小説

続続・嫉妬の話

 一時間残業して帰ってくるとなまえから連絡が来てから丁度二時間後、二十時になろうとする時計の長針が、十二の数字を通り過ぎるほんの少し前のこと、仕事を終えたなまえが家に帰ってきた。玄関のドアがバタンと大きな音を立てて開かれたのちに、玄関先でなまえが履いていただろう通勤用の靴を乱暴に脱ぐ音が聞こえる。いつもならば、なまえの「ただいま」のあいさつが先に聞こえてきて、それに対して「おかえり」と返すのが常であるのだが、今日はなまえの「ただいま」のあいさつはいつまでたっても聞こえてこなかった。その代わりに、なまえがフローリングの上をバタバタと音を鳴らして歩いてくるのが聞こえる。居間のソファの上でスマートフォンの画面を眺めながらなまえの立てる物音を聞いていた己は、スマートフォンの画面から顔を上げずに、「床響くから静かに歩いてね」となまえに言ったのであるが、なまえからの返事が返ってこない。なまえが家に帰ってきてから、一言も言葉を発していない状況を不思議に思って思わずスマートフォンの画面から顔をあげてなまえの顔を見ると、なまえは憔悴しきったような顔をして己の顔を見ていた。

「何かあったの?」
「たすけて倫太郎」

なまえは持っていた鞄を居間の絨毯の上に静かに置いた後に、「どうしよう、倫太郎」と言って己のそばに寄ってきた。そうして、己が腰かけているソファの隣に座るのではなく、絨毯の上にへたりこむように座り込んでしまった。

「なに、仕事でなんかやった?」

残業しなければならないと言うくらいだから仕事で何かトラブルがあったのかもしれないと思ってそう彼女に問うた。なまえは、己の質問に対して首を横に振った。「仕事もトラブってたけど、そういうのじゃない」なまえはそう言って、己の顔を絨毯の上に座ったまま、見上げていた。なまえの深刻そうな面持ちは、まるで人間一人を殺してしまった後のようにも見えた。さすがに人を殺したとか言われたら素直に自首することを勧めることくらいしかできないけど、と思いながら、なまえの言葉の次の言葉を待った。

「……あの子いるでしょ」
「あの子?」

なまえが、女の子の名前を己に向けて言った。彼女がその名前を出した瞬間に、なまえに対する心配がすべて杞憂に終わったことを悟った。なまえが出した名前は、なまえが執心している彼女の友達の名前である。なまえがその友達に彼氏が出来るたびに荒れるに荒れまくり、そのヤケ酒に付き合わされていた日々が今ではもう、かなり懐かしいと思うほどである(なまえの友達に彼氏が出来た時もなまえは暴れていたが、それ以外にも彼氏の話をされるたびに荒れていたのである種の風物詩のようなものでもあった)。それがきっかけで己となまえが付き合い始めることになったのは、下心が丸出しで少しも恰好が付かなかったのであまりきれいな思い出ではないが、決して悪い思い出ではないと思う。あれから、なまえとは関係が長く続き、付き合い始めてからちょうど一年後のなまえの転職を機に、引っ越しをした。共有スペースの居間がひとつと、個人の部屋が一つずつ当たるような部屋を借りて、なまえとふたりでの生活が始まった。なまえとの同棲は、想像していた恋人との同棲というもののように少しも甘ったるい空気のあるものではなく、どちらかというと親しい友人とのルームシェアのような気楽さのあるものであったが、なんだかんだでなまえとは上手く生活が出来ているので悪くないと思う。部屋の片づけがあまり得意ではないなまえの代わりに部屋を片付けるのは己の仕事で、己が出来ない料理はなまえにやってもらうというように、自分が出来ないことと相手が出来ることが上手く組み合わさった結果、かなり順調な生活が続いていた。その、己となまえの関係の始まりのきっかけにもなったその友人の名前が出てきた瞬間に、己はすべてを察してしまった。なまえの難点とも言えるあの話が始まるのだということを察するのは本人の口から出てくる前から想像することが出来た。

なまえの友達のあの子?」
「そう」

なまえは大真面目な顔をして、スマートフォンの画面をこちらに見せてきた。チャットアプリのシンプルな画面が、己の目の前に広げられる。相手の名前は、なまえがよく話すあの友達の名前が書かれていた。

