小説

どうしようもない話

「お願いだから倫太郎は誰のものにもならないで」
「はいはい」
「ここにいて」
「いるいる」

なまえの病気は今に始まったことではない。帰宅するなり、着ていたジャケットを脱ぎもせずになまえは居間の絨毯の上に転がって、ソファに座っている己の顔を見上げていた。転がったなまえのジャケットに、絨毯の毛がくっついているのを見て、部屋の掃除機掛けが甘かったかな、と思いながらなまえのジャケットを見ていた。服をクリーニングに出しに行くのは己の仕事であるから、仕事を増やしてくれるなと言うのが自分の思いである。しかしながら、その思いは毎度、なまえには届かない。

「ねえお願い、誰のものにもならないって言ってよ」

そう言って泣きついてくるなまえの話を適当に聞き流しながら、自分のスマートフォンを操作する。なまえが完全に拗ねてしまっているのを横目に、SNSを開いて投稿を遡った。丸一日SNSを見ないだけでも結構な数の投稿で画面が埋められるものである。休日のせいか、学生時代の友人たちの投稿も今日は結構多かった。その中に、なまえの投稿があった。丁度今から四時間ほど前に更新されたなまえのSNSを眺める。友人と出かけると言って出かけたのが今日の昼前のこと、己らの住む家の最寄り駅から二駅ほど電車で下ったところにできたらしい新しいカフェに出かけることを、なまえは心の底から楽しみにしていて、浮かれ気味にそのことを話していた。なまえが食べてきたのだろうお洒落なランチメニューの写真に、既読の代わりの”いいね”をつけておいた。写真に写り込んだ女性の腕を見る限り、なまえは多分、例の友達と会っていたのだろう。

「楽しかった?」
「凄く楽しかった。ランチも美味しかったしデザートも最高だったから倫太郎も今度一緒に行こう」
「俺が行くにはおしゃれすぎるように見えるんだけど」
「大丈夫だよ、ちょっと浮いてるくらいがいいじゃん」
「浮くのが嫌なんだってば」

倫太郎は大きいから何もしなくても浮くじゃん、となまえが失礼なとこを言うので、寝っ転がったままのなまえを、つま先で軽く小突いてやった。「痛い」絨毯の上に転がったなまえが、「倫太郎」と己の名前を呼んだ。

「なに」
「悔しい」
「はいはい、また始まった」

なまえに今日の詳しい話を聞こうとするとなまえの長い話に付き合うことになってしまうので、なまえに自分から問うことはしなかった。なまえが話し始めたら聞けばよいだけのことである、自分から地雷原に突っ込んでいくことを自らする必要はない。そう思っていたのであるが、なまえが口を開いてしまったので話を聞かざるを得なくなってしまった。先日、友人が婚約したという話を聞いていたので、今日友人と会って話してきたことも、多分それにまつわることなのだろうと言うことは、なまえの口から聞かずとも分かった。お出かけが楽しかったのは事実で、なまえとしては満足なのだろうけれども、帰宅した今、なまえの心を占めているのは、友人に対して言うことができなかった友人の恋人に対する嫉妬心なのだろう。なまえの友達は、なまえの友達の人生を歩んでゆく。こうして、なまえが己の前でぐずっていることなど少しも知らないまま、婚約相手と結婚してしまうのだろう。そもそも、他人であるなまえが勝手に入れ込んでいるのが異常なだけで、人など皆、他者の都合など知らぬまま自分の人生を歩んでいくものである。
 なまえは絨毯の上で伸びながら「倫太郎~」ともう一度、己の名前を呼んだ。「なに」先ほどまで画面を眺めていたスマートフォンをソファの上において、絨毯の上で座礁しているなまえの方に視線を向けると、涙目のなまえと目が合った。

「結婚式、わたし泣くかもしれない」
「もう今すでに泣いてるじゃん」
「違う。これは悔し涙」
「ははは」

人のものになっちゃうってどんなにつらいことか分かる、となまえは己に向けて言った。なまえの気持ちは全く理解できないので、「わからない」となまえに言うと、なまえは不満そうな顔をして己の顔を見ていた。少しむくれているときのなまえの顔は、好きだ。不満そうな顔をして己をジトリとした目で見てくる時のなまえの、己に対する不満で頭がいっぱいになっていそうなところが良いと思う。少なくとも、なまえがそういう顔をしているときは他の誰でもない己について考えている時であることが分かるからである。自分で思う以上に己は、なまえのことが好きなのだと思う。なまえと付き合い始めてそれなりに時間が経っている筈なのであるが、なまえのことは未だによくわからない。少なくともなまえが己のことを好いているのは分かるけれども、なまえの好きは友達に対する好きの方が強いように思うのであるが、なまえの抱く己に対する"好き"という想いが友達に対する好きの延長線上にあるものか、はたまた友達に対する好きのままなのかを問うだけ無駄なようにも思う。別に、なまえが友達に対する好きを己に抱いていても、なまえの、友人に対する好きの重さを見ていればそれも悪くないと思う。なによりも、好きというものが友達に対するものと恋人に対するものとが別物であるかどうかも、考えれば考えるほどよく分からなくなってくるので、考えるのはもうやめた。

