香ばしい香りのする焼き魚と、白米と味噌汁に、食欲が刺激されるような気がした。

「これ、昼に言ってたやつ?」
「うん」

昼間に、なまえから旬の魚が安く買えたことを喜ぶ連絡と共に、この魚煮ても焼いてもおいしいらしいけど、どっちにする?と聞かれたので、焼き魚がいい、と返事をしたことを食卓に並ぶ焼き魚を見て思い出した。ふたりぶんのごはんをなまえがよそったあとで、二人で手を合わせて「いただきます」の挨拶をする。「塩焼きにしてみたけど、塩足りなかったらかけてね」なまえはそう言って塩コショウをテーブルの上に置いた。「ありがとう」そう、お礼を言ったのちに、魚の太い骨に沿うように箸を入れて身をほぐした。背骨から先に向かって広がる骨の向きに沿ってさらに箸を入れて、身を少しずつ崩すように骨から外してやると、魚の身が綺麗に外れた。良く締まった魚の身と、絶妙な塩加減がちょうど良くて美味しかった。骨も外しやすくて食べやすい上に美味しい魚というものは良いな、と思いながら魚を食べていると、向かいに座ったなまえの視線が気になった。己の皿の上と、己の顔を凝視するように、なまえは己の箸の動きを目で追ってはなんだか分からないような顔をしている。なまえのその動きは、アリの巣を観察している子どものようにも見えた。

「なに見てんの」
「倫太郎がごはん食べてるのを見てる」

己の箸先と己の顔とをジッと見るなまえに向けてそう問えば、なまえから至極まっとうな回答が帰返ってきた。確かに、なまえが己の食事をジッと見ていることは知っているのであるが、己の言いたいことはそう言うわけではない。なまえの視線がこちらに注がれ続けるのでどうも箸を動かしにくくて仕方がなかった。「食べにくいからやめて」そう、なまえに言えば、なまえは「見てるだけじゃん」と返してきた。そのなまえの視線がうるさくて食べにくいんだよ、と言ってみたけれども、なまえはこちらの気など少しも関係ないようで、「気にしないで食べてよ」と言った。だから食べにくいって言ってるんだろ、と言ったところでなまえは話を聞いてくれそうになかった。

「なんでそんなに見てるの」
「倫太郎の箸の使い方がきれいだから」
「そう?」
「うん。魚の身も綺麗に取れてるし」

己の皿の上に載った魚は、魚の表と裏の身をすべて剥がし終えたため、皿の上で身と骨とに二分されている。一方で、なまえの目の前のお皿に乗った魚は一切手が付けられないまま、きれいな姿で皿の上に乗っていた。なまえは魚に未だ手を付けていないようで、もしかしたら己が食べているのを、いただきますの挨拶をしてからずっと見ていたのかもしれない。「倫太郎」なまえはそう己の名前を呼んだあとで、なまえは魚の乗った皿を己の方によこしてきた。

「わたしのもやって」

なまえの皿の上に載った魚と、なまえの顔とを交互に見る。なまえが甘えてお願いをしてくるときの、ちょっとあどけない子供のような表情で己の顔をジッと見つめていた。その表情はカワイイものであるけれども、なまえのおねだりを素直に聞いてやるほど己も良い人ではないので、「やだよ」となまえに言った。魚の身をとることくらいなまえにだってできると思ったし、何よりなまえの分まで己がすべて身をとってやるのはけっこう、面倒だと思った。しかしながら、なまえは首を横に振って「いいえ」と言うだけで、己に魚の身を取らせようとするのであった。己に魚の身をとるようにお願いをしているのがなまえで、それをやりたくないって言っているのは己であるにも関わらず、何故か己がなまえにお願いをしているような気持ちになっているのは不服だった。

「倫太郎みたいに骨外せないもん」
「絶対嘘でしょ」
「ほんとだよ」
「ちょっとやってみてよ、見ててあげる」
「え~」
「なんでそんなに嫌そうなの?」
「倫太郎絶対笑うじゃん」
「挑戦することも大事だよ」
「……」

渋々といった顔で、なまえは皿の上に載った焼き魚に箸を伸ばす。焼き魚の背骨がきれいに見えているおかげで骨が外しやすい魚であるに違いないのであるが、なまえは背骨ではなく、魚の端のほうに箸を入れてしまった。端から箸を入れると身と一緒に骨まで取れちゃうじゃん、と思いはしたものの、なまえが大真面目な顔をして下手な魚の骨外しをしているのは面白かったので、黙ってそれを見ていた。「難しくない?」魚の身がフレークのようになってしまったのを己に見せながら、なまえはそう言った。