「上から読んで下にさげていっていい?」
「いいよ」

なまえにスマートフォンを借りて、チャット画面をスクロールする許可をもらって読み進めていく。『なまえ!』『どうしたの、久しぶりじゃん』『最近元気してた?』『うん、それなりに』簡単な挨拶と世間話から始まって、近況の話題が長く続いた後に、相手からの『報告があってね』で急に話の雰囲気が変わってしまった。『どうしたの』『彼、いるでしょ』『彼氏?』『そう』『どうしたの?』『実は、婚約しました』『そうなんだ!おめでとう!』……スクロールを最後まで下がってチャットの終わりまでを読んだ。『婚約しました』のメッセージが送信されるまでは、一分以内にメッセージを返していたなまえが『おめでとう』の返事をするときだけ返信に十分以上掛かっているのを見る限り、なまえのショックが計り知れなかったことが簡単に想像がついて、なまえには申し訳ないが笑いそうになってしまった。「へえ、婚約したんだ、おめでとう」そうなまえにスマートフォンを返して言えば、なまえはむすっとした表情で己の顔を見ていた。何が言いたいか分からないとは言わせないとでも言うような表情が可笑しかった。

「え、なに、またなまえの病気?」
「病気ではない」

なまえは大真面目な顔をしてそう言った。大好きな友達が知らない男に取られてしまったとなまえはよく荒れていたけれども、あれは未だ健在である。なまえに彼氏でも出来れば気にならなくなるのではないかと思っていた時期も無かったわけではないが、なまえと付き合い始めた後でも友達の彼氏に嫉妬して荒れていたので、これはもう一生治らない病気のようなもので、時々こうして発生するなまえの熱烈な嫉妬は発作のようなものだと思えばいいと納得してしまった自分が居るのもなんだか嫌だった。
「友達の婚約を素直に祝えない自分が嫌だ……」そう言って、なまえは今の絨毯の上に寝転がってしまった。仕事に行って帰って来たばかりで、ジャケットも脱がないまま寝転がるなまえに、「服シワになるから起きて」と言ったけれども、何の効果もなかった。首を横に振って転がったままである。「クリーニング出しに行くの俺なんだから」と言ったところで今のなまえは傷心中なので少しもききやしないだろう。ソファから降りてなまえのそばに腰を下ろし、床に転がるなまえをつついてみたけれども、なまえは座礁したアザラシのように転がるばかりで何の返事もしなかった。

「……なまえ

そうなまえの名前を呼んでみたけれど、なまえからの返事はない。ううう、という唸り声のような声が聞こえた後に「おめでたいことだけどわたしは取られたという気持ちの方が強い」そうなまえはぼやくように言った。そもそもなまえの友達はなまえのものではないし、なまえなまえの友達に対してどういう感情を抱いていようが、なまえの友達はなまえの気持ちなど関係なしに彼女の人生を歩んでいくのは当たり前のことである。「でも『おめでとう』って言えたじゃん」そうなまえに言えば、なまえは顔だけをこちらに向けてきた。下から己の顔を見上げるように己の顔を見ている。なまえの長いまつげがほんのすこしだけ涙で濡れていた。「『おめでとう』くらいは言うよ」どんなに友達の婚約が嫌だと思っていても、となまえはぼやいた。「……言えたならいいじゃん」そう、なまえに言えば、なまえは目を伏せて「いよいよあの子があの男のものになるんだって思ったら悔しい」と言った。

「倫太郎は引く?」
「何に?」
「友達の婚約が素直に祝えないわたしのこと」
「友達の彼氏に嫉妬してることにはドン引きするけどもう慣れたよ」
「やっぱり引いてるじゃん」

なまえはそう言ってこちらに背を向けてしまった。なまえの綺麗に手入れされた髪の毛が絨毯の上に広がっているのを眺める。なまえの肩がちいさく揺れていた。まさかだけど泣いてる?そう思ってなまえに「泣いてる?」と問えば、なまえから「心で泣いてる」と言われてしまった。普段通りのなまえじゃん、と思ったけれども声には出さなかった。

「いずれ友達が結婚するときになまえは荒れるだろうなと思ってたから覚悟はしてた」
「なんの覚悟」
「荒れるなまえの面倒を見る覚悟」
「……」
「でも俺はなまえのそういうところは嫌いじゃないからね」

そうなまえに言うと、背を向けていたなまえが起き上がって己の顔を見た。「どういうところ」そうなまえは己に問うた。「なまえがそうやって友達の彼氏に嫉妬してるところ、たまに見るのは好きだよ」そう言えば、なまえは「さっき引いたって言ってたじゃん」と言った。なまえが友達の彼氏に嫉妬して荒れていること自体にはかなり引いてしまうけれども、嫉妬でめちゃくちゃになって泣きついてくるなまえのことは嫌いではない。しかしながら、それを言うとなまえに怒られそうだったので、それはさすがに言わなかった。
2020-10-25