「結婚しないでほしい」
「はいはい」

友達も倫太郎も、わたしをひとり残してどこかに行ってしまうんだ、となまえは言って己に背を向けてしまった。完全に拗ねてしまったなまえの小さな背中を眺める。なまえと今付き合っているのは俺なんだけどな、と思うけれども今のなまえはそのことすらも忘れていそうな気がしてならない。

「どこにも行かないって言って」
「……」

なまえは絨毯の上を器用に転がって己の足元に寄ってきた。踏みそうだし服もぐしゃぐしゃになるから絨毯の上で寝ないでと言っても、今のなまえは聞かないだろう(前も結局ジャケットをシワにしてしまっていたので、すぐにクリーニングに出す羽目になってしまった)。またなまえのジャケットをクリーニングに出さなければならないのかと思うのであるが、傷心中のなまえは己がなにを言っても効かなくなってしまうから、言うことを聞かせることも、なまえのジャケットのこともなまえが絨毯の上に転がった時点で初めから諦めている。

「……倫太郎どこにもいかないで」
「なんで急に俺なの」
「友達が結婚して、倫太郎も居なくなると思ったら耐えられなくなった」
「俺がどこかに行くって?」
「どこかに行っちゃうかもしれないじゃん」
「今お前と付き合ってるのは俺なんだけど」
「将来は分かんないでしょ!」

なまえはそう言って足にまとわりついてきた。重いから退かそうとしたけれどもコアラみたいにくっついて一向に離れる気配が無かったのですぐに諦めてしまった。

「何、プロポーズでもしてるつもり?」

そう、己の足元にまとわりついたままのなまえに言うと、なまえは「ハァ?」と呆れたような顔をして己の顔を見ていた。だって、将来は分からないでしょ、とか言ってくるってことは俺とずっと一緒に居たいってことじゃないの、そう思ってなまえに問うてみたのであるが、なまえはそういう意図を含んでいないようであった。なまえは時折そうやって思わせぶりな態度をしてくることがあるけれども、なまえの根本に小学生の精神のなまえが居るということを、なまえと過ごしていると忘れてしまうことがある。なまえの言う、好きだからずっと一緒に居たいという感情は本当のことであっても、本当に一緒にただ居たいというだけで、なまえの言葉にそれ以上の他意は含まれていないのである。

「……やっぱり忘れて」

結局、なまえとの結婚のことを考えているみたいになってしまって、自分で墓穴を掘ったような気がして恥ずかしくなったのでなまえにそう言ったのであるが、なまえはキョトンとした顔をして己の顔を見上げているだけであった。そんな、無垢な目でこちらを見てくるな。「……ああっ」なまえは言われて気づいたのか、大げさに驚いて、己の足から離れていってしまった。そうして慌てて起き上がって、己の目の前でおもむろに正座をし始めた。

「……」
「なんで正座してんの」
「……なんか、いたたまれなくなってしまって」
「いたたまれなくなってるのは俺だよ」

なまえの視線が左斜め下に下がってゆく。俯いてしまったなまえの表情は、己からは見えない。なまえのほんの少しだけ赤くなった耳だけが、なまえの髪の毛の間から見える。今更になって照れるなと思うし、恥ずかしいのはどちらかといえば己の方なのであるが、なまえは多分、少しもそのことに気づいていないのだろう。

「そっかあ、倫太郎と結婚したら倫太郎はどこにも行かないんだ」
「改めて言われると恥ずかしくなるからやめてくれる?」
「ふふふ」
「なに嬉しそうにしてんの」
「嬉しいもん」

だって倫太郎はわたしと一緒にいてくれるんだ、となまえは言った。なまえが含みのある笑みを浮かべて、己の顔を見上げていた。「……その顔やめて」なまえにそう言えば、なまえは「ふふふ」と嬉しそうにしていた。「お前の気と俺の気が変わらなければ、いずれね」となまえに言えば、なまえは「そんなに簡単に気が変わるかな」と言って笑っていた。
2020-11-03