「何が難しいの」
「魚の身を骨から外すのが難しい」
「できるできる、大丈夫だよ」

そう言ったのは良いものの、なまえの皿の上の魚は随分とボロボロになっていた。綺麗に身が取りやすい魚であるにもかかわらず、である。箸を魚の骨の先の方に入れてしまったせいで、魚の背骨にくっついていたはずの太い骨が身とともにバラバラに外れていて、骨ごと剥がされてしまった魚の身が皿の上に載っている。身と骨とが混ざっているせいで、随分食べにくそうな形になってしまったなと自分でなまえにやらせておきながら、そういうことを考えていた。太い骨を避けたときに、太い骨に残った魚の身がすこしだけもったいない。綺麗に取れればそこも食べれたのにな、と他人事のように思ってなまえの皿を見ていると、「倫太郎」となまえから呼ばれた。なまえのぼろぼろの皿から顔をあげて、なまえの顔を見ると、なまえはじとりとした目で己の顔を見ていた。

なまえ骨外すの下手?」
「……」
「ごめんって」

なまえはそれ以上何も言わなかったけれど、なまえの視線は己のことを責めていた。

「……やっぱりお皿かして」

だから言ったじゃん、とも言いたげな視線を寄越すなまえのことが居た堪れなくなってしまったので、そうなまえに言うと、なまえは無言で己に皿をよこした。

なまえ、不器用すぎない?」

まだ身のしっかりついている背骨の部分に箸を入れて、身を外してゆく。太い骨の流れに沿って箸を入れてやれば随分と楽に骨から身が外れるものなのであるが、なまえの骨の外し方を見ているとこの魚の骨を外すのも、なまえにとっては難しいのかもしれないと思う。煮魚の方が骨が外しやすかったかも、と焼き魚を選んでしまったことを少しだけ申し訳なく思った。

「倫太郎すごいね」
「凄くないよ」

細かい骨は横に外してやって、身と骨をわけて皿の上に置いてやれば、なまえが骨を外していたころよりは幾分か食べやすい形にはなったと思う。細かい骨が残っているのが見えるけれど、よく噛んで食べれば良いと思ったのでそれはよしとした。

「綺麗に身が外れてる」
なまえが下手過ぎるだけだよ」
「いいや、倫太郎がうまいだけじゃない」
「いや、なまえが下手なだけだよ」

もしかして、倫太郎とわたし、使ってる箸が違ったりする?となまえが言い出した。箸はつい数日前に買い物に出かけたときに夫婦箸として買ったものなのだから違いは無いはずである。「同じところで箸買ったじゃん」そうなまえにいうのであるが、なまえは自分の持っている箸と、己の持つ箸とを見比べて渋い顔をしていた。

「倫太郎の箸にだけ変な効果があるかもしれないじゃん」
「ねえよ」
「魚の骨がきれいに外れる効果とか」
「あるわけないだろ」
「だってわたしがやったときは全然身が外れなかったよ」
「骨の流れに沿って箸入れたらだいたい綺麗に外れるじゃん。端から入れるからボロボロになるんだろ」

なまえは自分の目の前の皿をマジマジと見つめる。魚の身と、骨とが綺麗に外れている部分(己が外した部分である)と、骨とが混ざっている部分を眺めたのちに、己が何を言っているのかわからないような顔をして、己の顔を見ていた。何その顔、そうなまえに問えば、なまえは眉間にしわを寄せて、己に口を開いた。

「骨の流れって何?」
「……」

なまえの目の前にある、骨だけになった魚の骨を指さすと、なまえは己の指先をジッと見ていた。

「ここが背骨」
「うん」
「骨はここから先の方に向かって生えてるじゃん」
「うん」
「だから箸はこうやって入れる」
「そうしたらどうなるの」
「骨の流れに沿って綺麗に外れる」
「へえ!」

なまえはそう、初めて理解したような顔をして己の顔を見ていた。「倫太郎すごいね」そうなまえは言うのであるが、それはなまえが知らなすぎるだけのことである。「本当に分かってる?」そうなまえに問うたのであるが、なまえは「多分、わかったよ」と言った。

「本音は?」
「倫太郎に手伝ってもらったらいいかなって思ってる」
「俺絶対次やらないからね」

そうなまえに言えば、なまえは「でも倫太郎やってくれるから大丈夫」と言って笑っていた。どこからその根拠のない自信が来ているのかは分からないが、なまえがまた同じようなことをやっていたらたまらず横から手をだしてしまうのだろうなとも思った。

「明日も焼き魚にするからね」
「人の話聞いてる?」
「ううん」
「聞けよ」

2020-11-14